【検証:】過去ログSpecial

「通勤電車論」三部作

国電の歴史から見る「電車」のスタイルの変遷
ロングシートの歴史から見た通勤電車のインテリアの変遷
「通勤電車論」外伝・「走ルンです」の悲劇

 本投稿は、【検証:】掲示板でもお馴染みの、エル・アルコン様より御提供頂きました文章を、読みやすく構成させて頂いたものです(なお一部文面を編集しております)。
 ちなみに本論分の伏線となっている議論にも合わせて目を通して頂きますと背景理解へ深みが増すことと思います。

「4扉近郊型」は是か
車両は優等と各停でわけるべき
「鉄道会社」の繁栄か、「鉄道」の繁栄か
<着席確保への努力/大都市圏における鉄道利用の特異性>
直通運転と始発駅乗車
「通勤電車」標準系の源流をたどる

 なお、【検証:】では掲示板投稿に限らず広く皆様からの御意見・レポート等を御紹介致します。自分ではホームページを持っていないけれど、意見が結構纏まっている…という貴方、各種ご相談に応じますのでお気軽に管理人までどうぞ!

【検証:近未来交通地図】Special006
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国電の歴史から見る「電車」のスタイルの変遷(2002/05/01 02:20:16)

 通勤電車のスタイルの変遷を、さいたま先生には遠く及ばないまでも私なりに考えてみました。当初、車両の変遷とアコモを並行して扱えると考えていたのですが、どうも、いわゆる「通勤電車スタイル」のアコモである多扉、ロングシートを一言で括るのは無理があるような気がしましたので、まず車両スタイルを中心に入ります。

●単純ではない車両の発展
 陸蒸気から発展した客車の系譜と、鉄道馬車・路面電車から発展した電車の系譜という二つの流れが絡み合ってきたのが日本の鉄道車両の流れです。
 実は陸蒸気の時代には馬車そのもののデザイン(横手座席だが各列ごとに扉がある、さしずめ遊園地の乗り物のような形態。英国ではまだ残っている)であり、その意味では出発点は一緒だったともいえます。

 客車のほうは、長距離運用と複数の車両の連結を考慮し、トイレの取り付けなど車内サービスに対応するための車両内のウォークスルー化に始まり、それが食堂車などのサービス提供車両の創設や、車掌乗務の都合から、編成全体の貫通化が前提となりました。車両もサービス水準の向上、そして着席乗車が前提であることから座席定員確保のために大型化の道を辿ってきました。

 一方の電車は、大型化した馬車レベルの路面電車スタイルが起源であり、御者台よろしく前後が吹きさらしの運転台と、中央通路に向かい合って座る長手座席(ボックスは幅員の問題もあり採用できない)というのがスタンダードでした。
 明治37年の甲武電車以来の院電→省線は、結局そのスタイルが大きくなり、17メートルまで長さが伸び、扉も中央に1つ増えた3扉になりましたが、京浜線電車登場が大正3年であり、昭和初年の電車運転区間は中央線(東京−国分寺)、山手・赤羽線、京浜線(赤羽−桜木町)だけであり、まさにインターバンというより市内輸送を専らにしていたといえます。

●鋼製電車の登場
 甲武電車以来の発展形だった電車の世界に、大正15年、鋼製の30系が登場しました。スタイルはそれまでの木造車と類似ですが、昭和4年の31系からは丸屋根など今に通じるスタイルを確立しています。このあたりはスハ32系の流れに通じるものがあります。
 ただ、貫通路はあるが幌が無いなど、個車単位の電車という旧来の思想が残っていましたが、上記のような狭い運用区域を考えると、デザインに大きな変化を求めるほうが酷かもしれません。

●横須賀線電車の登場
 
昭和5年に登場した32系は、電機牽引の客車列車置き換えという目的を持っており、ここで初めて、それまで遠近分離、というか今でも使われる「汽車」と「電車」の役割がクロスしました。
 スタイルはまさにシングルルーフになった後期型のスハ32系と通じるものがあり、20mに延長された2扉オールクロスの車内は客車の置き換えに充分値するレベルでした。
 ただ、電装品儀装の問題なのか、電動車だけは旧来の17mというのがこの系列の特徴でした。

