【検証:】過去ログSpecial

【検証:近未来交通地図】 Special005
「通勤電車」の源流を分け入る
(2002/04/19〜26)

 本投稿は、【検証:】掲示板でもお馴染みの、さいたま市民@西浦和様より御提供頂きました文章を、読みやすく構成させて頂いたものです(なお一部文面を編集しております)。
 ちなみに本論分の伏線となっている議論にも合わせて目を通して頂きますと背景理解へ深みが増すことと思います。

「4扉近郊型」は是か
車両は優等と各停でわけるべき
「鉄道会社」の繁栄か、「鉄道」の繁栄か
<着席確保への努力/大都市圏における鉄道利用の特異性>
直通運転と始発駅乗車
「通勤電車」標準系の源流をたどる

 なお、【検証:】では掲示板投稿に限らず広く皆様からの御意見・レポート等を御紹介致します。自分ではホームページを持っていないけれど、意見が結構纏まっている…という貴方、各種ご相談に応じますのでお気軽に管理人までどうぞ!

下記内容は予告なしに変更することがありますので、予め御了承下さい。
当サイトの全文、または一部の無断転載および再配布を禁じます。


「通勤電車」の源流を分け入る(その1)(2002/04/19 01:09:01)

≫「通勤電車」標準系の源流をたどる ../log059.html

 和寒さん。みなさん。こんばんわ。
 いやいや、面白い話題を提供していただき、楽しませていただきます。
 今夜は久しぶりに少し電車の歴史をひもといてみましょう

 鉄道を利用するうえでの最大のバリアは「駅に行くこと」「切符を買わなければならないこと」という説もあり、そのうえで更に「座れない」がスタンダードときては、やはり問題は深刻だと思われてなりません。

 3つのテーマのうち、「切符」に関しては、スイカカードというブレイクスルーで突破しましたから、後は「駅へ行く」と「座れない」の2つです。前者は都市計画の問題になっていくと思われますし、後者については乗客の声(我々の対論?)と企業努力で解決するしかないでしょう。

 さて、明治中期に登場した電気軌道という乗り物は、鉄道ではなかったのです。それ以前都市内や蒸気鉄道駅と市街地を結んでいた馬車〜馬車軌道の仲間であると考えられていたのです。軌道は道路の一部で、法律や管轄官庁も道路を司る部署の管轄だったはずです。その上、「軌道」は鉄道と平行して建設しないという当時の政府の方針もあって、各地でも短距離の路線しかなかったはずです(京都駅〜北野天神・六郷橋〜川崎大師など)。しかし、電気軌道の発展性に社運をかけた阪神電車が、大阪〜神戸間の村や町を「道路」沿いに結び、みごと合法的に並行路線を実現し、このスタイルで開業した京阪電車など、各地で軌道ブームが起こります。
 明治末年の民営鉄道には、鉄道国有法にかからなかった蒸気鉄道の私鉄と軌道起源の電気軌道の2タイプの路線があったと言えます。
 大正バブルの時代には、両方のタイプの路線が各地で開業・延長し、また初期の政党政治も、現在の地方開発のための道路整備よろしく法律により新鉄道路線整備区間を乱発したため、様々な起終点の組み合わせの鉄道会社が乱立されました。その多くの企業には投機的なものもあり、実現したのはほぼ現在の私鉄各路線(廃止区間も含む)となりました。
 大正バブル期の首都圏での新規開業路線には、京成電気軌道、京王電気軌道、王子電気軌道、玉川電気軌道、京浜電気鉄道の北品川延長や神奈川延長(これは明治末年)鉄道院(国鉄)の京浜電車運転などがあります。「電気軌道」という企業名は、電気で動く軌道車両運行企業という意味ではなく、沿線町村への電気供給と軌道業の二足のわらじという意味です。当時はこれがハイテクな感じの企業名だったのでしょう。
 東京近郊のこれらの企業が立地していた地域は、東京市の密集地帯の周辺、現在の武蔵野線沿線的な様子の地域で、近郊といわれた地域でした。明治の末年までは、都心から5〜10km圏の山手線さえ森や畑の中を走っていたのですから、80年後の30km圏のようなイメージです。

