【検証:】過去ログspecial

【検証:近未来交通地図】 special202-2
続・「さいたま市」の交通網 ≪鉄道網の過去現在未来≫

 本投稿は、【検証:近未来交通地図】付属掲示板に御投稿頂いた、さいたま市民@西浦和様による「大作論文」(2001.5/17〜2001.7/6)を読みやすく纏めさせて頂いたものです(なお一部文面を編集しております)。

「さいたま市」の交通網
≪新バスシステムの提案≫

 

(前ページ) その
その
その
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15
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・浦和駅改良工事
埼京線の可能性
武蔵野線の活用
 
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野田線と川越線
埼玉新都市交通と埼玉高速鉄道

浦和をめぐる鉄道網妄想(前)
浦和をめぐる鉄道網妄想(後)

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▽前ページより

その16 武蔵野線の活用 投稿日時: 2001年6月4日 01時46分

 みなさんこんばんわ。いい天気ですね。
 今夜は武蔵野線についてです。路線についての掲示板もありますね。でもここではさいたま市限定と言うことで・・・。

 武蔵野線は、1960年代中盤、東京を通過する貨物輸送のための路線として建設されました。長大貨物列車が通過できるような設計になっています。当時首都の周辺にあった、塩浜、新鶴見、大宮、新小岩といった貨物操車場を結び、踏切のない線路設計、600mの有効長、10パーミルに抑えられた勾配、広大な武蔵野操車場(万里の長城同様、これも衛星写真で確認できます!宇宙から見える人工建造物!!)、放射各路線との連絡線といったある意味理想的な鉄道路線なのです。
 1970年代以降、貨物輸送の形態が貨車主体からコンテナ列車主体に変わって、広大な操車場は払い下げになり、近郊諸都市の人口増加から、旅客輸送の割合が増大することとなりました。また、一旦東京へ回っていた30km圏の各都市を結ぶ環状線としての役割も高まりました。
 特に埼玉県では、人口増加地域を東西に結ぶ交通路が不足していましたので、県の後押しもあり、輸送量も輸送力も年々拡大して現在に至ります。更に、東京からの放射路線沿いに進展していた都市化が、環状路線沿いにも進展するに至って、武蔵野線の各駅を中心とした都市化も見られるようになったのです。
 東京湾臨海地域の開発が進み、第2総武線として建設された京葉線の東京乗り入れと共に武蔵野線も東京駅への路線延長を完成させ、30km圏を逆のの字型に結ぶ形になりました。京葉線東京口の輸送力を増大させ、越谷三郷など埼玉県東部地区・千葉県内松戸市川船橋から東京駅への新通勤ルートとしての路線開発の意味もありました。
 東京駅からぐる〜っと回って府中へ行くという、なにげなくだらだらと走っているように見える武蔵野線ですが、このような歴史と輸送の意味があるのです。

 さて、「さいたま市」と武蔵野線の関係ですが、市内南部浦和地域の更に南側を東西に貫いています。4つの駅があり、そのうち2つは南北の路線と連絡しています。西浦和と武蔵浦和の駅からは大宮へ向かって連絡線があります。
 現在、武蔵野線は8両編成で朝5分ごと、昼12分ごと、夕方10分ごと、夜また12分ごとぐらいの間隔で走っていますね。始発は5時頃、終電は東行きは12時過ぎ、西行きは1時10分前ぐらいに南浦和駅を通ります。

 市内の交通網の中での役割は、浦和地域の東西交通と言う意味が大きいです。また、南に隣接する川口市の交通路の意味もあります。「東川口」駅では最近開通した「埼玉高速鉄道」との連絡も始まり、武蔵野線の各駅からは南北にバス路線が展開しています(西浦和駅を除く)。
 武蔵野線と南北の路線、すなわち埼京線・京浜東北線は武蔵浦和駅と南浦和駅で連絡しています。大宮地域から浦和地域の東西への交通が、この交通路で流れています。人口の密度から見ると、市域の南ほど高い地域が広がっていますので、武蔵野線沿線は面的に市街地化が進んでいるとも言えましょう。ただ、東浦和駅の東側は自然保護地域「見沼田圃」があり更に東川口駅近くでは雑木林も残り、路線名の武蔵野の面影が色濃く残ります。