●国電スタイルの確立
 中央線の電車化は昭和4年に立川、5年に浅川(高尾)に伸びました。京浜線も7年に大宮まで伸びており、結局3扉ロングというスタイルが市内〜近郊輸送を対象とした「国電」のスタンダードになっています。
 電車化の波は昭和7年に関西に上陸し、片町線(片町−四条畷)の電車化を見ました。さらに翌8年には城東線(今の大阪環状線の東半分)が完成し、関西向けの新製車として20m3扉ロングの40系が誕生しています。
 関東でも昭和7年に総武線の両国電化新線が開業し、電化は8年に市川、9年に船橋、10年に千葉に達しました。残る常磐線も昭和11年に松戸まで電化されており、戦後の昭和24年まで持ち越された取手電化を除けば、五方面の国電区間はこの時に完成しています。

 これらの路線を担当したのが40系であり、昭和14年登場の出力増強型の60系を含めて、戦前の通勤電車のスタンダードともいえる存在になっています。(山手線などは17m車だったが)

●客車スタイルの電車の進展
 
昭和9年の吹田−須磨間電化に伴う東海道・山陽線に投入されたのが42系です。阪神間の都市間輸送を考慮してクロスシートを採用しました。10年には電化は京都に伸び、登場したのが有名な流線形の「急電」52系です。ただ、戦時体制のあおりで昭和12年度の増備は半流のいわゆる「相の子」と呼ばれた43系にバトンタッチされています。

●両者の邂逅
 
さて、客車スタイルの2扉クロス車と、電車スタイルの3扉ロング車は使用路線も違い、別物のように発展してきましたが、それが遂に融合する時がきました。
 昭和10年、中央線急行用に登場した51系は、3扉ながらセミクロスと、いわゆる近郊型の直系の先祖となりました。
 これが11年に京阪神緩行線用に大鉄局にも投入され、そこそこの都市間需要と距離がある運用には51系という住み分けが見えてきました。

●未完に終わった発展
 戦前というと全部暗黒のような印象もありますが、今までの流れでも分かる通り、昭和10年台前後は金融恐慌やそれに続く金解禁に伴う不況の影響もほぼ去った戦前のピークといえる時期です。
 この時に、通勤用の40系、近郊用の51系、長距離(都市間)用の42系という区分けの下地が成立しました。
 ここで注意したいのは、最初の鋼製国電である30系がデビューしてからたったの10年しか経っていないことです。まさにこの時点こそがスタートラインでもあるのですが、出揃ったその矢先、いよいよこれからという昭和12年に日中戦争が勃発し、同年の国家総動員法の成立により、戦時体制に入ってしまうのです。

 それでも昭和14年の60系はノーシルノーヘッダーの全溶接構造という戦前国電の最高峰ともいえる姿でしたが、間もなく一部部品の木製化や旧技術への逆戻りとなっており、技術進歩の面でも戦時体制に飲み込まれていきます。

●戦時設計と決戦設計
 
昭和17年のモハ43028にはじまり、翌18年から42系、43系の4扉化が始まりました。昭和17年の急電運休を受けての措置であり、これらは、城東・西成(大阪〜桜島)・片町線の40系とのトレードが目的であり、横須賀線でも32系(20mのクハ、サハ)が改造対象になっています。
 ただこのあたりでは40系と42系の台車振替が行われるなど、電車としての基本線は保っているものであり、戦時設計による改造といえます。

 しかし、昭和19年に登場した63系は、原則代用資材で強度計算も工作の容易さや資材の節減といった事情を優先したもので、「勝つまでもてばいい」という決戦思想の設計でした。4扉ロングは収容力の極大化、切妻構造などは工作の容易化による大量生産対応と、ある意味極限の工業品でした。

●戦後の混乱期
 
敗戦の混乱、戦災による車両不足、石炭・石油不足による蒸気、内燃列車の運行不能から、負けてもなお電車の大量増備が必要になってきました。
 幸か不幸か63系はそのニーズに見事にマッチしており、昭和21年から25年までの5年間に私鉄割当を含めると1000両を超える増備となりました。
 この時点でかつて3扉ロングが闊歩していた線区は63系が、2扉クロスだった線区は3扉セミクロスorロングが、というインフレ?が進行したのです。

●もう一度スタンダードへ
 
昭和24年の80系登場で、沼津への湘南電車が登場しました。いよいよ本格的に客車の領域に電車が進出しています。
 そして25年の70系登場により、63系、70系、80系のトリオによる戦後のスタンダードが始動しました。
 この時横須賀線は戦前の2扉ではなく3扉セミクロスの70系が充当され、概ね40kmまでは通勤型、100km程度までは近郊型、それ以遠や急行運用(京阪神の急電)は80系という仕切りが出来ましたが、この80系の分担する部分は京阪神急電を除けば戦前には無かった分野です。

