【検証:】掲示板過去ログ集

【検証:近未来交通地図】
(過去ログNo.120)
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定性論による批判から科学的批判へ 〔続〕
 投稿者---和寒氏(2003/10/01 21:00:12)
 
http://www.geocities.jp/history_of_rail/

定性論による批判から科学的批判へ
(以上前ページ)

└「対応の空白」の是非を問いたい
 └敢えて定性論を展開する
  └目的に対する意味合いの違い
   └なるほど<とりあえずの結論>
超横レス的展論<「ひねくれた」ものの見方があってもよかった>
 └超横レス:「信頼」と「余裕」
  └超横レスの蛇足
ちょっと蒸し返しますが
 └さらに反論になりますが
  └感想戦というか雑感というか...
   └私からの感想戦
    └Re:私からの感想戦
     └意外なところにも本質が

▽前ページより

「対応の空白」の是非を問いたい
 投稿者---エル・アルコン氏(2003/10/03 15:44:55) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 定性論というより駄論ですが、過分な言葉を頂き恐縮です(汗)

 さて、定性論についての部分ですが、それは自覚しています。和寒さんのようにデータを積み上げて語ることに対して、定性的な話、というかほとんど感覚論で対応した場合、ことの優劣を判断することが難しくなるわけで、ある意味紛れのテクニックでもあるからです。
 しかし、実際には利用者の感性、心理といった分野が自体を決める重要な要素になることも否めず、いわゆる「計算違い」「見込み違い」と言われるものは概ねそういう要素に端を発しています。

●事故の背景

 では本題です。

 動くべき時間に電車が動かせなかった。これの回復が遅れ、対応に手間取ったのが今回の事故です。
 電車が動かなかった、ということについては、通常の異常時対応と大規模工事における失敗との間での確率算ではなく、動かないということにおいて、止まるかもしれないと言う確率が支配している異常時発生と、人為的に形成した結果として100%止まっているところから始まる大規模工事では、やはりリスクについての考え方が異なって当然でしょう。

 ただ、いわゆる「立ち上げリスク」として考えると、鉄道は毎日このリスクを「始発電車」の時点で負っているわけで、始発が正常に動かなかった時の代行輸送手配を特段していないことを考えると、論旨が鈍るのは否めません。
 過去の大規模工事において成功例がほとんどと言うことを考えると、通常時には特段の立ち上げリスク対応をしていないことに鑑み、立ち上げリスク対応そのものが不要であると言うことも可能です。

 代行輸送手配については、他社鉄道・バス路線によりカバーすべきものと、不可能なものがあります。カバー可能なものについては振替輸送の手配と適切な案内で対応出来る話です。問題は代行バスによる対応しか出来ない部分で、それに限った議論と認識しています。

●対応手段を持つべきか否か

 今回に限らず、異常時対発生で鉄道が止まった時に足を奪われて混乱が発生しますが、もし対応、つまりバックアップが完璧ならばバックアップ手段を利用することで混乱が発生しません。

 例えば電力、通信などは二重以上のバックアップがあるため、何かトラブルがあっても機能が損なわれることはないため、利用者に影響は出ません。
 通常時であれば一系統あれば充分なのに、通常は使わない系統を用意するのはそこだけ切り取れば無駄ですが、トラブルによるサービス供給停止が許されないという前提でその無駄は無駄ではないと認識されています。

 機械の操業においても、予備品をどこまで備えておくかと言う問題がありますが、それがないと操業に重大な支障(長期間の停止など)が生じる重要な箇所については「危険予備品」(表現は会社等によって異なるかもしれない)として常に備えておくのが通常です。そしてそういう事態のリスクを算定する時には、そうした「危険予備品」で対応するのか、発生した時点で発注するなどの対応を開始しても大丈夫なのか、という復旧までのスピードで判断します。

 鉄道の場合はどうでしょうか。
 常に100%の提供を供給されるがため、普段使わない線路を整備しておかないといけない、と言うほどの対応は求められていません。とはいえ発生したらその時点でのベストエフォートで再開すれば良いというわけでもないわけで、それが代行手段の確保となります。さらに代行手段の手配までの空白についての許容度も問題になるのですが、そこにおいて、人身事故などの異常事態という不可効力なのか、故障その他の事業者理由によるものなのか、「被害者」である利用者側の環状も慮った対応が必要になります。