 大正始めの東京の私鉄は、鉄道国有法にかからなかった東武線はまだ未電化で業平橋から蒸気列車、西武新宿線はまだなく、国分寺からの川越鉄道(これも蒸気鉄道)はマッチ箱客車とやえもん機関車の組み合わせ、東上線は新設の路線でしたが蒸気路線で、池袋よりも、王子電車が来ていた大塚のほうが栄えていた時代でした。所沢飯能へ向かう西武池袋線も新路線でしたが武蔵野鉄道という蒸気路線、京王線は甲州街道上の路面電車が府中までで、小田急や東横も無く、世田谷は大部分が農村地帯、その中を玉川電車が二子へ向かっていました。目蒲線池上線も建設中で池上線の方が蒲田から池上までできたところ。京浜電車が八つ山橋の南、北品川から神奈川までまだ海沿いの東海道沿いに走っていたといった様子だったわけです。
 このころの各社のダイヤは、東京ではありませんが阪神電車は阪神間90分程度かかっていたかと思います。そこで頻繁運転で長距離列車、貨物列車中心のダイヤで運転間隔の長い国鉄に対抗していたわけですね。有名な千鳥運行もこのころかと思われます。これは川島氏の著作をご参照下さい。京浜電車のダイヤについても吉本氏などの労作が各種出ております。
 京成線や京王線は押上や新宿といった市電の終点(すなわち人口密集地域の辺縁)から郊外への放射線ですから、始めは終点の町村(京成=柴又・市川、京王=調布・府中)を結ぶ等間隔のダイヤだったようです。大正時代後半、特に大震災以降は沿線の起点に近い地域の人口増加が顕著となりますから、起点に近い区間で増発が進む一方、これによって得られる収入をもとに路線延長が進みましたので近距離運行と長距離運行が分けられるようになります。近距離区間では2系統の運行がありますから頻繁な間隔となったことでしょう。また、密集地域の拡大と共に停留所も増設されたため、近距離系統は市電的な運行が行われたわけです。京成では押上〜柴又間、京王では新宿〜桜上水間など、戦前は路面電車並の停留場間隔の駅数だったようです。<参考文献は略>(つづく)

 今宵はこのへんで。乱筆ご容赦。

上記投稿への返信分ははこちら

(その2)(2002/04/20 01:55:36)

 和寒さん。みなさん。こんばんわ。第2夜です。

 さて、大正期も後半になりますと、バブル資金も行き先を失いはじめます。新規開業企業も概ね路線を張り巡らせた形になりますし、投機的な路線は採算が合わず、開業のめどが立ちません。そこで、既存蒸気鉄道が電化によって、旅客列車のスピードアップを図る動きが出てきます。また一方、長距離路線を一気に開業することで、乗客一人あたりの客単価を上げ、企業経営の業態や規模を拡大しようとする会社も出てきます。
 東京では京成が千葉・成田へ、東武が全線電化及び電化新路線を日光・宇都宮へ、武蔵野が電化の上、吾野・村山貯水池へ、川越鉄道が電化の上、電化新路線を東村山から高田馬場へ、京王は府中から八王子へ、目蒲電鉄が渋谷・横浜へ、京浜は横浜から横須賀へ、鉄道院は中央線・横須賀線の電化といった路線拡張や施設改良を図りました。
 特記すべきは小田急で、始め東京市内の地下鉄を構想していた企業が、イギリスのメトロポリタン鉄道(ロンドンの地下鉄を経営していた)の郊外路線延長と同じスタイルで長大な郊外路線を先に免許、開業してしまったというのが新宿小田原一気開業だったわけです。その後すぐに江ノ島延長も行いましたね。
 大阪では、阪神、京阪の都市間軌道に加え、大正バブル期の新路線として箕面有馬(阪急宝塚)線、大阪電気軌道(近鉄奈良)線、といった新規軌道線の開業があり、既存蒸気鉄道の南海や高野登山、大阪鉄道(近鉄南大阪)線は大正時代後半に電化、新路線開業をすすめました。また、長距離路線の開業としては、京阪による新京阪(阪急京都)線、大阪電気軌道による参宮急行線、箕面有馬による阪神急行(阪急神戸)線、神戸有馬(神戸電鉄)線、神戸明石による明石姫路(山陽電鉄)線、南海による山手(阪和)線があります。
 名古屋では愛知電気鉄道による豊橋延長、伊勢電鉄の桑名延長があります。
 福岡では九州鉄道(西鉄)線の開業、仙台では宮城電鉄(仙石)線の開業など、このようにして東京同様現在の鉄道路線の形態が完成していく時期となりました。
 そして、東京では大正バブルを崩壊させた関東大震災後の不良債権処理の行き詰まりから金融恐慌が起こり、世界大恐慌に対して金解禁策を取ったことで経済は一気にデフレに陥るという一連の経済政策の中で、震災復興・失業対策の公共事業として国鉄路線の整備も進みました。万世橋東京間の煉瓦アーチ高架線や神田上野間の高架線、お茶の水両国間の高架線、秋葉原の水陸連絡貨物駅、田端、新小岩、品川の貨物操車場、山手貨物線、中央線の急行線、赤羽大宮間複々線化、横浜駅の高島町から平沼への移転、大阪では京都明石電化複々線化、吹田操車場、神戸市内高架化、大阪駅・城東線電化高架化などなど現代私たちが活用している鉄道インフラは、この時代のものですね。