 この武蔵野線の活用方法の提案ですが、さいたま市内で未活用の大宮への連絡線にスポットを当ててみたいと思います。

 現在、大宮から武蔵野線の東西方向への連絡線を活用した列車は、八王子方面への新幹線リレー号やホリデー快速号など、期間限定運行の列車が多いようですね。リレー号は毎日ですがホリデー快速は名前の通り休日運転ですね。そして市内交通と言うより、もっと広域的な輸送を担当する性格の列車が運行されています。ですから、市内は単なる通過地域でしかないわけです。
 そこで、大宮を中心とした、さいたま市内、埼玉県内の輸送を意識したこの連絡線の活用法として、武蔵野線の区間列車の可能性を探りたいと思います。

 前述の「さいたま新都心」駅の改造案が実現したと考え、大宮〜(連絡線)〜南浦和〜南越谷という系統と大宮〜(連絡線)〜西浦和〜東所沢という系統を設定したら?という提案です。いささか破天荒ではありますが・・・。
 そして、与野〜武蔵浦和西浦和間の地下トンネル内に駅を増設するというのもいいかもしれません。北浦和駅前地下付近と、市役所西側の2箇所でどうでしょう?南越谷や東所沢は折り返し線もあり、ダイヤを設定しやすいかな?と言う程度の思いつきです。東所沢から更に、新秋津の西武線連絡の側線を活用してもいいです。いっそそこで折り返して、西武線所沢駅へ乗り入れたりして・・・。更に更に西武線の狭山湖付近への支線への乗り入れもしたりして、「大宮〜西武球場前」なんていう列車は無理か?
 武蔵野線自体も駅間が長いので各地で新駅構想がありますね。さいたま市内では、南浦和〜東浦和間の「イーストシティー」付近や市外になりますが、西浦和〜北朝霞間の朝霞市の内間木地区など、実現すれば駅間が短くなる可能性はあります。現状の 8両編成を4両ずつに分割できるようにして、このような区間運転に供するというわけには行かないでしょうか?青梅線や五日市線と共通運用できそうですね。10両化計画も進んでいるのでしょうけれども、12分間隔で10両が来るより、10分間隔で8両がくる方が便利な感じがします。短編成の区間列車ができれば、長編成の列車は快速運転してもいいと思います。連絡駅のみに停車駅を絞った快速の可能性が、他の掲示板でも話題になっていましたね。

 また、中距離列車の乗り入れの研究もしているのでしょうか?高尾や立川止まりの中央線の3つドア電車を大宮へ乗り入れるとか、我孫子からの成田線の区間列車を武蔵野線へとか、もともと貨物線ですからいかようにも組み合わせがあります。八高線の電車が川越へ来るのと同じ理屈のような気がするのですが・・・。車両が足りなくなるということでしょうが、武蔵野線の車両を乗り入れ線区のものと共通にすればいいだけのことで、いまの205系のバリエーションを検討してみればいいのではないでしょうか?中央線は201系が入ってますし、成田線は103系ですね。これらを統一すれば、成田〜大月まで同一車種での運用もできるのでしょう。今話題の231系で統一するというのも将来にはありですね。
 でも、人の流れと合ってないかなあ?

 今夜はこのへんで。乱筆ご容赦。

その17 野田線と川越線 投稿日時: 2001年6月7日 01時09分

 みなさんこんばんわ。今宵もおつき合いの程。

 HPを探してみると結構あるものなのですね。各路線情報掲示板。私が見ているのは武蔵野線が3枚、高崎線が1枚、埼玉高速線がすでに1枚など・・・京浜東北線、東武線、西武線、国際興業、さいたま市内の交通というのもありました。
 私が書いている提案も、各掲示板ではすでに出ている話題で、決して著作権に触れるようなつもりはないのですが、皆さん、同じようなことを考えているのですねえ。

 それで、今夜は野田線と川越線です。よろしくお願いします。

 大宮駅から東へ向かう東武鉄道野田線は、千葉県の野田のしょうゆ工場の生産物を、河川交通に変わって鉄道輸送での全国ネットへ結ぶことを目的に建設されました。創業時は野田と柏を結ぶ県営の軽便鉄道であったのですが、大正から昭和戦前に千葉県の交通企業を展開していた京成グループの傘下に入り、船橋から大宮までの路線を完成させました。柏では常磐線、春日部では東武線に接続し、全線単線のローカル鉄道でしたが、1960年代から、沿線の都市化が進み、野田〜柏、大宮〜岩槻など放射線に恵まれない都市を放射線に結ぶ区間から複線化が進みました。現在は、岩槻〜春日部の複線化が進められています。
 この路線は、20m車6両編成で、大宮〜岩槻間は朝5分間隔、昼15分に2本、夕方は9分ごと、夜は12分ごとといった間隔で走っています。準急や急行快速はなし。
 おおむね、この路線は、大宮〜岩槻〜春日部の流動が多く、途中駅も大宮へ近づくに従い乗客が増えるといったところでしょうか?