 では今回の事故はどうでしょうか。
 発生タイミングは確かに分かりません。しかし、事業者理由により「止まっている」という地点からのスタートであり、代行手配までの空白そのものに対する許容度は低いと見なせます。
 もちろん腰だめの数字で代行手配の時間を決めるというのもこれはこれで問題であることは確かで、不通になることにより影響が大きな時間帯は最低限カバーするという対応か、発生した時点で手配して対応が可能になる時点まで、つまり、空白時間を作らない範囲をカバーするという対応のいずれかになります。そして後者の対応であれば、サービス提供の空白を作らないという公共サービスのスタンスに則った合理的理由に基づいているわけであり、批判を受ける余地も少ないです。

 このあたり、鉄道と言う公共サービスにおいて、本来提供されるはずのサービスが、理由の如何に関わらず空白(代行手段の未提供という意味で)が容認されるのか、また容認されるのであればどの程度なのか、という論点として考えたほうが良いのかもしれません。
 それにより、代行手段の確保があるとはいえ、正常なサービスについての空白が発生する長大間合いを伴う工事のあり方についても回答が出るであろうからです。

敢えて定性論を展開する
 投稿者---和寒氏(2003/10/06 19:56:27) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 この件に関しては、やや重たいながらも意義ある議論になってきた心地がします。内容的にはエル・アルコン様に対し厳しいものとなっていますが、記すべきことはこれで概ね記せたかなとも思っております。

■鉄道には同質の代替手段は存在するのか
 さて、実は拙論においては重大な書き落としがあったにもかかわらず、その点について当方の意を汲んで頂きまして、ありがとうございます。
 それは、代替バスが実質的な代替手段にはならなくとも、容易に調達可能なものであれば、JR東日本は代替バスを準備しなければならない、という点です。最高でも金最低でも金に記したとおりでして、代替バスの即時調達は極めて困難なものがあります。それゆえに拙論では「本来の運休時間を超えた代替バスの手配は現実的には無理」との立場を採っております。逆にいえば、代替バスが即時調達可能な手段であるならば、その手を尽くさない不作為は責められてしかるべきでしょう。

 そしてこれは、鉄道という、あるいは鉄道のみならず交通機関の本質でもあるのです。世の中に同等の代替手段が存在するシステムはどれだけあるでしょうか。エル・アルコン様が例示された電力ネットワークは、確かに複数経路・複数回路を具備しているとはいえ、これは最ピーク時需要に合わせてネットワークを構築した成果でもあるのです。通常時には充分余裕があり、一部が切れてもすぐ復旧できるだけのリダンダンシー(Redundancy:冗長性)を備えたネットワークだとしても、最ピーク時に同様の芸当ができるかというと、やや心許ないものがあります。
 交通機関ではさらに状況は心細く、現状で同等の代替手段(経路)を有する交通機関といえば、長距離あるいは首都圏での高速バス(高速道経由の自動車)、関西圏での航空、などといったところしか見当たりません。鉄道は見かけ上複数経路があるように見えて、実は線路容量や輸送力が逼迫しているため、実態として代替経路は限られます。
 なぜそうなのかという歴史的考察は、ここでは追いきれないので措くとして、交通機関の経営が営利事業だということが寄与しているのかもしれません。要は、効率的な経営ができるように、需要にあわせて供給もバランスする、という話です。従って、現状の供給は需要にあわせて最適化された結果であり、たとえ一時のこととはいえ、供給量の大幅な変更は簡単なことではないと考えられます。
 だからこそ、代替バスの手配は難しいわけです。このたびの工事運休に関しては、大量の代替バスが動員されているはずで、これの手配には月単位の時間を要します。ひょっとすると、一年以上前から準備が始められていたかもしれません。供給量の変更とはかようにもタイトな事柄であり、いくら工事を「失敗」したからといって、代替バス運行時間の延長はそうそうできるものではありません。
 もっとも利用者からすれば、運休が長引いているというのに目の前で代替バスの運転が打ち切られるわけですから、感情を逆撫でされること甚だしいものがあり、まさに火に油を注ぐが如き厳しい批判を浴びるのは当然すぎるほど当然の帰結でしょう。

