【検証:】過去ログSpecial

【検証:近未来交通地図】Special012
寒風つのりゆく鉄路〜〜山田線・岩泉線実乗記
(2002/11/17)

 本投稿は、【検証:】掲示板でもお馴染みの、和寒様より当BBSに御投稿頂きました文章を、読みやすく構成させて頂いたものです(なお一部文面を編集しております)。 また、文中の写真は和寒様に所有権帰属となります
 なお、本文は和寒様のサイトでも加筆の上公開されていますので併せて御覧下さい。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/5256/yama/00.html

 なお、【検証:】では掲示板投稿に限らず広く皆様からの御意見・レポート等を御紹介致します。自分ではホームページを持っていないけれど、意見が結構纏まっている…という貴方、各種ご相談に応じますのでお気軽に管理人までどうぞ!

下記内容は予告なしに変更することがありますので、予め御了承下さい。
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 このたび所用があって盛岡に行ったのだが、一日フリーになる機会を得たので、盛岡−八戸−久慈−宮古−岩泉−盛岡と鉄道一周旅行をしてきた。前半の東北本線及び八戸線、そして三陸鉄道も興味深い対象であったが、後半の山田線と岩泉線の印象がひときわ強く、ここに一文を呈してみたい。

 本スレッドの記述は、拙HP「以久科鉄道志学館」に掲載したものと同文です。なお、今後の精査に伴い、HP内の記述には変更を加える可能性があります。

以久科鉄道志学館 http://www.geocities.jp/history_of_rail/

宮古から茂市まで

■岩手県沿岸最大の都市宮古
 三陸鉄道北リアス線114Dに乗車してから、既に 2時間近く経った。田老で交換する115Dが9分も遅れたのだが、遅れを気にするような雰囲気は車内にない。秋空の爽やかな陽光に照らされた車窓は美しく、少しの遅れなど忘却させるゆるやかさを感じさせる。
 宮古に到着。ホーム1面のみという簡素なつくりだ。駅はJRと完全に分離されており、連絡を密にするにこれで充分なのか、疑問を感じざるをえない。

 写真−1 三陸鉄道北リアス線宮古駅

 岩泉線直通685Dの出発までまだ時間がある。遅い昼食をとるにはちょうどよいと、駅前で寿司を食してみる。味は可もなく不可もなくというところ。港町なのだから、新鮮な海の幸を堪能したかったのだが。
 宮古市は人口5万5千人。岩手県海側の自治体では最も人口が多い街だ。宮古駅の構えも相応に立派である。駅前に人の動きが少ないことがやや気になるところで、街の雰囲気をいま少し確かめたかったが、残念ながら発車時刻が迫ってきた。

 写真−2 JR山田線宮古駅

■要路と思えぬさびしい風景
 685Dはキハ52の単行である。製造当時は高出力型として鳴らした車両とはいえ、今日ではむしろ非力な部類に属する。なによりも古い。筆者とほぼ同年輩であるから、鉄道車両としては相当な高齢である。改修しているので車内は明るいが、全体を覆う「古くささ」は隠せない。

 写真−3 宮古で出発を待つ685D

 ガラガラとエンジンが唸り、685Dは出発する。車内を見渡すと、32名の乗車があった。かなりの部分が地元の利用者のようで、宮古での用事を済ませての帰路を見受ける。
 千徳・花原市(けばらいち)と停車するたびに数名の利用者が降車していく。宮古近郊区間の列車、という位置づけもあるようだ。
 しかし、車窓の風景はかなりさびしい。家々は疎にして点在、並行する国道106号線を行き交う車両も少なく、人の気配が少ないのだ。海岸随一の都市と県都を結ぶ要路の道中にしては、あまりにも活気に乏しい。閉伊川に沿う谷筋の紅葉は見事で、観光気分で臨むには見応えある。それにしても、3連休中日にしてこの閑散たる状況とは、このあたりは観光地としての魅力も薄いということなのだろうか。
 宮古市と新里村の境を越えると蟇目(ひきめ)。谷はいよいよ深くなり、険阻な山道を往く趣が強くなる。