 大宮からの放射線の一端を担うこの路線ですが、古くからある構想としては、大宮駅でホームを隣り合わせる京浜東北線との直通運転です。しかし、交通量の差は如何ともしがたく、沿線自治体の期待もしぼみがち?岩槻はむしろ埼玉高速線の延長にかけてるかもしれません。
 大宮から岩槻にかけての地域は、結構緑豊かな農住混合地域ですが、駅近くから林の中のミニ開発が目立ち、これも都市計画で何とかしなくてはなりません。
 ここでは私なりの提案をと思うのですが、ちょっと路線掲示板の話題を頂き、準急運転の可能性はどうでしょう?前回の武蔵野線の区間運転のような短編成区間運転が実現できれば、大宮〜岩槻無停車の柏行きが実現できそうですが・・・。市外になりますが、現在の複線の終点である東岩槻駅は2面4線ができそうですから、ここで接続・折り返しという形でもいいかもしれません。岩槻駅も2面3線ですから、折り返しは現在もありますし、うまく活用し区間運転と通過運転の列車を走らせてもいいかもしれません。東武本線へ旅客を誘導するのなら、停車駅を吟味し、春日部まで通過運転区間を延長してもいいかも。
 とにかく、この路線の役割は春日部・岩槻市をさいたま市と結ぶ役割ですから、その所要時間を縮めたいのは、多くの利用者の意志でしょう。また、見沼田圃・第2大宮公園付近以外で駅間に更に停留場を増設し、区間運転列車をLRT的に運行することもできるでしょう。岩槻インター付近ではパークアンドライドの可能性もあります。この提案はまたあとで。

 次に川越線です。
 川越線は、戦争直前に大宮と高麗川を結ぶ路線として建設されました。高麗川では八高線に接続し、東京の外環状線を構成しています。八高線も川越線も、戦前、いささか軍事的な意味で建設された路線でもあります。東京横浜をバイパスする国鉄路線の必要により、高崎〜八王子〜茅ヶ崎を結ぶ関東山地の麓を結ぶ形になったわけです。川越線は、高麗川近くに軍用地があり、そこへの交通路として建設されました。もちろん大宮の鉄道交通上の重要性は戦前から変わりませんでした。川越で最初にできた鉄道は、現在の西武線でしたが、その次が大宮と川越を結ぶ路面電車でした。これは川越線ができて廃止になりました。大正時代、次にできたのが東武東上線で、これが池袋との間を一直線に結びました。そして1940年、最後にできたのが川越線です。それまで川越には国鉄が行かなかったというわけです。川越駅は東上線が池袋から直線的に到着するのに、川越線は大宮方向からカーブして川越駅へ入ることになります。後から作ったことが分かります。
 埼京線が直通するまでの川越線は、八高線同様通勤型ディーゼルカーが何両も連なって通勤客や通学客を運んでいました。ドアを押しボタンで開くなどローカルムード満点の路線でした。朝夕は蒸気機関車が引く長大編成の輸送力列車もありましたね。70年代まであったのでは?

 さて、川越線の活用法ですが、現在でも日進駅から先は単線の川越線は、大宮から川越への最速輸送機関で、川越の先、高麗川・飯能への直通路線でもあります。大宮〜川越間は、埼京線からの電車も直通しますが、これは昼間は快速のみ20分間隔です。川越市内になりますが、南古谷駅には車両基地もあり、朝などは出庫車両が大宮方向次駅の指扇駅始発で運行されるものもあります。
 埼京線の快速の問題とも絡むので、ダイヤを研究しなければなりませんが、大宮でやはり、輸送量は段落ちになるのでしょう。そこで、八高線直通電車を大宮始発に延長してもいいのではないかと主張します。恵比寿からの快速は1時間3本の内1本を川越へ運行し、あとの2本を八高線直通電車にすればいいのではないだろうか?高麗川行きや飯能行きを設定すれば大宮から県西部へのアプローチが良くなるような気がします。川越からは快速に接続する始発電車を運行してもいいかもしれません。ただ、八高線直通は4両編成ですから輸送力が足りなくなるかなあ?
 川越線と大宮バイパスが交差するところに、16号バイパスへの分岐点・宮前
 インターがありますから、停留場を設ければ、岩槻インター同様パークアンドライドの可能性も探れるでしょう。