■戦術としての選択肢(再)
 JR東日本が採るべき戦術の妥当性について、繰り返しながら補足を若干加えて、以下に検証してみます。
   1)「失敗」の発生確率が低い
   2)「失敗」対策に必要なコストが高くしかも内外に説明がつきにくい
   3)代替バスの即時調達が困難かつ実質的に代替手段とならない
 ここで2)の「内外」が重要なポイントになります。「外」が利用者だけというならば話は単純なのですが、利用者以外の外部者が関与する点を考慮する必要があります。
 このたびの工事は連続立体交差化に伴うものであり、国費が投入されています。即ち、会計検査が入ることになります。会計検査においては、必要な費目以外は全て冗費とされます。従って、本来の運休時間を超えた時間帯での代替バスの手配は、過大支出との指摘を免れえないでしょう。
 また、国費投入事業には地元自治体からの負担がつきものですが、これも議会での議決を経る必要があります。
 公費での負担が無理というならば、もう一方の事業主体であるJR東日本が負担すべきという考え方も成立しますが、こちらにも内部監査はありますし、また上場している以上は株主の意向も無視することはできません。

 エル・アルコン様の主張されるところの、「失敗に備えた対策を講ずべき」という考えは一つの理想ではあります。しかし、以上まで記したとおり、多くの外部者が関与し口をはさんでくる状況下において、この理想が受容されうるかどうか、極めて心許ないものがあります。
 これだけ多くの外部者がものをいってくるならば、「万一の失敗をおそれて余計な支出をするよりも施工を失敗しないよう努力しろ」という精神論(即ち定性論)を振りかざす向きが、どうしても一定の比率で出現せざるをえません。勿論「失敗に備えた対策」派も一定比率で存在するにせよ、事前の段階ではどちらの声がより大きいか、それはおそらく前者でしょう。
 エル・アルコン様の理想が受容されるためには、下記の条件のうちいずれかが満たされなければなりません。
   1)この理想が是であると社会的に幅広く認識される
   2)「失敗に備えた対策」が法制度的に強制される
   3)非上場でかつ監査意見をものともしないワンマン社長の会社が事業主体となる
 このたびの件がいずれの条件をも満たさない以上、本来の運休時間帯を超え、予め代替バスを用意しておくことはできなかったと、判断せざるをえません。

 代替バスの運行が打ち切られたことが、利用者の感情を逆撫でし、より強く厳しい批判にさらされたことは確かですが、それはあくまでも結果論にすぎないという面があります。その強い風当たりを真摯に受け止めるあまり、本来妥当と考えにくい厚巻きの手当をするとの考え方を採るとは、JR西日本での人身事故復旧マニュアルに対して強い批判を展開されているエル・アルコン様におかれては、首尾一貫せず平仄があっていないとの指摘を免れえないのではないでしょうか。

角を矯めて牛を殺すが如き事故対応 log105.html
抑止する側に求められる説明責任 log110.html

■もう一側面から見た結論
 エル・アルコン様のいう「万が一の『失敗』にも備えて予め対応を用意しておくべき」、私の主張する「施工に『失敗』は許されないから『失敗』しないようにすべき」、どちらも戦術としての選択肢であり正しいか間違っているかではない、と当基スレに記しました。
 さらに付け加えれば、両者とも精神論であり、定性論なのです。無謬の結果を求める点においては、実は変わるところがありません。ただ若干異なるのは、私が「施工」という部分に失敗は許されないと範囲を限定して立論しているのに対して、エル・アルコン様はプロジェクト全般を通して失敗は許されないとみなされているのです。
 現実の事業を動かしていくにあたっては、どちらの考え方がよいのか。そう簡単に結論が出ることではありませんが、「失敗」を減らすには単純化が肝要という経験則に従えば、実際に採りうる解は絞られるように思います。

目的に対する意味合いの違い
 投稿者---エル・アルコン氏(2003/10/07 17:23:49) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