●ある意味時代は進むことを止めた
 
この区分が新性能化されても生き続けますが、結局普通列車の2扉は80系〜153系を最後に事実上消え、通勤型と近郊型という区分に集約されたようです。そして、近郊型の4扉化により、そもそもの「電車」に回帰するが如く融合していっています。

 本来の「電車」とは違う世界だった、本数が少なく、長大編成で中長距離を結ぶ客車列車のコンセプトをも取り込み、その境界事例への対応としての近郊型というジャンルも生み出しましたが、「普通列車」というものがかつての「電車」の延長線上にシフトしてきたことで、本来の「電車」に近いスタイルである通勤型への収斂をみているのでしょう。

 ただ、そのスタンダードについては、戦争と戦後の混乱を経て、その混乱期への対応を重視した設計に基づくものがそのまま座っています。
 そのこと自身は、混雑対応という使命において、63系の基本設計の優秀さというか正さを示すものともいえるのでしょうが、「対症療法」の域でもあり、63系の「優秀さ」を超えるコンセプトの物を抜本的改善として出せなかったという批判もまた、甘んじて受けるべきなのです。

***
 エクステリアは「決戦設計」を踏襲してますが、アコモはどうでしょうか。稿を改めて論じていきましょう。


ロングシートの歴史から見た通勤電車のインテリアの変遷(2002/05/20 01:38:43)

 さて、通勤電車のデザインについての私見の補遺です。

 通勤電車のデザインが、路面電車からの延長線ともいえる戦前の20m3扉ロングシートに辿り着いたのも束の間、戦火の中で増大する通勤輸送の要請で20m4扉車という、車両限界から逆算した収容力重視のデザインが産まれました。
 そして、戦後の混乱、高度成長と増え続ける通勤需要の前に、輸送力増強の王道である編成増強、複々線化という施策と併用、いや、莫大な工期と工費がかかるこれらの施策を極力回避する目的が実際でしょうが、この4扉ロングの「通勤型」というデザインは事実上不動のものとなって現在に至っています。

 決戦輸送という活きるか死ぬかという状況において5でも6でもなく「4扉」となったのは、当時の、鋼材を極力少なく使うという条件下での構造上の問題でしょう。(扉が増えると側面の強度が弱くなる)しかしどこかで問題をクリアしていれば、3扉車からの改造も容易?な5扉や、山手線ばりの6扉車が「決戦車両」として登場していて、それが現代通勤車両のスタンダードになっていた可能性も否定できません。

 一方、ある意味完成されたデザインではあるが、決戦設計という汚名に、昭和26年の桜木町事件というこの形式の特徴がそのまま悲劇の要因となった事件が、「ロクサン」のイメージを決定付け、これよりも「凄い」「踏み込んだ」デザインをスタンダードとすることを躊躇わせた可能性は無いとはいえないと思います。

***
 現代通勤電車の基本デザインである多扉ロングシートというスタイルのうち、多扉については、昭和17年の改造車とそれに続く19年の63系が一つのきっかけとなって定着しました。

 では、ロングシートはどうでしょうか。これは必ずしも「通勤電車」のアイテムとして興ったものではなく、いわば目的外のメリットがこれを通勤電車に無くてはならないアイテムにしたといえるかもしれないという仮定で論じてみましょう。

●ロングシートはなぜ現れたか
 
陸蒸気の頃のマッチ箱客車において下等車が横手座席で、上・中等車が長手座席だったことは有名な話です。その後ボギー客車になってもその傾向は続きました。
 これは当時の車両限界では充分な幅員がとれなかったことから、クロスシートにすると横幅が窮屈だったという事情であり、大正8年に車両限界を見直して大型化するまで、「優等車両はロングシート」という現在と全く逆のスタンダードがありました。

●優等車両のロングシート(長手方向座席)の系譜
 
そして、山陽鉄道が導入した初の寝台車も、横手方面に寝台を置けなかったので、長手方向に寝台を置く、つまりロングシートを区切って下段寝台にするいわゆる「ツーリスト型」を採用しました。
 横手方面に寝台が置けるようになっても、1、2等寝台はツーリスト型が主流で、当然昼間利用時はその1、2等車はロングシートだったのです。

※1等寝台でプルマン型(現在の開放式A寝台)が採用されたのは戦後、進駐軍の意向を汲んで製作されたマイネ40から。2等寝台(後の2等C寝台)はツーリスト型か、今のカルテットのような4人個室だった。

 決定的だったのが、等級別車両の最高峰に位置する1等展望車です。
 戦後にマイテ39が1人用リクライニングシートに置きかえるまで、1等室、そしてフリースペースの展望室の座席は内側を向いていました。もちろんベンチシートではなく、1等室は1人用安楽椅子、展望室はソファーでしたが、通路向きが定位。つまりロングシートと同じ向きだったのです。
 ちなみに御料車の1等供奉車も同様で、1人用安楽椅子が通路向きにずらりと並んでいます。