 眠くなってきました。乱筆ご容赦。おやすみなさい。

その18 埼玉新都市交通と埼玉高速鉄道 投稿日時: 2001年6月10日 14時31分

 みなさんこんにちわ。梅雨のはずなのにいい天気でしたね。今日は第2土曜日。
 さいたま市の2つの第3セクター交通企業についてです。さあ、どうしましょう?

 埼玉新都市交通社は新幹線高架横に張り出した軌道を走る新交通システムです。ゴムタイヤ・軌道横からの集電・1両数メートルの車両。ワンマン運転の6両編成が 朝5分、昼15分、夕方10分、夜15分間隔で終電は0時ちょうどです。
 路線は上越新幹線に沿って、伊奈町の内宿というところまでです。車庫がある途中の丸山までが複線で、以北は単線です。途中で交換があったり、新交通システムですが、長閑な地域へ運行する路線です。車両の番号の字体が東武電車に似てますね。蛇足です。
 沿線は、さいたま市大宮北部地域の新幹線沿線の住宅地や工場地帯を貫き、また沿線の高等学校への通学路線でもあります。終点の伊奈町の県民活動センターや総合高校といった県施設への輸送もあります。ですから、輸送も大宮への一方通行ではなく、朝などは大宮から伊奈へ向かう輸送も多いので、無駄がありません。聞くところによれば経営もなんとか黒字とか?
 この路線は、結構各種の可能性があると思っています。伊奈町の北にある菖蒲町などでは路線の延長を求める話題があります。しかし、菖蒲町自身にそれだけの交通量の需要があるかはわかりません。また、新交通システムつながりで、旧浦和市でも463号バイパス沿いに新交通の構想がかつてありました。

 ここからは遠い将来への提案ですが、新交通システムを大宮駅を中心に、さいたま市内へ張り巡らすというのはどうでしょうか?
 武蔵野線と野田線・川越線の中間に軽交通システムを置くことで、市街化地域全域を交通上均等なサービスを確保するということを目的に、サッカースタジアム〜新都心の新交通を組み込みつつ、長い時間で考えて道路を延ばすようにこつこつと建設していけば、僅かずつの支出で済むのではないでしょうか。運営方法も上下分離で、施設建設を市、県や埼玉高速鉄道、東武鉄道、バス会社、タクシー会社、JRといった交通企業、新都心に進出した企業や、地元の企業にも出資をつきあってもらって進めれば、なんとかなるのではないでしょうか。もちろん、サッカーチームと同じように市民からの出資を受け入れることにはやぶさかではないですね。そして、運行企業は埼玉新都市交通がいいでしょう。
 まず、路線は新都心〜サッカースタジアム〜美園駅を本線として、新都心〜大宮駅の水平エレベータの役割をする路線と大宮駅〜宮前インター〜平方方向の北西路線、宮前インター〜水判土〜大久保〜西浦和駅〜武蔵浦和駅と大久保〜与野本町〜新都心の西部路線、本線の中尾陸橋から第2産業道路上をプラザイースト〜東浦和駅〜鳩ヶ谷方向への南西路線を考えてみます。輸送量に応じて単線複線の選択もできるでしょう。
 まず、大宮駅北側の現在のニューシャトル終点から南の新都心へ路線を延ばします。現在の1線1面の大宮乗降場はそのままに、南行き路線は鐘塚公園を抜け、ソニックシティー〜日赤病院〜上落合交差点〜新幹線沿いに新都心へ入ります。北行き路線はソニックシティーから大宮駅南側で東口側へ一旦JRを渡り、東口駅舎前で駅前広場を跨ぎ(ここに乗降場を設けても良い。東口再開発と連動して建設?)、北側通路に平行して再びJRを渡って現在の大宮乗降場へ入るという路線構成とすれば、まさに大宮駅を巡る水平エレベータの実現です。大宮乗降場では混雑時数十秒に1本の電車がホームに入ることになりますが、「新交通システム」なのですから、乗車位置などを工夫して人を捌くこともできるでしょう。新都心地域では、各高層ビルに横付けするように乗降場を設け、現新都心駅の北側でJRを跨ぎ、商業施設内にも乗降場を設け、高速道路、第2産業道路、463号バイパス沿いにサッカースタジアムへ向かえばいいでしょう。また、旧中山道上を大宮駅東口へ伸ばせば大宮駅〜新都心の循環路線もできます。