■茂市は村の中心なれど

 新里村の中心地、茂市に到着する。685Dはここで23分も停車する。3646D「リアス」との接続をとるという意図は理解できるにしても、これだけの長時間停車は解せない。685Dの宮古出発を10分ほど繰り下げることはできないのか。
 充分すぎるほどの停車時間を活かして、駅前に出てみる。乗務員も駅舎内に移って休憩しつつ、間延びするほど長い停車時間を送っている。
 タクシーが1台停まっているが、肝心の運転士が不在で、鉄道から流れてくる利用者がいるとは期待されていないようだ。駅前は実に閑散としている。太陽が山際に隠れたせいもあり、さびしい趣だ。駅前の道を進むと丁字路があり、構えの立派な旅館に出会った。新しい建物のようだが、その風格には年月を経てきた深みを感じさせる。小学生高学年とおぼしき生徒が2人、自転車で通り過ぎていく。旅館にカメラを向ける私の姿は彼らには怪訝に見えるようで、いかにも胡散くさそうな目で振り返られた。

 写真−4 茂市駅前の茂市屋旅館

 駅に戻ってみると、停車時間の半分も過ぎていないことに気づき苦笑する。構内の造作は広闊だ。2面3線に中線側線も多数あり、往事の繁盛がしのばれる。 3646D「リアス」が 8分遅れで到着する。それなり乗車はある様子だが、ここ茂市での動きは少ない。685Dには 2名が乗り換えてきた。少数の利用者でも大切にするという思想は是としても、少数の利用者のための23分停車にはどうしても納得しかねるところだ。

 写真−5 茂市で離合する685D(右)と 3646D「リアス」(左)

茂市から岩泉まで

■人煙稀なる峠越え

 岩手刈屋・中里・岩手和井内と1駅毎にぽつぽつ降車があり、車内は少しずつさびしくなっていく。車窓の風景はさらにさびしい。人家が少ないうえに、日暮れて薄暗くなってきた。
 岩手和井内からは山越えとなり、人煙がいよいよ稀になる。押角には小さな集落があるが、乗降ゼロ。並行している国道340号線を通る自動車もほとんどない。サミットの長いトンネルを抜けると、岩泉町に入る。岩手大川でも乗降ゼロだ。
 押角−浅内間は、岩泉線はもとよりのこと、公共交通そのものが不要なのではないかとさえ思えてくる。車内の利用者数を見ても、沿道の状況を見ても、需要が極微であることは明らかだ。必要があるとすれば、岩泉町と宮古市あるいは盛岡市を結ぶ交通機関であり、それが岩泉線または国道340号線ルートを通る必然性は限りなく薄い。
 浅内で1名降車し1名乗車してくる。二升石では浅内で乗ったばかりの1名が降車する。浅内−二升石間は2.8km、歩くにはやや長い距離だが、1日に3往復しかない列車の利用法としては面白いところだ。
 685Dは岩泉に到着する。最後まで乗車したのは19名。改札を足早に抜けたのはその中のごく一部、大部分は駅周辺でカメラを構える趣味者の一群であった。

写真−6 岩泉駅全景 

■つくりのみ豪壮なる終着駅

 岩泉駅の造作は立派である。開業は昭和47(1972)年であるから、歴史はかなり新しい。それまで浅内を終点としていた小本線がAB線として延伸されたのである。岩泉駅は龍泉洞にほど近く、観光振興の起爆剤として期待されたのであろう。
 しかし、現実はどうか。盛岡と岩泉を結ぶには、山田線・岩泉線は三角形の二辺を経由しており、遠回りにすぎる。列車の運行本数はもともと少ないうえ、ダイヤ構成は観光を必ずしも意識していない。運行本数が極限的に縮小された今日に至っては、山田線・岩泉線が観光ルートの一部として認識されることは、まずありえないと断じていい。
 これだけの施設が活況を呈したのは、いつ頃までだったのか。「観光案内所」の構えが立派であるだけに、観光客の姿もなく係員の配置もなく、照明のみ点いている現状はただただ空虚、ものがなしい光景というしかない。

写真−7 岩泉駅観光案内所 

 かつての路線名が示しているとおり、岩泉線の終着駅は本来小本(三陸鉄道南リアス線)になるはずだった。しかし、路線がさらに延伸されることはなかった。三陸鉄道の発足に伴い未成区間の建設が行われたが、岩泉−小本間はこれに含まれなかった。岩泉線の線形が利用者の流れに合致していないことは、当時から既に認識されていたのかもしれない。そもそも岩泉線が特定地方交通線の指定を免れたことは、いくら沿線の道路事情が悪いとはいえ、客観的には不可思議というしかない。