論点の拡散がこのての議論では本質を紛らわしてしまうのですが、敢えて横レス気味の展開です。

 代替バスの運行が打ち切られたことが、利用者の感情を逆撫でし、より強く厳しい批判にさらされたことは確かですが、それはあくまでも結果論にすぎないという面があります。その強い風当たりを真摯に受け止めるあまり、本来妥当と考えにくい厚巻きの手当をするとの考え方を採るとは、JR西日本での人身事故復旧マニュアルに対して強い批判を展開されているエル・アルコン様におかれては、首尾一貫せず平仄があっていないとの指摘を免れえないのではないでしょうか。

 この部分ですが、確か人身事故復旧マニュアルでの慎重に過ぎる対応を厳しく批判しています。そういう意味で、工事中の各種事故対策として慎重な対応を主張していることが矛盾するというご指摘です。

 しかし、事業者による慎重な対応という表面は一緒ですが、この両者、実質はどうでしょうか。
 正常に戻るまでの空白を埋める手続における「慎重さ」と、正常に戻るまでの空白を埋める行為における「慎重さ」では180度違うものでは?
 事業の本質、目的が、利用者に輸送サービスを提供するというものであり、総ての業務、作業、また復旧等に至るまでその目的に収斂するという前提で考えると、「人身復旧マニュアル」での対応を厚巻きにすることは、目的の達成よりも事故対応を(必要異常な範囲まで)優先させることであり、「代行手段確保」での対応を厚巻きにすることは、何が何でも目的の達成だけは維持するということです。

***
 「冗費」の問題については、今後はまさにこの事故が先例になるでしょう。
 昨今相次いでいる製造業の現場での保安管理や保守維持の水準を問われる災害の続発で、「冗費」だが冗費でない部分の認容度は良い方向に向かっていると思います。まあ、何かあったら信用問題ですから「保険」の意味もあって受け入れやすい民間企業に対し、逆に国や自治体のほうがそうした対応に無理解になる懸念がありますが。

なるほど<とりあえずの結論>
 投稿者---和寒氏(2003/10/09 17:37:46) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 エル・アルコン様。
 一読してなるほど、と思いました。エル・アルコン様と私との間には、意外な(しかもかなり大きな)理念の違いが存在していたのですね。
 私の理念を要約すると、ものごとを進めるには基本的な考え方の合理的整合性が大事であり、その内容がたとえ不利益なものでも、需要者・供給者とも公平に適用されなければならない、ということになります。いわば筋論です。その一方、エル・アルコン様の理念を要約すると、顧客満足最優先主義ということになりますでしょうか。いわば「お客様は神様です」という有名なフレーズを体現する考え方でしょう。
 そのどちらがよいか、と議論してもおそらく答は出ないのでしょう。特にこのたびの件のように、需要者・供給者以外が事業に関与する場合には、かなり悩ましいと思います。連続立体交差化の事業者は鉄道ではなく国であり自治体ですから、顧客満足以外の尺度が入ることは免れえません。
 また、顧客満足を追求していくと外部不経済(不利益)が発生するような事例も扱いが難しいですね。
 かといって、顧客満足をあまりに軽んじると強く指弾されるでしょうし、目配りは必要です。少なくとも無視することはありえません。
 これを論じていくと果てがなさそうですし、そういう理念がある、そしてそれを実際に行うにはそれぞれ課題がある、ということでひとまず議論を締めましょうか。

超横レス的展論<「ひねくれた」ものの見方があってもよかった>
 投稿者---和寒氏(2003/10/09 18:21:49) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 さて、以下は極めて横レスの展論です。まずは新聞記事の全文引用から。


 日本の社会は、ちょっとしたことで落ち着きを失うんだな。
 JR中央線が工事の遅れで『9時間不通、18万人に影響』のニュースに、そう思った。
 各紙社会面は、非難の嵐。『怒髪天衝く秋の休日』なんて見出しもあった。ある乗客は『経済がダメだと、こういうところにも影響が出てくるのか』と語り、専門家は『技術立国としての体力が弱っている証拠だ』と切って捨てた。
 同じ9月28日の未明、イタリアは『全土』で大停電に見舞われた。どんなパニックだったのか、現地の報道機関のサイトなどを調べた。
 列車100本以上が立ち往生して約3万人が足止め、帰宅できなかった数百人がローマの地下鉄構内で夜明かし、という程度。AP通信の配信していた写真には『ロウソクをともした飲食店で朝のカフェを楽しむ』というものもあった。
 大きな騒ぎも起きず、駅員に詰め寄る乗客もいなかったようだ。
 英国では8月末、ヒースロー空港とロンドン市街を結ぶ鉄道の改修工事のため、土日と祝日の3連休が全面運休になった。現地の同僚は『だれも文句言わなかったし、ニュースにもならなかったよ』という。
 たった3時間(引用者注:原文ママ)の運休で大工事を終えようとしたJR東日本も、『やれて当然じゃないか』と考えた利用者も、世界の常識からズレているようだ。常識を技術や経済の力で強引に超越しようとすると、綱渡りの連続になる。
 そんな、いつでもどこでも、映画『ミッション・インポッシブル』のような世の中は、壊れやすくて息が詰まりそうだ。