 「本格的な鉄道」すなわち蒸気機関車牽引の客車列車(注:小田急は最初から電化)に対して、差別化を図らなければならなかった(しかも当時としては低位の方向に)がゆえの「路面電車」スタイルであったとするならば。

 はっきり言って、現在へ続く車両スタイルはこの時期に確立したと言ってもいいかもしれません。蒸気鉄道由来の路線は、国鉄風のマッチ箱客車か小型木造ボギー客車で旅客輸送を行っていたはずですが、このアコモデーションはもちろんクロスシート(板張り座席)で、むしろ、前述したように優等客車の方が座布団のロングシートだったかもしれません。
 ところが、電化に際して電車を導入するときに、サービス向上の意味を含め優等客車に習って座布団のロングシート車を設計してしまったという事があったのが大きかったかもしれません。
 ただ、昭和に入って、鋼体化が進み、優等客車の車体サイズが大きくなり、転換クロスシートなどが採用されると、京阪や南海、阪急、参宮急行、東武の特急車、湘南、武蔵野、京王などでも座布団のあるクロスシート車の高速列車で国鉄に対抗する事となりました。昭和10年頃の話ですね。
 まあ、蒸気鉄道由来や新規長距離開業の郊外路線の一般車はロングシートでも立ち客がいなかった程度の輸送量で、軌道由来の近郊路線では短距離区間を頻繁に停車する路面形の車両で立ち客が容認されていたというのが戦前期の輸送のイメージです。

 例としては、京成・京王は前述しましたが、奥の深い東武線でも浅草雷門から西新井大師前ぐらいが近郊区間で単行電車5分間隔ぐらいのダイヤだったようです、西新井から先へは数両の列車スタイルの電車が1時間間隔ぐらいだったでしょうか。日光線と伊勢崎線がありますから、交互または併結で運行されていたようです。長距離用一般車両にはクロスシート車もあったはずです。同じように武蔵野鉄道では池袋〜豊島園、小田急では新宿〜登戸が近郊区間扱いだったようです。国鉄では中央線が中野まで、東北線は赤羽まで、総武線は市川までが近郊区間といって良かったでしょう。<参考文献は略>(つづく)

 お詳しい方、補足の方もよろしくお願いします。
 今宵はこのへんで。乱筆ご容赦。お休みなさい。

(その3)(2002/04/22 03:13:37)

 和寒さん。みなさん。こんばんわ。第3夜です。
 これまでの私の考えの復習をしてみましょう。

私:
 明治末期、…電気軌道の車両は小さなものでしたが、そのアコモデーションは、ロングシート(横型座席)だったわけです。・・・・・・
 …開業時こそ乗客も少なく「省線2等車並」の輸送機関だったはずですが、公共輸送機関として…ラッシュ時の詰め込みと閑散時の居住性の両立に横型座席は打ってつけとなったのでしょう。
 …甲武鉄道のお茶の水〜中野電化は路面電車各線の拡張として考えれば、路面電車スタイルの電車の大型版(それでも客車に比べ十分小さいのだが)が導入されるのは必然だったかもしれません。・・・・・・

和寒さん:
 →このへんを起点に連想してみて…京成や京急のような本格的な鉄道としての路線延長を具備している鉄道が、なぜに路面電車スタイルで始まったのか。…当時の速度で乗りとおした場合、さぞや居住性が悪かったのではと、推測できます。

私:
 路面電車由来の郊外電車は新交通システムとして、それなりに新しい接客設備を備えていた→板張り座席から座布団完備へ。輸送量は小さな車両のロングシート全員着席を想定していた。