写真−8 見果てぬままの夢 

■かつての終着駅

 685Dから見ていて、浅内駅の様子が心にとまっていた。駅前に1台だけ客待ちしていたタクシーに乗り、浅内に向かう。
「お客さんが降りてきたけど、皆さん駅の写真を撮っているから、今日はもう上がりだと思っていた」と運転士さんはうれしそうに言う。「列車の折り返し時間を使って、龍泉洞観光を勧めてみようかとも思ったけど、声かけするきっかけがなかった」とも言う。
 せっかく岩泉まで来たのだから、龍泉洞の奇景を確かめ、あわせて街の雰囲気を味わうのが本当であろう。しかし今は時間がない。太陽はもはや山際に隠れ、寸秒ごとに暗さが増していく。少しでも明るいうちに、浅内の景色を目にとどめたい。
 短い道中、運転士さんは饒舌だった。曰く、岩泉町の人口は2万8千人から1万3千人まで減った、家庭裁判所は廃止されNTTの局も無人化された、浅内は炭焼きで繁盛した地区で、国鉄の社宅もあり賑やかだった、人口が減れば様々なものが廃止の対象になる、JRバスも年度内に廃止されるそうだ・・・・・・
 浅内は今でこそ1面1線の小駅ながら、かつては交換設備と何本かの側線を備えていた形跡がある。構内の給水塔と駅前の日通建家は、栄華と殷賑の面影であろう。陽が没した山野は暗くなるばかり、人通りはほとんどなく、駅前の商店には店番の姿もない。近くを流れる川の音は耳騒がしく、列車が来るまでの時を刻んでいく。空には星が満ちはじめ、吹く風はいよいよ冷たい。本当に列車が来るのか、不安になってくる。
 しかし686Dは定時に到着した。扉が開くと少女が飛び出し、勢いよく構内を駆け抜けていった。

写真−9〜11 浅内三景 

浅内から盛岡まで

■さらに人気のない旅程

 先に記した少女1名が降車、筆者が乗車し、茂市行686Dは出発する。車内には総勢16名が座っているが、そのことごとくが一瞥して趣味者とわかる風体だ。筆者を含め「乗車」していても「利用」しているとはみなしがたい一行が、686D車中の全てである。
 車窓は真っ暗で、周囲の様子はうかがえない。各駅毎に停車はしても、乗降はまったくない。律儀なアナウンスがかえってむなしい。
 車内は静けさを保ったまま、686Dは茂市に到着する。16名は三々五々散っていく。構内で撮影しているうちに、まずは宮古行658Dがやってくる。キハ52×2という編成で、座席はそれなり埋まっている様子だ。交換待ちはやむをえないとしても、終点目前の駅で13分停車とはいかにも長い。なんとか改善できないものか。
 次いで盛岡行649Dが定時に到着する。こちらはキハ58(近郊改)+キハ52という編成で、各ボックスに1〜2名程度の着席が見られる。先の686Dよりはいいとしても、さびしい状況ではある。ロングシート部の着席などは筆者を含めても2名しかいない。座席が長く通路の幅があるだけに、うつろな印象が際立っている。

 写真−13 茂市で出発を待つ649D(左)と交換待ちの658D(右)

■真っ暗な山道をゆく

 車窓は漆黒と形容してもよいほどに暗い。とにかく明かりが少ない。人家のともしびはほとんど見えず、並行する国道106号線には街灯が乏しく、当然ながらネオンやサインの類もない。ただただ暗い山道を、649Dは進んでいく。
 新里村及び川井村内の各駅では、停車するたびに降車がある。岩泉線685Dと同様、宮古からの帰路の足として使われている様子だ。降車は腹帯(はらたい)・陸中川井・箱石と続き、川内で動きが止まる。降車ばかりで乗車がないから、空のボックスも目立つようになり、車内はすっかり閑散としてしまった。その数少ない利用者も、礼装姿の老夫婦ほか若干名を除き、趣味者がほぼ全てを占めている。してみると、平日はどんな状況なのか。容易に想像できるものの、あまり想像したくない。
 峠越えにさしかかり、駅間が長くなる。川内から平津戸まで13分、平津戸から松草まで同じく13分、松草から区界までは10分を要する。車窓はひたすら暗く、乗降もなく、車内の空気はけだるい。
 区界では宮古行662Dの交換待ちで13分停車する。山田線ではやたらと多い交換待ち停車、乗る側にとっては時間の無駄としか思えないのだが、このたびばかりはありがたい。途中下車して国道対面のコンビニに飛びこみ、フィルムを調達する。おかげで区界駅の写真を撮ることができた。