 興味深いのは、この傾向が我が国以外でも見られることで、NYのロングアイランド鉄道の車両がそうなのです。
 普通車(コーチ)が2+3人掛けの一方向き固定クロスなのに対し、ロングアイランド東部へ直通する一部の列車に連結される優等車両「パーラーカー」は、1人ずつ区分はされてますが、ロングシートなのです。

※「パーラーカー」はドリンクサービスがあり、夏季などシーズンに連結される。普段は無いが、車両だけは通勤列車に使われる(無サービス)ことがある。
 かつてはパーラーカーだけの編成による「キャノンボール号」があった。(現在も夏季ダイヤの臨時列車に名を残しているようです)

●なぜロングシート(長手座席)なのか
 
車両限界が拡大されてからも上級車両で根強く長手座席(もしくは長手方向に座席を配置すること)が採用されたのでしょうか。
 明快な解答は出ていませんが、一つの仮定として、車室を1つの空間とした場合、もっともゆったりと腰掛けるスタイルが、中央通路を向いた長手方向への着席ということがあるかもしれません。
 横手方面に座席を配し、前後の空間をゆったりととっても、あくまで車室を座席ごとに区切ったような空間となり、圧迫感が出てくるでしょう。(最)上級車両の場合はそれこそ乗客は政財官軍の著名人であり、無粋に区切らずとも車室全体で1つのコミュニティになるという部分もあったのかもしれません。もちろん、横手方面への着席を前提に1人掛け安楽椅子を置いたら、とてつもなく少ない定員になってしまうという営業上の事情もあったのかもしれません。

●では通勤電車のロングシートはどこから来たか
 
結局、馬車、そして路面電車から拡大された規格の宿命としてのロングシートという、「鉄道」車両として、また優等車両としてのロングシートとは別の系譜です。
 先に述べたように、電車の系譜の中でも、3等客車ゆずりの多座席詰め込み型ともいえるオールクロスの車両もあり、折衷型の近郊型も産まれました。

 電車の大型化の中で、多座席詰め込みを取るか、ロングによる収容力を取るかという部分で、市内輸送を専らにする通勤型でロングが優位に立ったのはやはり収容力でしょう。
 着席客にゆったりと腰掛けてもらうという思想でのロングシートが、着席客の足の置き場であったはずのスペースを、立客のスペースとして見なすことで、収容力を高めるというロングシートにスイッチした瞬間です。
 近郊型の発想もまさに後者であり、戦時設計による優等客車の3等車格下げ改造(マハ34など)でも出入口付近にロングシートが配されたのはその流れです。

 ロングシートの意味が着席者主体から立席者主体に転じ、そしてその究極の形態となったのはやはり63系です。決戦設計で登場した当初は座席が半減していたという事実は、収容力を高めることに特化した車両にふさわしいエピソードです。

●ロングシートの第三の潮流
 
省線〜国鉄においては収容力極大化のツールとしてロングシートがスタンダードになりましたが、実はもう一つの流れがあります。
 やはり中・小型車両でスタートした私鉄各社において、ロングシートながら座席のデザインを吟味した潮流です。いわば、優等車両の思想を持ち込んだものであり、今でもその名残なのか、奥行きを深く、高さを抑えた優等車両のシートに近い規格のロングシートを持つ会社があります。(南海など)

 国鉄においても、昭和30年代後半から本格的に人間工学を取り入れた座席形状の変更に取り組んでおり、通勤型では昭和47年製造の103系において、座面を下げ、奥行きを深くするという改良が実現しました。この規格が205系まで続くのです。

 101系、昭和46年までの103系:高さ460mm、奥行500mm(背もたれ込み)
 昭和47年以降の103系:高さ430mm、奥行550mm

※ちなみに63系の場合、高さ480mm説と430mm説があるが、流れからすると前者であろうが、モケットが無いレベルでの430mmかもしれない。

 そして昭和58年の105系登場時に、それまでクロスシートを前提にしていた地方線区において、3扉ロングという通勤輸送対応を重視したデザインを持ち込みました。
 この時、国鉄はロングシートの居住性を高めることでロング化によるサービスダウンという批判をかわそうとしており、その座席の規格は異色でした。