平成15(2003)年10月2日付毎日新聞「発信箱」より 「綱渡りのニッポン」(中村秀明)

 JR東日本は非難されて当然とはいえ、非難の記事しか出ない状況を、実は私は憂えていた。この種の記事が一編だけでも出たのを見て、ようやく安堵を覚えている。
 誤解してほしくないのは、私はこの記事の内容をそのまま是認しているわけではない。しかし、なにかトラブルがあった際に、トラブルを起こした側のみを非難するのではなく、トラブルに振り回され右往左往する側をシニカルに眺める、いわば「ひねくれた」見方が、少しはあってもいい。
 だいぶ古い話になるが、昭和48(1973)年に「上尾事件」と呼ばれる事件が起こった。当時の国鉄といえば労使問題で大荒れの状態で、顧客満足など置き去りに近かった。そもそも顧客満足という概念さえなかった時代である。騒動を起こしたのは利用者側ながら、非は国鉄側にあるとしか評しようがない事件であるが、しかし「ひねくれた」論者もいたのである。曰く。

「利便性を享受することに慣れすぎていなかったか。その利便性が絶たれた時、自ら対処する能力さえ失われてしまったのか」 (大意:原典は谷口尚規著「冒険手帳」)

 この論者は野生生活での生き残る術を提唱するような方だったから、かなりバイアスがかかった方向性での論評になっているが、しかしいちおう「文明批評」にはなっている。その内容を受容するかどうかは措くとして、「ひねくれた」見方をするのもときに重要な意味を持つと思う。

 このたびの件で気になるのは、各種報道が「JRがサービスを止めるのけしからん」的なトーンで統一されているということだ(例外は上記引用記事)。しかし、交通というのは本来は派生需要とされており、例えば冠婚葬祭とか重要な商談などでなければ、その時その場所に「行かなければならない」需要が全てを占めるわけではない。勿論、中央線は輸送量が多い路線であるから、「行かなければならない」利用者数は必然的に多くなるはずで、事前に広報した時間帯を超えてサービスを止めてしまったJR東日本は批判されてしかるべきではある。しかしながら、終日不通になったわけでもないし、何日にも渡って不通になったわけでもない。迷惑を被ったとされる利用者の中には、「必ずしも出かける必要がなかった」方々も相当数いたはずである。
 駅員に詰め寄ったり、警備員につかみかかったりした方々がいたことは確かだとしても、淡々とその事実を記しながら、その行為の批評を読者に委ねる姿勢は如何なものだろうか。
 だから、下記のような感じの記事が一編くらいあってよかったのでは、と思っている。
「中央線が止まって迷惑だったが、こういう時には怒りをおさめ、頭を切り替えて、遠出をやめて近所を散歩するなどして、自分が住む地域の良さを見直す機会にしたかった」
 データや理論によらない感性による問題提起こそが、定性論の本領といえるはずなのだが。そのような「ひねくれた」記事がほとんどなかった点に、マスメディアにおける感性の鈍りや曇りがあると評するのは、酷にすぎるだろうか。