 写真14 区界駅

 区界は峠のサミットにほど近いのだが、周囲の風景はよく見えない。暗き向こうもまた暗いという様子からして、多くの人家があるわけではないのだろう。国道沿いであるゆえコンビニが商売になるとしても、20時近いただいまの時刻では往来も少ない。店内の照明と「HOT SPAR」と掲げられたサインのみが煌々と明るいさまは、周囲の暗さとは乖離し、ほとんど別世界である。
 662Dがやってきた。2両編成の宮古寄りはキハ52原色塗装車である。趣味的には興味をひく塗色ながら、車内には空席ばかり目立っている。

 写真−15 区界で交換待ちの649D

■サミットを越え盛岡市内に

 649Dは長いトンネルに入り、国道106号線とわかれる。もはや盛岡市内とはいえ、進むのは無人の山野だ。浅岸・大志田にはかつてスイッチバックの交換設備があったが、これらは撤去されて既に久しい。昔日の両駅の光景を見ると、鉄道の主役が本来なにであったのか、再認識させられる。今日の山田線には貨物列車なく急行列車なく、普通列車のみが申し訳程度の本数で走っている。その事実が持つ意味は、実はかなり重い。

I Love Switch Back  浅岸駅の昔日 http://www.people.or.jp/~egamifam/asagishi.htm
大志田駅の昔日 
http://www.people.or.jp/~egamifam/ooshida.htm

 浅岸・大志田はともに「秘境駅」上位にランクされるほどの絶地に立地している。ことに大志田は下り1本上り2本の停車しかなく、利用者はおそらく皆無に近いのであろう。・・・・・・そう思っていたところ、大志田で数名の乗車があって驚いた。おそらくは662Dから折り返してきた趣味者であろうか。
 上米内からは2名の乗車があった。今日中に山田線列車では帰ってこられない時間帯に乗車があるとは、盛岡都市圏の懐の深さといえる。

 写真−16 山岸駅

 山岸では乗降なし。昨日訪れた際には643Dに 3名の乗車と若干名の降車があり、かなり驚いたものだが、さらに 3時間遅いこの649Dに乗ってくる利用者の影はなかった。上盛岡でも乗降はなく、649Dは盛岡に到着した。宮古で685Dに乗ってからおよそ 6時間。岩泉を経てきたとはいえ、長時間に渡る乗車となり、さすがに疲れを覚えた。

盛岡から上米内まで

■昨日までの印象

 たった一日の、しかも片方向の利用のみにて、山田線の利用状況を語るのは危険であるかもしれない。それでも強く感じられたのは、宮古−盛岡間直通需要の薄さである。直通列車といっても、宮古近郊区間列車と盛岡近郊区間列車をつないだような趣があり、峠を越える利用者は極めて少ない。
 車内で目立っていたのは趣味者で、これが利用者の大部分を占めるといっても過言ではない。趣味者の客単価は相対的に低く、席が埋まったとしても収入増に貢献しているとはいいにくい。
 同日に乗車した三陸鉄道北リアス線では、旅行者の姿が多数認められた。一般の旅行者は客単価が高く、鉄道事業者にはありがたい存在だが、筆者が乗車した列車に旅行者の姿は皆無だった。沿線に観光地がないわけではない。ダイヤ構成に観光行動への配慮がないことが、旅行者の足を遠のかせているのではないか。
 とはいえ、しかしながら。
 並行する国道106号線が盛況であるならば、「山田線も奮起せよ」と促すだけの社会的意義があるといえる。ところが、その国道もまた閑散としているのである。紅葉の美しい三連休だというのに、道路が混雑している様子はまるでなかったことを、どのように理解すればよいのか。
 宮古の人口規模は、宮古に発着する交通量の規模を規定する。しかし、宮古を経由する観光交通量は、人口規模に関わりなく、宮古周辺の観光地の魅力に比例するはずである。であるならば、交通量が少ないという現実は、ある一つの解釈のみを呈示する。
 山田線と岩泉線をどうするか、と考えてみたところで問題提起につながるとは思えない。ただし、山田線と岩泉線を地域のなかでどう活かすか、というアプローチを採らない限り意味がないような気がする。

