【検証:】過去ログSpecial

【検証:近未来交通地図】Special009
環境問題に対する私見
(02/07/27)

 本投稿は、【検証:】掲示板でもお馴染みの、とも様より 当BBSに御投稿頂きました文章およびその返信を、読みやすく構成させて頂いたものです(なお一部文面を編集しております)。

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≪関連投稿≫ 私見を少々。<公共交通機関の存在意義>
広島の都市交通計画から考える環境と公共交通

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 環境問題を完全に解決する手段などあるであろうか。もしそこを突き詰めていくと人間は原始以前の生活に戻るしかないのであろう。
 しかしそんなバカな話は無い。ではどうすべきか。
 ポイントは「どんな輸送機関でもエネルギーは消費する」ということ、「利用者の視点なくての議論は机上の空論にすぎない」こと、そして「現実は先にある」という事実である。

1 鉄道にシフトさせればよいのか

 環境問題の解決策としてモーダルシフトを訴える人が多い。特に自動車から鉄道への端末も含めた転換こそが必要とまで断言する人すらいる。
 しかし、そんなものはただの妄想と逆に断言しても良い。輸送エネルギー効率を考えると確かに鉄道は優位だ。しかし現実には鉄道だけではどうしようもない。
 なぜなら鉄道は「線」の輸送機関でしかないからだ。鉄道を面で使う方法も無いわけではないが、そんな低需要を軌道でまかなうなど到底できる話ではない。
 そう考えた場合、鉄道優先の国土作りか都市計画をやるしかない。すなわち、超高密度高度開発により、一切の移動手段を有しない徒歩のみで完結する都市圏と、線として張り巡らせる鉄道網からなるものだ。その他は緑地にでもすればいい。しかし、果たしてそんなことができようか。超高密度高度開発は実は生活分野のエネルギー効率が極めて悪い。世帯単位ならば低密度開発のほうが地球環境に与えるダメージは少ない。さらには高密度高度開発は送電ロスなどの新たな問題を生む。廃棄物もそうであるし、都市のリストラすら難しくなる。農地はどうしたって面積を必要とする。そこまでの輸送機関を軌道で行えるのか?不可能であろう。

2 自動車と軌道をミックスさせる=パッケージ政策しかない

 解決する手段としては面交通である自動車と線交通の鉄道、2点間輸送の海運、航空の4者をミックスさせなくてはならない。その視点を持たずしての軌道優位が根底にあるとしか思えない「環境負荷による自動車性悪論」は「鉄道オタクの妄想」として失笑されるのも仕方が無いといえよう。まず交通計画の基本が都市計画であり、国土計画である。エネルギー消費はなにも輸送部門だけではないことは考えなくてはならない。まったく無い土地に一からつくるのなら鉄道主体でもよい。しかし現実の都市計画はそんな理想論で語れるものではない。住んでいる人がいて、産業があって経済が動いているのだ。そこには必要悪もあろう。それをシムシティのように簡単に作れるのではない。今ある都市計画にベストマッチさせていくことが必要なのだ。
 鉄道に理想的な都市構造が逆に生活分野に不利な都市構造といえる例としての典型はNYマンハッタンである。ここは公共交通のみで移動が可能である。徒歩と地下鉄だけでもなんとかなる。しかし、この都市においてはエレベーター、照明、エスカレーター・・・などなどで終日電力消費量が多くなる。これだけ密集していれば当然だ。密集が善ではない。「適切な」密集、分散が必要なのだ。
 それはすなわちベストミックスを意味する。それができるのかというが、何気にそれなりのレベルで出来ているのが東京であり大阪であるということを私たちはもっと評価しなくてはならない。その上で、ヨーロッパなどの取り組みを評価しなくてはならないのだ。
 ハイブリッドなどの自動車内燃機関の技術革新もすさまじいものがある。上高地や志賀高原、富士スバルライン、さらには最も過酷であろう道路日本最高所の乗鞍岳などの山岳道路の高負荷条件下を走行できるハイブリッドバスもあるご時世だ。ここ数年でハイブリッドやLPGなどの技術革新による燃費向上は環境問題の考え方も一変させるかもしれない。
 LRTではなくバスを主体にしている都市の存在(オタワ、アデレード、クリチバなど)はこういった点がベースである。