 次に、埼玉高速鉄道です。市内の区間は、武蔵野線東川口駅から終点の浦和美園駅へ向かう区間が市域にかかります。
 美園駅からは北側の車庫を抜け、更に北へ向かう構想があります。当面は岩槻駅へ、更に、蓮田駅、菖蒲町、騎西町と伸びるのでしょうか?鳩ヶ谷(正確には川口市石神)から岩槻、蓮田間は今から70年前、「武州鉄道」という鉄道路線があった区間です。
 この路線は、サッカー大会のために建設されたといってもいいでしょう。大会以後、沿線をどの様にするかという、沿線自治体の都市計画によって、路線の運命が定まるでしょう。あまり根拠はありませんが、これも、いずれ上下分離の経営になるのではないか?とぼんやりと考えています。地下鉄は、非常に大きな維持費用がかかります。人口の密集地域ではない、この地域の地下鉄経営は公的資金を補わずして成り立つとは思えません。ネットワークとして考えれば、せめて、岩槻までは伸ばすべきでしょう。建設費用を考えれば、高架、地下ではなく地上区間を少しでも多くしてでも、なんとか延長してほしいですね。あと、新路線のお約束ですが、運賃が高いのは何とかしてほしいですよね。鳩ヶ谷や川口の地下鉄から遠い人たちは、いまでもバスを使っていますね。国際興業のダイヤ再改正などという珍事もおまけに付きました。

 浦和美園駅は農村の中に忽然と現れた地下鉄の終点です。この場所自体は多くの人の住む地域ではないので、交通量を確保するためにはいろいろな努力が必要でしょう。また、駅に隣接する地域が早急に開発されるわけではないでしょうから、浦和インターそばの交通結節点として当面活用すると言うのが現実的ですね。
 東北高速バスを全路線、駅前へ乗り入れさせ、特に上りは浦和インターから都心の終点への時間が読めない場合、有効に機能するでしょう。
 また、国道122号線や4号線の鉄道線と離れた地域から東京への交通を収束して1大ターミナルとすることができるでしょう。4号バイパスへはすぐですから、沿線の埼玉県庄和町、茨城県五霞町(ここまでは東武線のテリトリーか?)境町総和町、茨城県結城市ぐらいまでは集客範囲にできるのでは?沿線のバス会社タクシー会社にはビジネスチャンスかもしれません。122号線沿いは、前にもあげましたが、この路線自体の延長構想の目的地である、菖蒲町騎西町へのコネクションも可能になりますか?ただ、122号線の蓮田市内はバイパスができていませんから、現実的ではないですね。とりあえず岩槻までの路線を充実するといいでしょう。
 大宮との間の新交通については、何度も触れているので今日は繰り返すのはやめましょう。

 それではこのへんで。投稿は日曜日になってしまいました。
 乱筆ご容赦。楽しい休日を。

その19 浦和をめぐる鉄道網妄想(前) 投稿日時: 2001年7月1日 20時14分

 こんにちわ。みなさん。

 「さいたま市」の交通網の話題ですが、そろそろ鉄道編も一旦締めることにしましょう。最後に、私が知っている、浦和付近をめぐる未成・廃止の鉄道路線にかかわる妄想をご披露して終わりたいと思います。お読みの皆さんの何かのご参考にと思っています。いささか不確かな情報もありますので、どうぞご笑覧下さい。事実はお読みの皆様の情報で補えたらと思いますのでよろしくお願いいたします。