■意外なる健闘 2624D

 明くる朝は盛岡駅構内で東北本線列車を撮影し、8時ちょっと前に山田線ホームに足を向けた。休日は8時9分発2624Dが下り一番列車となる。都市間輸送と都市圏輸送を担う路線と思えぬ「朝寝坊」ぶりである。新幹線の高架下、暗く窮屈なホームにキハ52の2両編成が待っていた。

写真−17 盛岡で出発を待つ 2624D 

 時間帯と方向からして、2624Dは事実上の回送列車かと予期していた。ところが、筆者がホームに着いた時点で既に2名の先客があり、さらに4名が乗車、筆者を含め7名での出発になったことには心底驚いた。この時刻に郊外に向かうとは、いかなる用事があったのか。壮年層以上はともかくとして、若年層の用事が気になってしまう。
  2624Dは盛岡を出発し、平地を軽快に進む。上盛岡で2人降車する。盛岡にせよ上盛岡にせよ、市街中心部から離れており、都市圏輸送の核になりえないのは痛い。
 トンネルをくぐると山岸で、1人が降車する。山岸は市街地の外縁部に位置している。駅そのものは狭い街路に囲まれている格好で、案内がごく悪い。よほど慣れた方でないと利用できる立地ではない。
 山岸を出ると、風景が急激に山野へと転換する。盛岡都市圏の範囲は狭い。世界的には常識ながら、日本では珍しい「コンパクト・シティ」である。 2624Dは川に沿って進んでいく。並行する道路には数次に渡る改良の形跡が認められる。ほんの半世紀前まで、日本の道路がどれほど貧弱であったか、よくわかる典型的事例のひとつといえる。

写真−18 上米内駅 

 上米内は谷あいの小さな交換駅だ。駅舎と構内の写真を撮るだけでなく、駅周辺を歩き回りたいところながら、折り返し時間が短いため、できることが限られてしまうのが残念だ。

写真−18 上米内で出発を待つ 2623D 

■上盛岡に見る山田線の本質
 折り返し2623Dには11人の乗車がある。筆者を除き全て地元の利用者で、空席が目立つとはいえ、さびしいという感じはしない。山岸では 6人の乗車があり、車内の空気がやや賑わってきた。上盛岡では2人が乗車、2人が降車する。降車のうち1名は筆者で、実は上盛岡近くに所用があるため、これにて全旅程終了である。

写真−19 上盛岡駅 

 上盛岡は交換設備を撤去した無人駅で、かつての構内はかなり広かったようだ。現在は3棟のマンションが建っており、周辺の都市化が進んでいることがうかがえる。
 よくよく見ると、マンションの1棟には「びゅう」、もう1棟には「レールシティ」と銘されている。ということは、開発者はJR東日本の子会社、底地はもとの上盛岡駅構内ではあるまいか。一日わずか6往復のローカル線とはいえ、「駅前徒歩1分」という至便を前面に出したのであれば、売り手の責任としてダイヤに相応の誠意と工夫を示す必要に迫られる。
 盛岡−上米内間に区間列車が設定された理由が上記にあるならば、山田線の存在意義は昔日とは大きく異なっていると認識しなければなるまい。
 上盛岡駅の裏手に回ってみると、いわて銀河鉄道の建家に出会った。どうやらここも、上盛岡駅構内の一隅だったようだ。
 不要地を処分してマンション等に転用する。ダイヤには最低限の配慮を加え、直通需要に期待をかけてはいない。また、実際に直通需要が少ないという厳しい現実もある。原色塗装車を走らせて、ちょっとした趣味的話題を惹起したりもする。これら実態を総合した向こうに、JR東日本の山田線に対する姿勢が透けて見えるとはいえまいか。

写真−20 上盛岡駅周辺(踏切より撮影) 

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2004.11.14 Update


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