 105系:高さ400mm、奥行600mm

 後に常磐線に登場した415系500番代も同サイズであり、ベンチではなくソファーをイメージしたデザインと聞いています。実際、こういう比較が成り立つかは別として、583系電車の椅子(昼間)が、高さ390mm、奥行700mmということを考えると、向きが長手方向であるだけで、優等列車の座席に準じるレベルのものを投入しています。
このように、国鉄末期は通勤型と近郊型ではロングシートと一括りにするには躊躇いもある流れが出来掛けた時代でもありました。

●収容力と居住性の両立による新スタンダードの目処
 
足下の空間をゆったり取る目的として陸蒸気から続く優等車両のロングシートと、相対的に床面積を取らない立客の詰め込みを重視した収容力を高める目的のロングシート。この2つの流れと、その折衷型としての居住性を重視したロングシートですが、御料車の供奉車を除けばロングシートの優等車両が絶滅した今日、その品質以前の問題として、下等車両のイメージを以って語られています。

 しかし、収容力重視を目的として導入されたにもかかわらず、その居住性を高めようとする潮流が昭和後期に見られました。もしこの流れが完遂されれば、前向きか内向きかという問題はともかく、居住性でベストを尽くした通勤車両としてのスタンダードが確立していたことでしょう。
 実際この時期には、定員着席が目的とは言え、扉間の長いロングシートを区切って脇息のようにしつらえたり、袖仕切り部分を改良して立ち客との干渉を防ぐといった細かい改良がなされたケースもありますし、鉄道ではなくバスですが、個別の肘掛けを設けて区分したケースもありました。

 なお、とかく批判が多いJR東日本の701系ですが、座席奥行き570mmを確保している通勤タイプとは違うロングシートを装備しており、居住性向上を図ったグループに位置できる車両です。

●収容力重視の「計算」
 
しかし現実は、更なる収容力アップを求める流れが首都圏を中心に根強いです。
 昭和40年代から50年代にかけての、輸送力増強が追いつかずに単位あたりの輸送力を極限まで高める必要がある時代だった昭和42年に京急が行った「実験」がその先例であり、人間工学による椅子の形状決定が、居住性ではなく収容力向上にも寄与した先例です。

 つまり、1000形で座面高さが400mmだったものを430mmに上げた700形がそれです。実数が手許に無いのですが、奥行きも短くすることにより、直立に近い姿勢でしか着席できない形態となり、着席者の足の位置を強制的に下げ、その分を立客スペースに提供したのです。スペックとしての定員は変わりませんが、詰め込んだ時の実効定員?はこれによって増加し、18m車としては異例の4ドアと合わせて、徹底的な「通勤車」として仕上がっています。

 ちなみに京急ではその後昭和53年に登場した同じ4扉車の800形で高さ420mmとし、新1000形でも420mmとなっているように、700形の「実績」をスタンダードにしませんでした。時代による体位向上の影響はあるにしろ、700形の数字が今なお破られないところに、時代の要請とは言え、700形設計の「異色」ぶりが現れています。

 なお、飛行機の世界ではこの手の計算は日常茶飯事のようで、座席高さを上げることで膝の位置を下げ、前座席の下にうまく下腿を収めるようにすることでシートピッチを詰めて(足下の実効ピッチは不変もしくは拡大)定員を増すという流れにあります。もちろんこれは途中乗降が無い航空機だから出来ることでしょうが。

●居住性と着席姿勢矯正の共生
 
1等展望車や1等供奉車のように、肘掛を備えた個別座席は別格として、ロングシートを数人分で区切る動きは、一つには居住性の向上もありましたが、もう一つには座席定員の遵守という収容力維持の目的があることは論を待ちません。

 この後者の流れは、シートのモケットの色を変えた国鉄201系を嚆矢とする定員着席実現への取り組みであり、例えば20m4扉の場合、ドア間は7人掛けなので、真ん中1人分の色を変えれば残る左右3人分ずつは一目瞭然と言う効果がありました。
 これが例えば東急1000系のように、3人と4人に分かれるように間仕切りを入れたり、209系のようにつかみ棒を2+3+2に分割するように立てたりという対策にもつながっています。

 そのなかで、座席の形状をお尻を受ける形に窪ませるようにする、いわゆるバケットシートが誕生しました。これは区分を守らないと座席がお尻にフィットしないばかりか障害になるため、区分通りの着席が図られると言う、一種の矯正座席である点においては209系以降のJR東日本に合い通じるものがあります。
 しかし、このバケットシートは姿勢を矯正するわりには支持が高いのです。これは矯正と同時に座席との相性を良くしているためで、上手く馴染まないことが多いプレーンなシートよりも居住性が優れていることが、高い支持につながっています。