・武州鉄道と蕨鳩ヶ谷

 今をときめく埼玉高速鉄道ですが、この路線は、今から70年前に走っていた「武州鉄道」というローカル鉄道のコースをたどっているのです。
 武州鉄道は、大正バブルの頃に計画、建設された鉄道路線です。城下町岩槻をはじめとする日光御成街道沿いの街や村々と東京を結び、綾瀬川水運の貨物を輸送することを目的としたのです。ですから、路線は蓮田〜岩槻〜鳩ヶ谷〜川口(〜赤羽)という放射線を計画していたのでした。
 大正バブルの頃とはいえ、鉄道を建設するには膨大な資材が必要で、東北本線が通らず、まだ野田線が無かった岩槻の人たちは、この鉄道によって、全国と結ばれることには喜んだのですが、最初の開通区間は短距離の建設で済む、蓮田〜岩槻だったということは、不幸の始まりでした。
 以後、武州鉄道は御成街道沿いに赤羽を目指すのですが、昭和に入って、野田から大宮への野田線(当時は総武鉄道<第2次>)が岩槻を通るに至り、小さな岩槻の街に2つの鉄道会社が別々に駅を持つことになったわけです。そこで武州鉄道は南北への路線延長を画策するのですが、昭和不況の中、資金が集まるはずもなく、それでも現在のさいたま市域の大門地区を通り、川口市の石神まで建設開業したところで廃業してしまいました。その間、北へは蓮田から菖蒲町へ、南は鳩ヶ谷を通り、蕨、川口、赤羽と各地点への延長免許を申請し続けました。また、岩槻から浦和への構想もあったようで、それを目論んだ住宅地開発も行われたようです。
 最後には当時広範囲に鉄道企業を経営していた京成電気軌道グループに入ったようですが、戦中の鉄道統制政策の中で廃業となってしまいました。
 廃線後、線路跡は農道となったり、宅地になったり、公共用地になったりしました。特に、現在、完成したサッカー場近くからは国道122号線の用地となりました。岩槻の目白大学の敷地も線路跡を含んでいます。
 石神から南はどのような路線を構想したかは、現在ではわかりませんが、鳩ヶ谷市の御成街道沿いあさひ銀行角から蕨駅への直線道路は、途中県道浦和草加線となる部分もありますが、LRTを引くには結構いい線形です。蕨駅〜鳩ヶ谷のバス路線も走っています。埼玉高速線鳩ヶ谷駅前広場をかすめ、川口市の青木地区を東西に直線に結ぶこの道は青木地区の耕地整理の時に建設されたものですが、現在の都市化を目論んだものでありましょうか。このような耕地整理は戦前から埼玉県南各地で行われ、現在の土地の区画の元になったのです。東京に隣接して水田地帯の広がる埼玉県ならではの歴史です。

・都営三田線はどうなる?

 南北線つながりで、つぎに三田線です。
 都内の国道17号中山道を北上する都電路線を継承し、徳丸田圃に建設されたニュータウン高島平団地への足として開業した三田線ですが、西高島平からの建設はこの先どうなるかわかりませんね。東武東上線は有楽町線と直通してしまい、当初の計画とは全く違った姿になっています。武蔵野線、新幹線埼京線が完成して、荒川左岸は鉄道の密度が上がり、都市化も進んだのですが、もともとはこの三田線を西浦和へ大宮バイパス沿いに延ばす計画でした。80年代までの運輸政策審議会でも答申されていました。
 浦和市は長らく、人口増加の著しい西部地区への鉄道路線の建設を希望していましたから、さいたま市となった現在でもこの計画を後押ししているはずです。しかし、大宮与野市は新都心開発のためのLRT路線の検討を現答申に書き込ませ、埼京線のある市内西部地区への三田線延長は後回しになる格好でしょうか?現在の埼京線の輸送力には余力があるので、三田線が私の家のそばにくるのは私が死んだ後かもしれません。現在の環境を維持してほしい気持ちも強いので、無理に鉄道を引かなくてもいいかもしれないですね。ただ、大宮市西南部や浦和市西北部は埼京線からも遠いですから、それを補う交通網の必要は変わりません。
 埼京線が出来なければ、地上に出た三田線が笹目橋〜戸田橋間で荒川を渡り、戸田市内を通り、17号国道またはバイパス沿いに浦和へ来ていたでしょう。私が子供の頃、バイパスの真ん中は土地が空けてあり、車線を増設できるようになっていましたが、「何になるのだろう」と言っておりました。それも完成し、地下鉄ではなく高速道路となって、完成形となりました。「未来予想図」が現実となりました。
 さらに将来、17号国道沿いが高度利用されるようになって、新都心と東京の間の高層化が連担するようになれば、地下鉄の必要が出てくるかもしれません。埼玉高速鉄道2号線として、三田線を延長する日が来るのかなあ?
 また、現在の西高島平から荒川の右岸を北上して、東上線と荒川の間の地域へ伸びる可能性もあるでしょう。ただ、この地域は新河岸川の遊水地域もありますから、急速な都市化は問題があります。

・川口鳩ヶ谷にも新交通!