  速度 運転間隔 座席 居住性
国鉄 早い 間隔長い 板張り 優等客車はよい
軌道線 遅い 頻繁運転 座布団 どの電車でも同じ

和寒さん:
 …並行路線のない(あっても離れている)東武・小田急・西武が「本格的な鉄道」として営業開始した事実を鑑みれば、ひょっとすると、と想像してみたくもなります。

私:
 
東武、西武(旧川越・武蔵野)は国鉄を補う蒸気鉄道に由来する路線で、蒸気時代は国鉄スタイルの車両やダイヤでサービスが行われていたが、大正以後、沿線の都市化と共に電車型のサービスの必要に追われ、軌道由来の路線と同型の車両を整備した。小田急は両方の要素を持った会社で、開業時期が遅かったため、新規開業と同時に両方のニーズに応える車両を電車で整備した。

和寒さん:
 「本格的な鉄道」すなわち蒸気機関車牽引の客車列車(注:小田急は最初から電化)に対して、差別化を図らなければならなかった(しかも当時としては低位の方向に)がゆえの「路面電車」スタイルであったとするならば。

私:
 「路面電車スタイル」は当時、決して低位のサービスではなく、むしろ当時の客車列車の方が一般客に対して速度以外の点でサービスは最低限であったと想像される。

 今夜はここからです。

 昭和戦前期も今から見て、太平洋戦争直前のころ(1930年代中盤)になりますと、日中戦争による軍需景気もあって、鉄道輸送のサービスも多様化していました。
 自動車の発達も現在とは比べものにならず、一般庶民は公共輸送機関のみでの移動が日常でした。
 鉄道輸送の形態も多様で、地域のニーズにあったスタイルが確立していたようです。東京なら、古いタイプの順に

マッチ箱客車 (旧川越鉄道:現在の西武国分寺線・流山鉄道)
小型路面軌道 (大宮川越電気鉄道・城東・王子・玉川電気軌道・江ノ島など)
市内路面電車 (東京市電・横浜市電・成田・八王子などの軌道)
蒸気遠距離鉄道 (国鉄の遠距離列車)
都市間連絡軌道 (京王・京浜・京成)
市内鉄道 (国鉄山の手・国鉄中央緩行・東京地下鉄)
郊外電車 (東横・目蒲・池上・帝都・湘南・西武:現在の西武新宿線・国鉄東北・中央急行)
電化中・長距離鉄道 (小田急・東武・武蔵野・国鉄京浜・総武・横須賀)

といったタイプでしょうか。もちろん同一会社でも重なっている要素はあります。中長距離鉄道の市内区間などは古い鉄道の路線でも軌道的な輸送が行われたということは前述の通りです。

 車両のタイプも結構別れていたように見えますが、車両運用の都合で混在していたのが現実でしょう。わかりやすい例としては小田急がありますし、多様だったのは東武かもしれません。国鉄もわかりやすかったかも。

小田急: 近距離(新宿〜登戸)用 =3ドアロングシート車
  長距離(小田原・江ノ島直通)急行用 =2ドアクロスシート車
  長距離各停用 =2ドアロングシート車
国鉄: 山手線・中央緩行線ほか =3ドアロングシート(30系・50系)
  中央急行線 =3ドアセミクロス(51系)
  横須賀線 =2ドアクロス(32系)
東武: 近距離用 =3ドアロング車
  長距離用 =2ドアロング車と3ドアセミクロス車、国鉄型木造客車
  特急用 =2ドアクロス車

国鉄の場合2等車がありましたから、ロングシート路線でも優等車が入っていましたね。

 その他の郊外電車や軌道由来電鉄線はおおむね3ドアロングシート車が東京の標準になったわけです。長距離鉄道由来の電鉄線のクロスシート車も車両数にすると少数派で、限定運用や季節運用に使われる機会が多かったかもしれません。京浜は湘南との直通のためにクロス車を揃えましたね。軌道由来の小型車の路線ですが、路線が長くなったということがあるでしょう。京王や京成のクロス車は数両にとどまったのではなかったでしょうか。