 このように、居住性と収容力の両立どころか、姿勢を矯正しながら高い居住性を実現させるケースもあるのです。

●スタンダードの転回
 
平成3年に登場した901系と、それの量産型である平成5年の209系で、JR東日本はロングシートのスタンダードに一つの回答というか方向性を出しました。

 209系の座席高さは実に480mm。昭和47年に103系のデザイン変更を行う以前よりも上げた設計です。しかもそれまでのクッションから形態を大きく変更し、座面の沈み込みがほとんど無い体裁になったので、実効的な高さの上げ幅はスペック上の50mmをかなり上回ります。
 103系の変更時には、座り心地の向上を理由にしていましたが、209系での座席形状変更に対する説明は、「足の投げ出し防止」であり、京急700形が試みた座席形状による収容力の向上に他なりません。

 901系と同じ年に登場したJR西日本の207系が、座席高さは変えていませんが、奥行きを570mmに拡大するなど居住性を重視したこととは正反対であり、混雑が激しい首都圏と、比較的楽でサービス重視の京阪神圏の差がもたらした「訣別」ではありますが、通勤電車のスタンダードについて、果てるとも無い議論の始まりでもありました。
 さらに平成12年にはその発展形の(通勤タイプ)E231系、そして既に基本的なアコモは209系と共通するE217系を経て近郊タイプのE231系も登場するに至って、105系や415系500番代に見られた、長時間乗車時における居住性の重視すら撤回したようです。

 なお、209系の時にクッションの質を変更したことにより、かなり硬くなったのですが、これがE231系でリサイクル性を重視した素材に変更したこともあって、近郊タイプも含めて一段と硬くなりました。しかしこの点についてはさすがに批判が多かったようで、平成14年の常磐快速線用のグループおよび山手線用の500番代車では、質感を209系レベルに戻しており、ある意味同社における確定と見ていいでしょう。

 ちなみにE231系の設計をベースにした車両が私鉄各社に出ていますが、座席という接客面でこれを受け容れているかというと必ずしもそうでないようです。質感はE231系オリジナルよりも硬いと評判の東急ですが、5000系の座席高さは430mmと従来型の数字を守っており、座席形状でのコントロールまでは踏み込んでいないようです。

●「ロングシート」の挑戦
 
通勤と行楽、収容力と居住性といった目的や意識の差異・対立を何とか両立しようとする中で、平成8年に近鉄が世に問うたのがロング・クロスのデュアルモードを実現した「L/Cカー」です。当初は改造でしたが、翌平成9年に新造車に装備され、混雑時はロング、閑散時はクロスの二刀流をスタンダードにする方向を見せています。

 この命題は旧国鉄でも72系国電を改造して試験されていましたが、扉間7人掛けという部分がネックでした。近鉄の出した答えはこれを6人掛けに減らすという、ある意味着席サービスという基本を犠牲にしたものですが、少なくとも日中は座席定員が埋まってることが少ないという現実がL/Cカーの導入を可能にしました。
 なお、L/Cカーの特徴は、扉間6人掛けのロングシートが2人分ずつ一方向きクロスシートになることで、しかもペダル操作で転換が可能という構造であり、座席の方向や人数への対応という面では文句の無いものになっています。

 なおL/Cカーのもう一つ、あまり知られていない特徴として、クロスシート使用時の居住性を確保するために、背もたれが頭まで担保しています。背もたれの高さを上げるとロングシート使用時に窓の有効高さを損なうという問題があるのですが、これは丸っこい枕状の形態にすることでクリアしてます。そして車端部の転換しないロングシート部分のデザインも枕付きとなっており、背面の支持がしっかりしています。
 この手の対応は、日豊線宮崎地区に投入された475系改造車「サンシャイン」でもなされてますが、こちらは形状への配慮が無いので、車内が暗いことと、背もたれと窓の間のデッドスペースが汚れやすい欠点があります。

●通勤電車の挑戦
 最後に、通勤車両はロングシートという「常識」への挑戦例を挙げて終わりにしましょう。
東西の二大都市圏ではないですが、名鉄における通勤車を見ると、昭和51年、19m3扉車に背反式一方向き固定シートを据えた6000系があります。
 足の収まりを狙って座面を背中方向に傾斜させたり、横幅を抑えたりと狭いスペースで着席率の向上を図りましたが、さすがに「名古屋名物一半」(1.5人前)と酷評されてはロングに改造されています。