 川口市は、鳩ヶ谷市を囲んで東西に広がる都市です。人口も、大宮より多く浦和よりは少ない県内第2位。約43万人が暮らしています。鳩ヶ谷の数万人を加えれば、50万人にもなんなんとする人口集中地域です。そのような川口市ですが、北東部の草加市や越谷市に隣接する地域は「植木の里」安行地域と呼ばれ、緑豊かな植物生産地帯になっています。東京都心から最も近い農業地帯といってもいいでしょう。
 浦和に新交通の計画が初めて出てきたころ、川口でも市内をめぐる新交通構想がありました。鉄道駅が西端と北東端のみに存在していることから、バス路線がちょう密に張り巡らされ、赤羽〜川口元郷〜鳩ヶ谷など軽鉄道並の輸送力を持った路線もありました。そこで、地下鉄の計画が現実化する前に川口市内を横断する新交通システムの構想がありました。川口駅〜鳩ヶ谷〜東川口駅などの路線が考えられていたようです。
 しかし、地下鉄計画が実現し、この話はどうなってしまったのでしょう?北側のさいたま市にLRT、南の足立区に舎人新線新交通がそれぞれ構想、建設されるに至って、川口市の東西方向の交通がいつまでもバスのみという状況ではいかがなもののでしょうか?地下鉄が開通しても、沿線の人々は地下鉄線を乗り越えてJRの駅へ向かうという交通流が変わらないのでは、この流れにあった交通機関の近代化を進めるべきでありましょう。

 ちょっと長かったですか。まだ言いたいことがあるので、後編を書きます。
 乱筆ご容赦。

その20 浦和をめぐる鉄道網妄想(後) 投稿日時: 2001年7月6日 23時54分

 みなさん、こんばんわ。

 本題に入る前に、ちょっと微笑する話題を。
 川口市内を歩きますと(どこでもそうですが)、政治家や政党(人気のあるのもありますね)のポスターが各種貼ってあるのですが、その中に、「誰が地下鉄を通したか」というスローガン?のものがあります。確かに、その政治家は努力したかもしれませんが、できた後のことも努力してほしいですね。

さて、本題です。

・大宮川越電気軌道アゲイン

 川越線が出来る前、武州鉄道が走っていた頃、大宮駅西口から川越の久保町、喜多院や成田山の門前まで単車の電車が走っていました。それも、旧16号国道の上をです。それぞれの終点はループ線になっており、電車は広場を一回りして出発していったようです。
 大宮駅前は再開発で昔の土地割は全くわかりませんが、大栄橋〜桜木町交差点はちょっと古い商家もありますので、この道が古い道であることがわかります。電車はこの通りから丸井デパート付近へ入って転回をしていたと想像されます。
現在この道路には西武バスの大宮〜川越線が走っているのですが、実はこの電気軌道は西武鉄道の系列にあったそうです。現在のバスは電気軌道を70年に渡って継承し続けているというわけです。車庫も、現在の西武バス車庫だったようです。
 現在のバス路線は指扇駅近くの「西遊馬」折り返し場行きのものが多く、荒川を渡る交通流は、JRが引き受けているようです。電車の方が早いですしね。
 ただ、川越線が、大成〜日進と遠回りしているのに対して、旧16号は指扇へ直線的に結んでいますから、バス路線も成り立っているのでしょう。さいたま市の新交通を考えるときには、この路線はそれなりにまとまった交通流がありそうですから、路線の復活もあり得るのではないでしょうか。