 そして不幸な戦争時代がすべてを混乱させ、破壊し尽くしてしまったのですね。
 戦争中は、電力も工場優先で、鉄道会社はそれなりに優遇されていたとはいえ、自家発電で沿線へ電力供給していた事業も国へ取り上げられ、軌道由来の企業は破綻するものも出てきました(京王・王子など)。限られた車両と電力で電車を走らせる窮余の策が、車体の大型化と4ドア化という結末でした。
 20m4ドアという「戦時標準型」電車がまず国鉄で運用されはじめ、それまでの2ドア車はドアの増設、座席の削減を余儀なくされ、ドアを増設されなかった2ドア車はロングシート化や地方路線への転属をされたのでしたね。
 戦争が終わって、終戦直後の混乱期には、戦争中よりエネルギーや食糧の事情は悪くなりましたから(昭和22年頃が最悪)ニーズにあった鉄道車両の生産などは出来ず、「戦時標準型」電車(それでも車両長によってバリエーションができたが)の生産のみが行われたのでした。ひどい例は、軌道由来の山陽電車で、姫路の広畑製鉄所輸送のため、12〜18m車の規格の路線へ20m車を導入したという乱暴な施策で、これをきっかけに施設改良が進んだのは結果オーライとはいえ、混乱期のなせる技かと感心します。比較的車両が大きそうな東武でも、当時標準は18mで、20m車導入にあたって浅草駅の急カーブを急遽直したのは有名な話かもしれません。
 この「戦時標準」20m車は国鉄では63型といわれ、いろいろなエピソードはお読みの皆さんの方がお詳しいと思いますが、このデザインが通勤型電車の、良くも悪くもその後現在までの60年に渡って継承される形となってしまったのでした。

 その「路面電車スタイル」が「通勤電車」の源流を規定したと考えれば、なんという歴史の皮肉かと、慨嘆ふかきものがあります。

 そうです。都市の中心部で、乗り降りの頻繁な路線を想定した室内サービスの車両が汎用型として、全国の様々な事情の路線へ画一的に導入されたというところに悲劇があるのです。さらに突き詰めると、私たちの不幸な都市計画の歴史とも重なってくるのですが、それは次回触れることにしましょう。<参考文献は略>(つづく)

 今宵はこのへんで。乱筆ご容赦。

(その4)(2002/04/24 01:07:42)

 和寒さん。みなさん。こんばんわ。第4夜です。
 今夜からは都市構造と通勤電車の関係について考察してみます。

 「将軍様のお膝元」であるところの我らが大江戸が拡大をはじめるのは、明治の声を聞くのと同時といってもいいでしょう。四民平等となって、居住の自由が拡大し、江戸時代から世界でもまれな人口100万を誇った東京市に全国から人々が集まってくることとなったのです。もちろん、封建時代、大名に従って江戸屋敷へ詰めていた武士たちもいたのですが、江戸の武家屋敷は広大で、武蔵野の森林を生かした屋敷だったのです。
 我々一般庶民は、いわゆる下町、現在の上野から芝あたりまでの間にびっちり詰まって住んでいたのです。上野より北は吉原田圃を隔てて千住宿、芝と品川宿の間は海岸沿いを東海道が通っていたわけです。中山道では本郷3丁目までが江戸の街で、その先は巣鴨や駒込の村になります。甲州街道では半蔵門から新宿までの間は、大名屋敷が続いていたりして、町並みは途切れていたと言っていいかもしれません。千葉街道も、両国橋の両岸は盛り場でしたが、本所、亀戸を過ぎますと田圃の続く湿地帯が市川まで続いていたのです。
 明治の「東京15区」はこの江戸の範囲を東京市としたもので、おおむね、山手線の1〜2km内側と、浅草〜錦糸町〜洲崎(東陽町)の線で囲まれた地域になります。明治の鉄道企業はこの密集地域のはずれにターミナル駅を置いたのです。日本初の鉄道の汐留駅は東海道沿いの密集地を避け、銀座の南のウォーターフロントの埋め立て地ですし、上野駅はまさに上野「山下」の寺町を移転させ建設されたのです。甲武鉄道の飯田町駅は神田と麹町の間の日本橋川沿いの武家屋敷だったはずですし、総武鉄道は両国橋そばの蔵屋敷などを活用した用地確保だったでしょう。東武鉄道の浅草(業平橋)駅も北十間川沿いの田圃などに敷地を確保したものです。