 4扉車へのクロスシートについては、L/C車のほかにも、同じ近鉄での2600系、2610系が扉間2ボックスのオールクロスという古典(京急新600形がこれに挑んだ唯一の例?)から、近くはJR東日本が扉間に1ボックスのE217系、E231系を近郊用に出しましたが、同様のタイプを出した相鉄はE231系タイプの10000系では取りやめたようです。
 車端部をボックスにした例としては、営団9000系や東急に例がありますが、関東では18m3扉ですが京急新1000形での採用例のほかは定着していません。一方で在阪私鉄では南海の1000系があります。
 そしてやはり名鉄が、小牧線の市営地下鉄平安通新線への乗り入れ用に投入した300系で、4扉のうち真ん中以外の扉間に転換クロスを3基設置しており、比較的フレキシブルな配置に今後の動向が注目されます。

 このあたり、ボックスだと座席定員の増加に働き、転換機能を持たせると減少に働くというのも導入への大きな要因になるでしょう。

●終章・これも通勤電車のスタンダード
 
そして、ロングシートとは無縁ですが、ある意味「通勤電車」の一つの形態を提案しているものとして、JR西日本の223系(1000、3000番代)を提示して終わりにします。
 オール転クロで都市間輸送に従事している同車をもって通勤電車はないだろうと思われるでしょうが、扉間5基に転クロを減らし、ドア横のスペースをかなり広く取っています。そして、これは意外なことでもあるんですが、他社の転クロ車には無いものも多い、座席、扉部問わず並んだ吊り革は、まさに通勤車両のそれです。

 補助席使用で113系と同等の座席定員を確保することも可能であり、昭和63年に近鉄が投入した5200系で初めて世に出て、平成元年の221系とその展開の成功で各社に広がった3扉転換クロスを装備した223系も、見方を変えれば「通勤車両」であり、JR東日本における4扉車への収斂の対極とも言えます。

 その土地の事情によって違うとはいえ、通勤電車のスタンダードを今後どう規範していくのか。両極端へ進むのか、それとも中庸を求めるのか、今後も考えていきたいテーマであり、そして永遠に終わらないテーマなのでしょう。


「通勤電車論」外伝・「走ルンです」の悲劇(2002/06/30 16:48:34)

 92年3月に「次世代通勤電車」として衝撃のデビューを飾ったJRE901系の登場から10年が経ちました。この間、901系の量産形となる209系をはじめ、E217系、E231系と通勤型、近郊型がこの車両をベースにした発想で建造されました。このタイプの車両はJREのみならずJRWの223系や小田急3000系などの設計にも影響を与えたり、E231系に至ってはそれをベースにした相鉄10000系や東急5000系が登場するなど、通勤・近郊型のスタンダードになった感があります。さらにE751系やE26系客車(「カシオペア」)など優等列車用車両にもそのコンセプトが取り入れられており、その面ではJREの、いや、日本の車両史におけるエポックメーキングといって過言ではないでしょう。

 ところが、この一連の系列に付きまとう「イメージ」は必ずしも芳しくありません。その最たるものが「走ルンです」という愛称というか蔑称です。
 車両に対する好き嫌いは大なり小なり様々ありますから、褒める人あれば貶す人も当然います。しかし、この「蔑称」がここまで「定着」したのはなぜでしょうか。一連のシリーズに対して肯定的な人も否定的な人も、「走ルンです」と言われてピンと来る通りの良さは、単に否定派のレッテルではなく、誰もが納得する部分を包含しているからに他ならないのではないでしょうか。

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 209系が「走ルンです」と呼ばれるようになった理由はいろいろあるでしょうが、元ネタとなった「写ルンです」(説明するまでも無いでしょうが、フジフィルムの「レンズ付きフィルム」と区分される簡易カメラ)の、「カメラもどき」の部分と209系のコンセプトや仕上がりがマッチしたからと言うところでしょう。

 ここに一連の系列の「悲劇」が潜んでいます。本来、技術面、経済性で長足の進歩を成し遂げた、また意欲的な改善を実現した車両に対して、このような「蔑称」がつくことは有り得ません。ところが、この系列、特に事実上のトップバッターとなった209系においては、達成した改良と謳い文句、そして実際に利用者が目にしたスタイルの相関に大きなずれがあったのです。そして唯一整合性の取れるベクトルの延長線上には、「写ルンです」という商品があり、そこから「走ルンです」という「蔑称」になり、その整合性により広く受け容れられるところになったのです。

 901系の登場時のJREによる謳い文句は「寿命半分、価格半分、重量半分」であり、確かに掛け値無しとは言えないまでもあるレベルの達成は成し遂げました。
 ところが、最初の「寿命半分」がまず誤解の対象と言うか槍玉に上げられました。本来は13年間メンテナンスフリーの達成と、時代にマッチした車両サービスへの対応という意味であり、税法上の償却期間である13年間設備計上する修繕改良が無いことで、償却が終わった時点で補修か新造かを選択するという「無駄の無い車両政策」の実現であったはずです。