3 ではどうするのか

 究極の形など都市計画にはありえない。スプロールしない都市計画など到底不可能であり、再開発などのリストラも絶対不可欠なものだ。その上でベストミックスに極力近づける努力こそが求められなくてはならない。人間はここで破滅させるほど愚かなのだろうか。そんなことはない。であれば何か対策はあるはずだ。

1)オーストラリアにとってのベストマッチ
 例えばオーストラリアでは鉄道敷設が盛んに行われているが、高速鉄道としての都市間輸送で計画されているのは数えるほどしかない。ほとんどが都市内交通機関である。なぜか。鉄道が非効率だからである。経済性ではない環境からの問題だ。
 オーストラリアは実は世界有数の森林国である。輸送の大半を航空と道路交通に頼っているが、国土のほとんどは未開の大地であり、しかも砂漠地帯以外は森林地帯で特に北部準州〜クイーンズランド州〜ニューサウスウエールズ州に至るわが国の国土面積を上回る広大な森林や熱帯雨林、沖合いに広がる世界最大のさんご礁という環境保護エリアを抱える。そんなところに軌道系を敷く環境負荷は計り知れないものがある。実際、オーストラリア東海岸はその過酷な地形環境から日本と同じ狭軌が採用されている。そんなところで軌道系中心の交通網を構築するということは環境負荷が逆に高いのだ。さらに最大の問題は送電ロスである。
 なにせ国土が広い。そんな国で鉄道電化を行う場合、発電所から電力需要地までの距離があるため送電ロスが生じる。これこそ逆に二酸化炭素増加要因になりうるのだ。
 アメリカやカナダもこれは同様である。ヨーロッパのように比較的狭い国土に人口密集地が転々としているのであれば、送電ロスは気にしなくても良い。その人口密集地に隣接して発電施設を設けられるからだ。でもそうはいかない場合もある。その場合にはよっぽど自動車交通のほうが環境負荷が小さくなる。アメリカの物流の場合には大陸横断のような高需要区間や大都市間、工業都市間など高需要が期待できる区間では鉄道が非常に強い。これはアメリカ的ベストマッチである。
 さらに言えば、オーストラリアで10万以上の人口を有する都市圏はさほど多くは無い。そういった都市圏ではいやがうえにも低需要となりがちであり、軌道系交通機関では単位輸送当たり環境負荷コストが大きいといえる。もちろん風力や太陽光発電でまかなえるのならなにも問題は無い。しかしあまりに広大な森林群はそういったものを作るスペースすら与えないのだ。であれば内燃機関のほうが効率がよくなる。低需要であれば道路のほうが無難なのだ。オーストラリアに行ってみれば解るが日本では想像し得ないような光景が見られる。ロードトレインの存在だ。これがオーストラリアにとってのベストマッチなのだ。
 ツバルの気持ちはわかる。同じことはモルジブやトンガでも懸念されている。でも、アメリカとオーストラリアがなぜ温暖化ガス排出が減らせないか。輸送分野が問題なだけではないことを考えなくてはならない。

2)日本にとってのベストマッチ
 それを日本と比較してなんの意味があるのだろうか。日本の場合には地方都市でも世界的に見れば驚異的な鉄道輸送分担率を有している。物流面では鉄道は弱いが、キロベースでみればヨーロッパと差は無い。逆に内航海運が少ないのが問題なぐらいだ。
 であるからこそわが国の「鉄道原理主義論」が異常なのだ。今の鉄道分担率の高さを批判しているのでも、モーダルシフトが悪いといっているのではない。利用者の視点を踏まえて効率をあげるにはどうするかという視点で考えることが必要なレベルなのだ。でも、それを無視して地球環境論などの大局・精神論から入るから肝心な点が見えなくなる。そこは批判されなくてはならない。アメリカやヨーロッパと同列で考えても正論にならない。
 都市のつくりも違えば規模も違う。可住面積あたりの施設量での批判は実は大きな間違いだ。なぜならヨーロッパなどの可住地というのは森林などを含むが、わが国は関東平野や河内平野の一部、北海道などを除き可住面積=現農地等により開発がされている地域であり、山間部などが多いという点が抜け落ち、さらには非可住地域が隣接していることと離れていることでは雲泥の差があるからだ。
 そもそも違いがありすぎるヨーロッパやアメリカとスペックを数字で比較しても何も意味は無い。これは行政や業界だけではなく環境派といわれる人たちも考えなくてはならない。
 トラック輸送でも以前検討されていたハイブリッド+バイモーダル輸送システムはどう考えるのか。積み替えなどによるエネルギーロスも少ないし鉄道と同程度の輸送力もある。それでも鉄道が優位といえようか。鉄道を整備することが目的化していないかということだ。鉄道輸送を否定するのではない。鉄道に過度の期待をかけるのは非現実的なのだ。であるからこそのベストミックスであることを忘れてはならない。