 中央集権国家の建設と鉄道路線の全国への拡張は、東京へ全国の富や物資が集まり、また運び出されるという社会構造を造ったわけですが、人口の集中によって東京の市街地は刻々と拡大する事となりました。
 はじめ、馬車軌道で開業した東京市内の路面軌道ですが、その路線は盛り場でもあり、荒川水運のターミナルでもあった浅草から上野山下、広小路、万世橋、日本橋本町、京橋、銀座、新橋汐留と結んだものでした。日本橋本町から馬喰町、浅草見附、蔵前、雷門という路線もでき、循環するようになったといわれています。これを本線として軌道は市内各地へ延びていきました。動力が馬車から電気へ変わって、車体も拡大し、「座布団のある」乗り物として多くの人々が日常的に使うようになりました。そのため、日露戦争後の料金値上げ反対の焼き討ち騒動や、大正昭和と時代が下がると乗務員の労働争議が起こるなど市民への影響力が強まります。
 この路面電車で浅草から新橋まで乗ってもおそらく1時間程度で着いたでしょう。乗客の流れは、途中の上野や神田、日本橋、銀座など入れ替わりも多く、立って乗っても苦にはならなかったでしょう。
 ただ、当時の流行歌にも歌われたように「東京名物満員電車」の様子は東京の経済活動の活発さを表してはいたものの、当時のデッキにぶら下がっての通勤は現在私たちが論議している問題を含んでいたのです。

 その路面電車も、民営から市営となって、市街地を抜け出し、当時郊外だった山手線の駅などへ到達するに当たり、また新しい使命を持つこととなるのです。新宿、大塚、渋谷、目黒などへ乗り入れると、こんどは郊外軌道の企業がそれらの駅から路線を延ばして、さらに住宅地を拡大する動きが出てきます。前述した玉川、王子、京王、京成といった企業がそれですね。現代でいえば、都心から30分程度の距離のターミナルの形成(横浜、大宮、立川、津田沼)ということになります。
 これらの郊外軌道の企業は、恒常的な乗客を確保するために、小規模な住宅地を造成するなどの工夫をします。
 この動きの中で、大規模な住宅造成を企画、実現したのが有名な「田園都市」株式会社でした。(つづく)<参考文献は略>

 今宵はこのへんで。乱筆ご容赦。

(その5)(2002/04/28 00:41:55)

 和寒さん。みなさん。こんばんわ。管理人さん。長くなって申し訳ないです。「西浦和ゼミナール」も第5夜となりました。

 大正時代、東京市街地が拡大していくのに大きな役割を果たしたのは、電鉄会社なのですが、そこには、明治以来の都市問題があったのです。
 江戸時代にも都市問題はもちろんあり、幕府の改革では「人返し令」などというずいぶん乱暴な法度もできたのですが、これは、資本主義と封建制度のまさに矛盾を表したものだったと言えます。
 明治〜大正の東京市内にも、江戸時代以来の庶民の生活の場として、長屋などの住宅街が下町といわれる低湿地帯に広がっていたわけです。前回の「東京15区」では、下谷・浅草・神田・日本橋・両国・深川・芝などといった地域が、庶民の零細な住宅や職場だったのです。
 しかし、この庶民の生活の場は、江戸時代の循環社会から明治のむき出しの資本主義社会にさらされると、あるところは商業地域へ、あるところはいわゆる細民街へと変わっていったのでした。当時の国政も、都市問題や都市計画については、新しい国造り、「先進国へ追いつけ追い越せ」でしたから、少ない予算の中で、国を代表するような施設の建設が優先されたといってもいいでしょう。また、軍事力の増強が至上命題でしたから、福祉への割り当ても限られたものだったと言えましょう。
不衛生な江戸時代そのままの細民街では、伝染病が蔓延したり、人々の生活はまさに最低限以下だったかもしれません。それでも皆たくましく生きていたのでしょうけれど…。
 これは、当時の世界各国の首都でも問題になっており、イギリスでは社会改良の一端として「田園都市論」が著されたり、問題について当時なりに深刻に考えられていたのでした。