 ところが悪いことにバブル期の大量消費の見直しが叫ばれ、また環境意識の高まりにより、長持ちやリサイクルを重視する潮流が勃興しており、901系(209系)が淘汰しようとしていた103系が約30年その任にあったこととの対比がされ、当の寿命自体も、税法から来る13年という中途半端な期間が10年と本来の意義を失った形で丸めて伝えられることが多く、「安易な廃棄」「短寿命」のイメージが強調されました。

 そして量産体制に入った209系が増えるに連れ、209系のコンセプト達成のために採られた施策の裏返しとも言える「欠点」が目に付くようになりました。
 「価格半分」に対応した汎用品の多用と仕上げ行程の簡素化、「重量半分」に対応した構造の変更。特に構造変更により軽量ステンレス構造の板厚を相当削ったようで、側壁自体がその自重を支えきれないのか窓や扉など開口部の周縁部に歪みが出たり、板材自体に歪みが出ている部分は容易に見て取れます。
 この「歪み」はある程度織り込み済みとはいえ、見た目の問題ではありますが、まさに「安普請」を地で行く話であり、「価格半分」「重量半分」が単に「ケチった」だけであり、「寿命半分」が、「だから10年しか持たない」と曲解される余地を残しました。

 ここに「謳い文句」と「利用者の目」の不幸な一致があり、口の悪いファンから賜ってしまった「走ルンです」がファンの間で受け容れられるようになったのです。ちなみに、一般人はそんなことを言わない、という批判があるでしょうが、ある程度背景を補足して、「あの車両が走ルンですと呼ばれている」と言えば、たいていの人は膝を打つところです。

 さらに、本家?「写ルンです」より悲惨な状況が輪を掛けました。
 「写ルンです」は、レンズ付きフィルムという存在で、カメラに負けない性能を達成しようと様々な機能・性能を付与してきました。だからこそここまで市場を拡大してきたのですが、一方の「走ルンです」のほうは、超えるべき既存の車両よりもサービスレベルを落としてしまったのです。
 座席形状、貫通扉、窓の日よけ。そして近郊型では4扉化による座席定員の大幅減少など、209系以降の新系列車両のコンセプト達成に必ずしも必要としない部分を同時に変更(異論があることは承知してますが、使用条件などの相対的条件ではなく絶対的な水準という意味では改悪というしかない)したことが、一連の系列の評価を更に決定付けました。

 全く新しい新商品を出す時には、既存商品に慣れたユーザーの保守的感情を加味して、受け容れやすいようにセールスポイントを多めにするのが通常です。ところが改善点に対して目に触れたり体感する部分においての「改悪」が勝ってしまったことが、この一連の系列に対し、「走ルンです」の「蔑称」で括ることを許したといえます。
 なお209系は、JREでも行き過ぎがあったと考えているのか、側壁関係の歪みについてはE217系以降ではほぼ見られないですし、内装もだいぶ改良されています。しかし、最初のイメージ、体験が強烈なほど、生半可な改良では埋没してしまいます。
 ところがE231系登場時に、座席の形状・材質を改め、さらに硬い椅子にするというミスを重ねてしまい、TIMSなど新機構の採用で一段と進化したE231系のメリットを、利用者に伝えることが出来なくなっています。

 通常、コストを削減するにしても、サービスに関る部分については慎重にマーケティングしたうえで、反応を探るように徐々に進行させるのが通常です。ところが一連の系列では、まずいきなり極限まで進めてしまい、利用者の反発を買ってから改良という損な流れになっています。
 もっとも典型的なのが、E231系の座席で、209系などより更に硬くなったのですが、よほど批判が多かったのか、常磐快速線や山手線用の500番代車や、宇都宮線用の近郊型の後期車からは硬度を柔らかく(といっても209系レベル)してますが、過ぎたるはなお及ばざるが如しを地で行くドタバタでした。

 現在、少なくとも通勤型については500番代車が決定版と言って良い出来と思います。
 そもそもはじめからこれで出ていれば、ここまで蔑まれることもなかったのに、と悔やまれる出来であり、そこに至るまでの試行錯誤が「国電の新性能化」にも匹敵するエポックを大きく歪めたことは否めません。
 新商品の上市における注意点の教材として、今後の糧にすることが、この不幸な「愛称」への供養になるのです。

◇参考文献 鉄道ジャーナル、鉄道ピクトリアル、鉄道ファン各号

2004.11.14 Update


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