4 交通まちづくりの進展がわが国の事情を変える

 わが国ではようやく「まちづくり」ということが一般化してきた。これまでどうしても「都市計画」「交通」という固いものでくくられてきたが、やっと一般化して市民レベルでの取り組みが増えてきた。わが国の不幸な点はこれまでの市民運動が反体制的な動きであったことだ。本来、都市計画に右も左も関係ない。であるがなぜかその点が持ち出されてきた。しかし、最近になってようやくコーディネーターが育ってきて、中立性を担保するようになってきたからこそ、これまででは考えられないような展開での反対運動や精神論では無い具体的な取り組みが増えてきたのであろう。
 市民レベルでのまちづくり運動が進んできたのはわが国の交通問題の解決の一助となりうる。それは東京外環であったり小田急もそうであるが、多くの意見が広くさらされるようになったことで、反対賛成入り乱れた議論が可能となったことだ。これは大きい。場合によっては市民負担増による公共交通整備なども可能になるかもしれない。実際、市民の直接負担増で公共交通を維持している例は青森県や山形県などで行われているし、行政と市民が共同で公共交通を保持(運営は事業者に委託)することもいくつかの都市で検討されている(いわゆる「まちづくり会社」方式)。

 具体化するには例えば道路事業で行われている「パブリックインボルブメント」という市民参加手法を活用するのが一案である。実際、東京外環の都内区間で行われているが、反対、賛成それぞれが意見を出し合い活発な議論が行われている。ここでは市民も行政も立場を超えてお互いに意見を出し合い、その意見を情報として市民に提供することで、市民に判断を仰ぐことを行っている。その結果、アンケートによると「費用がかかっても環境対策を進める」「外環の整備は必要」という意見が圧倒的であった。これはこれまでの反対運動の流れに明らかに逆行した、いわば本当の市民意見が反映された結果である。

 ヨーロッパや北米の公共交通を整備している都市では多くがこれに類似した方法で進められている。TMAなどの市民と行政、事業者によるマネジメント団体がキーとなり、お互いのメリット・デメリットを整理し、公共交通だけではなく自動車交通も含め検討を行っている。ここでは「鉄道がいい」などという独善的な意見は通用しない。それぞれ各自の意見をすり合わせることが大切だからだ。もし、この中で鉄道ではなくバスを主体にするとなったら鉄道は整備できない。そのかわりその責任はその都市の住民が背負う。住民には環境負荷やコストのデータも詳細に示される。これを判断基準にするからそうそう間違えた判断はできない。決定過程は原則公開であるから変な計画を立案したらその都市の競争力低下につながることが明白であり、住民は自分たちの町をいかに良くするかという観点でものごとを判断できるからだ。
 わが国では無理だという意見もある。しかし、現実に市民はこのような状況に置かれればきちんと判断できる。今回の東京外環の例はまさにそれを的確に示している。もちろん反対運動はある。環境破壊という言葉での従前どおりの反対運動であるが、市民にはどう写るのか。すくなくとも議論の過程はすべて公開されている。シンポジウムでの発言は新聞などにもきっちり掲載される。公開のシンポジウムでは「反対!」などの野次は出ない。なぜなら反対・賛成双方の意見を尊重することが前提だからだ。その上で議論が進むから整然と行われている。冷静に住民側に判断する余地を与えている。
 住民投票にしても、先進的な理想はYES×NOを判断するのではなく、いくつかある案から上位2つを選択するぐらいのものが求められている住民投票の形だ。現に欧米はそうなのだ。外環の場合はそれを投票ではなくアンケートという形で表した。どのエリアの人がどの程度賛成したのかまでわかる。
 いわば既存の市民運動型反対運動団体よりも法、行政、事業者、学界、そして「本当の市民」が先を行っているということだ。
 単純に環境論や精神論、経済論、利便性論では説得力をいまや持ち得ない。それだけ市民のレベルが上なのだ。行政も同様だ。しかも都市計画法等の法律においても計画段階での市民参加が理念となっている。それを考えずしての「反対意見表明」などの原理主義的独善的発想はもうだれもついてこない。この流れは変わらないと思われる。