・17号国道出生の秘密

 東京神田神保町から北へ一直線に伸びる17号国道は、大宮、上尾を過ぎて鴻巣の先まで旧中山道とつかず離れずバイパスしています。そのうち、志村橋から戸田橋を越え、蕨までは中山道をトレースしているのですが、蕨から大宮手前の旧与野市上落合までは直線的な路線となっています。実際走ってみると、勾配も別所の坂以外あまりきつくなく、カーブも緩い設計です。
 この道路が造られたのは、昭和戦前の不況期の失業対策事業の一環だったそうですが、大正時代には、浦和付近は耕地整理事業が進んでおり、この交通路を中心とした土地区画整理が済んでいました。この耕地整理計画ではこの交通路は「鉄道または道路」となっており、事と次第によっては鉄道線が通っていたかもしれなかったのです。
 事実、大正バブル期の鉄道計画には、前述の武州鉄道の南北の延長の他にも、関東の各都市の有力者が、自分の街を中心に鉄道網を建設する構想を持って、各方面へ働きかけていたようです。埼玉県でも、大宮、川越、所沢などで構想され、千葉や神奈川でも第2の東武鉄道や第2の京成電気軌道を目指す人たちがいたわけです。実際開業した路線には、所沢や飯能入間の人たちの「武蔵野鉄道」などがあります。地方出版の鉄道史の本にはこのような顛末がごろごろしていますね。

 この「鉄道または道路」に建設されていたはずの鉄道会社はどのようなものだったのでしょうか。ここからは妄想入ります。どうぞおつき合い下さい。
 ただ、県立文書館で調べますと、どうも鉄道会社の計画があったようです。その名も、「東京大宮電気鉄道」!免許の申請もされていたようです。
 東京側の起点は山手線の北側のどこかの駅でしょうが、おそらくは巣鴨あたりだったかと考えられます。ここから17号新国道沿い、またはこの土地を活用して、大宮を目指したのでしょうか。埼玉へ入ってからは、この用地をたどり浦和県庁の西側を通り、北浦和駅東側の北浦和公園(当時は旧制浦和高等学校)門前をかすめ、与野駅と与野の本町通の中間を通って上落合から、国鉄用地に沿って大宮駅西口へ至るというものです。また、上落合のガードをくぐって、氷川神社参道へT字に終着駅をつくるという構想もあったようです。
 現在の1万分の1地形図をよく見ますと、上落合交差点から大宮駅西口、現在の東海銀行のビルへの家の立ち方が、線路跡のように見えます。その途中にあるJRの変電所(現在更地)の敷地はJR国鉄の敷地とは家1〜2軒分離れているのです。この間に私鉄が通って、変電所を共用する事もできたのでしょう。
 旧与野市や浦和市の耕地整理による土地割りを見てみますと、「ここが駅?」といえそうな地点が何カ所かあります。例えば、県庁横の南側には現在商工会議所や東京電力支店があります。この土地の形などは17号国道に沿って長い長方形をしています。また、北浦和駅近くのカーブの終わったところにも東京電力や県の日本語センターなどがあります。この地割りもそういうふうに見えます。そして、与野西友ストアーの所は、緩い勾配の底の道路がカーブしている途中に短い直線がある形になっています。そして、上落合ガードの橋のスパンも今は広げる工事をしていますが、3mぐらいずつ2スパンなのです。電車が通るにはちょうど良さそうです。

 私も商売柄、地形図を見つめる機会が多いのですが、こんな妄想にふけっているときもあるのです。

 この鉄道会社が実現していたらどうなっていたでしょう?ちょっと想像してみましょうか。
 路線は巣鴨(または東上線金井窪)〜大宮間ですね。会社自体も、おそらくは東武もしくは京成または西武の子会社になっていたでしょうか。昭和初年の開業時には、単行電車が30分間隔ぐらいに往復しているといったところでしょう。急行はなく、巣鴨〜志村ぐらいは増発されていたでしょう。貨物輸送もあって、小さな電気機関車が数両の貨車を引いて既に操車場が出来ていた大宮から戸田や志村ぐらいまでは貨物列車として運行されていたでしょう。
 戦争中に統合で東武鉄道に合併されれば、野田線との直通もあったかもしれません。金井窪から池袋へ直通していれば、50年前に埼京線が実現していたでしょう。
 西武と合併していれば、大宮川越電気軌道と直通して、路面型電車が浦和ぐらいまでは来ていたかも。
 京成グループになっていれば、武州鉄道が北浦和へ延び、直通していたかもしれません。巣鴨〜浦和〜岩槻という路線もできたでしょう。
 一番確率が高いのは東武グループでしょう。野田線と直通していれば、池袋〜大宮〜岩槻という路線が走っていたでしょう。東上線は乗り入れ区間で複々線になっていたでしょう。

長らくのおつき合い誠にありがとうございました。乱筆平にご容赦。

2004.11.02 Update


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