 この「田園都市論」を日本に紹介、導入したのが我が埼玉の誇る偉人渋澤栄一先生なのであります。そして、これを企業という形で実現しようとしたのが、現在の東急グループの始まりとなる「田園都市」会社なのでした。
 この企業は、東京と横浜の中間の世田谷南部の農村地域に、「田園都市」を実現しようと広大な土地を買い、外国風のデザインの区画整理を行って、土地住宅の販売を行ったのでした。この地域の地名を取って、「田園調布」と名付けたのでしたね。
 この新都市(というより住宅地)へは、市電の終点で山手線の駅である目黒から新しく設立された郊外電車である、目黒蒲田電鉄が唯一の交通手段となったわけです。この電鉄会社の初代の車両は、路面電車型ではあるが、ホームから乗り降りする、ステップの少ない2ドアロングシートの小型車両だったはずです。
 その「田園調布」に当時住むことのできた人たちは、大正バブルで財をなした人に加え、大企業大商店の管理職や社員、高級な官僚や軍人などの公務員といった、当時社会的に認知されてきた「サラリーマン」といわれる人々だったと言えましょう。
 住宅地を開拓した電鉄会社も、電化製品(大正時代のですが)の完備したモデルハウスを建てたり、現代でいう所の建て売り住宅も用意して、日本で初めてともいわれる「田園都市」の実現に努力したようです。
 このスタイルの電鉄会社の副業は、大阪では箕面有馬電鉄の池田付近なども早い時期のものだったはずです。
 この商売は、東京では関東大震災という巨大なインパクトもあり、戦前の電鉄会社でも結構流行ったのです。成功した企業もありますし、失敗した企業もあります。王子電車では西ヶ原、尾久付近、京成電車では西千住、お花茶屋、市川付近など、東武では常盤台、武蔵野では目白付近、大泉学園、西武では井草井荻、一橋学園、京王では上北沢、小田急では成城学園を始めとする沿線全域、玉川電車では桜新町など、目黒蒲田東京横浜グループでは田園調布を始め、自由が丘、日吉、上野毛ほか沿線各地、池上電車では、桐ヶ谷付近、洗足池、石川台、京浜電車では鶴見総持寺付近などがありますね。もちろん、電鉄会社が直営で建設した住宅地もありますし、当時の区画整理である耕地整理の形態をとった地域もあります。いま上げたのは現在でも結構な高級住宅街になっている所もありますね。ただ、戦前は全く売れなかった住宅地も中にはあります。戦後、それも高度成長時代まで温存された所もあります。

 この電鉄会社が牽引した住宅地開発の手法は、現在まで続く都市開発の定石なのですが、実は本家のイギリスとは全く違う都市建設なのです。
 イギリスでは、住宅も工業地帯も管理機能も皆ロンドンに集中している問題を解決するために、「田園都市」が考え出されたのですが、このとき、かの地の人々はロンドン近郊に、小規模な住宅地域、産業地域、管理地域をセットにしたニュータウンといわれる「衛星都市」を建設したのです。そうすることで、ロンドンにある機能を分担させることとしたのです。そうです。かの地では「田園都市」やニュータウンとは「衛星都市」の事なのです。

 ここまでお読みになった皆さんはもう、おわかりでしょう。
 日本では、田園都市やニュータウンは、住宅地に特化しており、鉄道がなければ成り立ちません。これは、産業機能や管理機能が東京都心や海岸地域などに集中したまま、住宅地だけを郊外へ無秩序に拡大する政策が採られたからなのです。
 まあ、職住近接というより、職場は密集地、住宅は田園という希望の強い国民性がそうしたのかもしれませんが、交通運輸企業や自動車産業を強く意識した都市計画がこのような都市の姿を作り上げたということでしょうか。<参考文献は略…猪瀬氏の文庫本(東急と西武を取り上げた2冊)なんかは勉強になりますね。彼の改革の指向もわかります>(つづく)

 もう1晩おつき合い下さい。長文の上、乱筆平にご容赦。楽しい連休を。

(その6)(2002/04/28 23:41:39)

 和寒さん。皆さん、こんばんわ。そろそろまとめに入りましょう。

 戦前の電鉄開発の住宅地として、現在も良好な住環境インフラを残している東京の住宅地域としては、田園調布、日吉、常盤台、大泉学園町などがあります。また、既存の市街地に一体化してしまった住宅地域には、西千住などがあります。
 田園調布や日吉は、駅を中心として同心円と放射線状の道路配置に比較的大きな土地区画の住宅地を建設し、主要道路の沿線に小規模な商店街を配置する都市計画ですね。常盤台は、駅前の一定の区域に環状道路を配置し、小ロータリーを持った車寄せ型の路地や抜け道型の路地を配したり、環状道路の中央に植え込みを造るなど、凝った作りになっています。お近くの方は是非ご覧になってみて下さい。大泉学園町は、駅から専用道路(元は鉄道支線の計画もあったらしい)で入っていく碁盤目状の新住宅地です。駅から遠い上、池袋をターミナルとした武蔵野鉄道の開拓という事情が重なり、実際に住宅地化が進んだのは戦後の都市化まで待たなければなりません。
 これに対して、西千住は、京成千住大橋駅手前の旧隅田川河川敷に開発された住宅地で、駅の北側に碁盤目に住宅地を開発したものです。昭和に入って、新しい荒川放水路が完成し、隅田川の河原の一部を、洪水の危険が無くなったのを活用して、京成電気軌道が住宅地を開発したものです。青砥から上野への都心乗り入れ新線には現在より多くの駅があった(理由は前述)その中に「西千住」があったのです。現在は千住大橋駅手前の、上野〜堀切間唯一の踏切がある地点に停留場があった跡があります。現在では千住緑町の一部となり、典型的な職住混在の下町の一部になっています。