5 報道〜実は鉄道の報道量は多い

 軌道系整備や自転車に関するいわゆるモーダルシフト論は自動車に関することよりも明らかに露出が多い。ところがなぜか自動車・道路論が目立つ。なぜか。
 それは「利用者の視点に本当にたっているか」である。
 例えば国土交通省のHPを見ていただきたい。道路局のHPには将来の需要予測根拠、人口推計根拠、道路計画にあたっての費用対効果まで詳細にデータが検索できる。ここではその是非はあるにせよ、少なくとも利用者の視点にたってのデータも提供されている。極論をいえば行政には不利なデータもある程度読み取れるのだ。
 ところが鉄道局はどうか、鉄道会社はどうか。確かに理念は述べられている。しかし、正直道路局と見比べると弱い。
 縦割りどうこうという観点で見たくは無いが、明らかに資料提供量が違う。確かに政治的問題があるし、鉄道は道路以上にデリケートである。が、それでも道路局と比較してみれば弱いのは明らかだ。
 報道で見てみるとどうか。Yahooニュースなどで検索するとわかるが、案外鉄道のニュースの露出は多い。道路系は批判が大半であるし、自動車も同じだ。
 ところがなぜ自動車が目立ち、鉄道が目立たないか。簡単である。自動車のニュースを良く見てほしい。報道発表を見ても実にメリットが明確だ。しかも環境悪化要因も把握は難しくは無い。ところが鉄道はどうであろうか。新幹線などでの公団の発表などはメリットが明確であるが、鉄道会社の発表は今ひとつメリットが見えない。これではニュースソースとして面白くないのだ。環境どうこうではない。見せる努力をしているかしていないか。そこである。広告がよいか悪いかではない。

6 これからの交通網整備手法のカタチ

 これからはおそらくパブリックインボルブメントやまちづくり的手法により、交通網を様々な観点から議論を進め、計画を立案していくことになろう。
 現に道路整備で実践されているし、極論さえ出ないようにすること、相互信頼以前の問題である相互の情報共有を進めることが必要なのだ。
 独善的に何かが良いからこれがベストだなどと押し付ける形での事業整備手法はもう通用しない。それが未だ公共交通の分野では全国的に進展はしていない。
 そこがポイントだ。
 情報は黙っていては入らない。自ら動かなくては入手できない。それは世界中の常識だ。その代わり、動けば動いただけの情報を得られるようにする。そしてその情報で各自がどういう考え方が正しいかを判断し、自分の意見を主張すればいい。その上で議論を進め出た結論を皆尊重して進める。ただ、適宜見直しはしなくてはならない。その際にいかにして中立的な専門知識を有する人間を入れてコーディネートさせるかである。
それができれば確実に交通網整備は進む。鉄道にも道路にも中立的な立場で物事を考えられる人間こそが今必要なのだ。

 国レベルではこういうわけにはいかないが、少なくともわが国でもパブリックコメントというもので国民意見を反映できる仕組みはある。まだまだ足りないが、その結果の公表などは極めて重要な点であるし、そこは素直に評価しなくてはならないであろう。
 そのことを無視して、強力な指導者だの公と私がどうこういっても現実が前を歩いているのだ。その上でこれからを考えなくてはならない。

 

 地球環境が危ない。これは否定できない。しかし、十分に考える時間はある。いかにして最悪の事態を避けるか、そのためには固定概念にとらわれないなにかが必要なのだ。それを認識するには・・・そこがもしかしたら最大のポイントなのか・・・


Re:環境問題に対する私見
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/08 23:02:48)

 しばらく様子見を続けておったのですが、ご高説に誰も投稿しようとしないので、小生が投稿します。もっとも反論というより感想に近く、軽くご笑覧いただければ幸いです。

 環境問題を完全に解決する手段などあるであろうか。もしそこを突き詰めていくと人間は原始以前の生活に戻るしかないのであろう。

→大前提として、この世に永遠なるものはないということが大事です。人類はいつか滅びる。まさに栄枯盛衰ですな。般若心経にあるとおり、この世は一切「空」(くう)であり、およそ「実体」なんてものはないのですから。

 しかしそんなバカな話は無い。ではどうすべきか。

→結局、人類の滅亡をなるべく「先延ばし」する努力をすることです。

 解決する手段としては面交通である自動車と線交通の鉄道、2点間輸送の海運、航空の4者をミックスさせなくてはならない。その視点を持たずしての軌道優位が根底にあるとしか思えない「環境負荷による自動車性悪論」は「鉄道オタクの妄想」として失笑されるのも仕方が無いといえよう。

→ですが「鉄道オタク」は無視できるほどわずかな人数でしかなく、彼らの主張が社会的に影響を及ぼすなんてことはとうてい考えられません。それより「自動車オタク」のほうが圧倒的に数は多い。ドライブが趣味という人は多いし、実用性を超えた奇怪な3ナンバー車はどんどん売れるし、横断歩道に減速せず突っ込んでくるバカは多いし、鉄道雑誌より自動車雑誌のほうがはるかに部数は多い。だいたい日本全国どこへ行っても、自治体に対する住民の要望項目ナンバーワンは道路整備です。

 まず交通計画の基本が都市計画であり、国土計画である。

→個人的には神戸がいいと存じます。六甲山と播磨灘に挟まれ、そこへJR、阪神、阪急が並走しており、たいへん便利です。

 それはすなわちベストミックスを意味する。それができるのかというが、何気にそれなりのレベルで出来ているのが東京であり大阪であるということを私たちはもっと評価しなくてはならない。その上で、ヨーロッパなどの取り組みを評価しなくてはならないのだ。

→これは結果論ではないでしょうか。たしかに東京や大阪の公共交通は発達していますが、べつに交通政策そのものがすぐれているのではなく、たまたま人口密度が高く、勤め先に駐車場をとりえない人が多いこと、たまたま高速道路が有料であることが大きいと存じます。首都高や阪神高速の通行料の高さが事実上のロードプライシング効果を挙げてはいますが、日本の高速道路が有料なのは建設費を償還するためであって、無駄な自動車利用を抑えるためでも何でもありません。それに日本の公営交通はいまだに独立採算制であるほか、昨今の規制緩和の流れを受けて鉄道やバスの廃止がにわかに進みつつあります。交通政策自体は欧米のほうが一歩も二歩も先んじていると存じますが。

 ハイブリッドなどの自動車内燃機関の技術革新もすさまじいものがある。上高地や志賀高原、富士スバルライン、さらには最も過酷であろう道路日本最高所の乗鞍岳などの山岳道路の高負荷条件下を走行できるハイブリッドバスもあるご時世だ。ここ数年でハイブリッドやLPGなどの技術革新による燃費向上は環境問題の考え方も一変させるかもしれない。

→ハイブリッドが威力を発揮しうるのは頻繁に加減速を繰り返す場合であり、定速走行や連続する上り坂ではかえって燃費は悪化します。

 なにせ国土が広い。そんな国で鉄道電化を行う場合、発電所から電力需要地までの距離があるため送電ロスが生じる。これこそ逆に二酸化炭素増加要因になりうるのだ。

→気動車では駄目なんですか。

 であるからこそわが国の「鉄道原理主義論」が異常なのだ。

→そういう人はごくわずかでしょう。「自動車原理主義論」を唱える者のほうがはるかに人数は多いはずです。

 わが国の不幸な点はこれまでの市民運動が反体制的な動きであったことだ。本来、都市計画に右も左も関係ない。

→これはおっしゃるとおりだと思います。マルクス主義者ってのは今なおしぶとく残存を図っており、特に教育界、マスコミ、法曹界は左翼勢力の牙城です。詳しくは「戦争論2」(小林よしのり著・幻冬社刊)をお読みください。

 そのかわりその責任はその都市の住民が背負う。住民には環境負荷やコストのデータも詳細に示される。これを判断基準にするからそうそう間違えた判断はできない。決定過程は原則公開であるから変な計画を立案したらその都市の競争力低下につながることが明白であり、住民は自分たちの町をいかに良くするかという観点でものごとを判断できるからだ。

→大衆にそのような識見があるんですかね。専門的なデータを示されても、多くの者は理解不能なのでは。

≪関連投稿≫ 環境問題に対する概見と異見 ../../highway/log512.html#2

2004.11.14 Update


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