 戦後の都市計画は、この、「田園都市論」をモチーフにしたものの、「似て非なる」ものができ、現在へ至ってしまったと言っていいでしょう。
 戦中から戦後すぐの計画では、東京も、昭和8年の隣接町村合併で15区から35区(範囲は現在の23区と同じ)へ領域を拡大しましたが、その都市計画は、密集地帯の中の緑地確保や、隣接地域(埼玉・千葉・神奈川)との間の緑地帯を35区の中で確保されていたものでした。世田谷、板橋、足立、葛飾、江戸川の外縁部は農業地帯や森林を確保し、市川・松戸・草加・浦和・立川・町田などを衛星都市として機能を分散させる構想だったようです。
 昭和も30年代までは、この形態が維持されましたが、40年代に入りますと、全国からの人口集中に東京が耐えられなくなり、周辺部の住宅地化がなし崩し的に認められるようになりました。昭和46年に制定された現在まで続く都市計画の用途地域区分は、様々な事情から、東京周辺の農家の農地を住宅地へ放出させつつ、農業収入を都市化に伴う副業や転業で補わせる結果となってしまいました。

 戸建て住宅の供給には大いに役立った、この都市計画には、さまざまなスプロール化の原因を内包しており、現在の近郊のスプロールは、ある意味その結果だったのです。
 通勤電車においては、衛星都市と核都市の間を結ぶ車両やダイヤではなく、近郊住宅地域から都心への輸送のための仕組みが確立してしまいました。

 私たちが、各掲示板で話題にしている車両やダイヤの問題は、都市の関係や特徴といった構造と、輸送機関の能力のせめぎ合いを顕わしているものですね。
 近畿圏では核都市が分散している状態から、都市の中心を直行するための車両やダイヤの形態が確立したのです。
 首都圏では衛星都市が核都市とはならずに巨大核都市と接触、融解したため、都心や副都心へ広がる住宅地域から輸送するダイヤや車両の形態が完成したのが現状なのでしょう。
 もちろん、近畿でも大阪市街地の拡大が、隣接する住宅地域と連接、連続した事に対応するダイヤや車両の形態は見られます。
 私たちは、このような都市という様々な要素を持った人の動きの中から、特定の目的の人々の流れを拾い出し、鉄道輸送というシステムにはめ込み、その方法・形態を論じているのですね。

 ちなみに、アメリカ、ロサンジェルスでは、1900年代初頭から電気鉄道網が発達し、第2次世界大戦までに都市の基盤となりましたが、戦後、自動車産業の力で、電気鉄道はすべてバス化され、線路跡などに十車線のハイウエイが市内を縦横に張り巡らされてしまいました。その結果、早い時期から光化学スモッグや交通渋滞に悩まされてしまうことになりました。21世紀近くになって、再び公営軽鉄道による路線網構築が始まったのは歴史の皮肉と言ってもいいかもしれません。

 和寒さん、みなさん、私の話はこのへんにしましょう。あまり数が多いとは言えない、この掲示板での私の偏った意見の大元はこんな考え方にあります。どうぞ、何かのご参考にされて、今後ともいろいろ教えて下さい。

<参考文献>
・越沢 明「東京都市計画物語」
・猪瀬 直樹「ミカドの肖像」「土地の神話」
・「東京時刻表」
・鉄道ピクトリアル増刊号 各鉄道特集
・森口誠之「鉄道未成線を歩く」
・今尾恵介「地形図でたどる鉄道史」
・国土地理院地形図
・「トラクション ブック」機芸出版社
ほか

 乱筆ご容赦。スレッドを変えましょうか。

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2004.11.14 Update


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