 以上は別に難癖ではない。「サービスを止めるとはけしからん」という論調は、現在の利便性享受を絶対的に是とするものである。利便性享受という蜜の味から逃れられないとは、知性の退化といえまいか。利便性を維持するにはエネルギーが要るし、エネルギーを使えば環境負荷が増す。そういう連想を働かせられる論者は世に一人もいないのだろうか。一人でもいれば救いはあるのだが(ただし多数いる必要もない)。
 定性論がときに広く是と支持されるのは、そのような直感の正しさが、まさに直感的に受け容れられるからであろう。「ひねくれた」いいかえれば多様な観点の存在は、文化を豊かに育てるはずなのに、一面的な見方を呈するだけでは、知性は貧困に細るばかりではないか。
 私は、環境問題は広く世に認識され定着しており、「ポスト環境」の知見が必要な段階だと思っていた。しかし、「ポスト環境」に至るどころか、実は「環境問題」そのものを決して受容していないのではないか。「社会の木鐸」といえど、所詮は人間は利便性享受という「竜宮城」から脱けがたいことを、このたびの件の報道姿勢は端なくも示しているような気がする。

 私の日頃に似合わぬ論調なれど、敢えて「ひねくれた」見方を呈するものである。

超横レス:「信頼」と「余裕」
 投稿者---エル・アルコン氏(2003/10/09 23:33:27) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 良い意味での平行線で議論を締めくくれたついでに、もう一つ平行線の横レスです(笑)

***
 鉄道の麻痺を非難するのは容易いですし、同時にそれを愁うのは一種の文明批評という話になってしまうわけです。
つまり、鉄道は動いて当たり前、止まったら止まった時、というケセラセラではない世界というのが我が国における捉えられかたです。

 まあそれを余裕の無い民族性と見るも良し、勤勉な民族性として見るも良しでしょう。ただ、言えることは大多数の国民はおよそそういう公共サービスというものは正確にあってあたり前という感覚を持っています。さらに営利事業においても当たり前と見ているわけで、そこらへんにいわゆる「付加価値」を商売にすることの難しさがあります。もっとも、故松下幸之助氏のように、電化製品すら当たり前のように普及させてしまおうという「水道理論」を展開していたほどですから、国民性なのかも知れません。

 鉄道に対する感情として、それを端的に表しているエピソードとしては、先日鬼籍に入られた宮脇俊三氏が体験し、著作でも披露されていたエピソードでしょう。
 昭和20年8月15日正午、玉音放送が流れて日本が敗れた瞬間、宮脇氏は米坂線今泉駅駅頭にいたわけですが、「金甌無欠」を誇った大日本帝国が敗れた瞬間において、米坂線の汽車は時刻通り今泉駅に入り、そのまま時刻通り坂町まで走ったのです。

 何があっても時計以上に正確に動くのが鉄道であり、皆それが当たり前だと信じているからこその感情であり、逆に、それだけの信頼を寄せられるまでに至った鉄道システムを大事にしていくべき、信頼を自ら損なわしめることは慎むべき、と思います。

超横レス:「信頼」と「余裕」
 投稿者---エル・アルコン氏(2003/10/10 10:26:04) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 蛇足です。

 もちろん私が「正確を旨として」で和寒さんが「余裕を旨として」という二元論ではないので念のため。

***
 蛇足に余談とは言語道断ですが、少々(苦笑)

 鉄道を「楽しむ」という視点であれば、時間が少々かかっても、乗り継ぎが冗漫でも、それもまた旅だと楽しめますが、一方で「移動手段」だという視点だと、時間通りで当たり前、信頼性がなければ、また速くなければ、「目的」実現の妨げにすらなってしまう「使えない道具」としてしか見られません。

 そういう意味で考えると、クルマ利用だとよしんば渋滞がなくても電車より時間がかかる、コストがかかっても指向されるのはなぜか、という解も見えてきます。
 対立軸としての公共交通がそのメリットとして主張する部分が「移動手段」としての価値に傾倒し、かつ新幹線をはじめとする長距離列車ですらそうした性格に特化してきている現況を踏まえると、そもそも違う価値観の世界であり、シフトを促す以前の問題という見方も出来ますし、また、異常事態における利用者の寛容度を事業者側から下げているという見方も出来ますね。

 まあ、最後は本当の余談になりました。

ちょっと蒸し返しますが
 投稿者---エル・アルコン氏(2003/10/20 00:36:15) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 敢えて蒸し返しになりますが、新聞投稿のご紹介と、それを読んで思い出した実体験です。

●新聞投稿
 10月18日の大阪朝日の投稿欄「私の視点(ウィークエンド)」に、工学院大学教授でNPO・「失敗学会」会長の肩書きを持つ畑村洋太郎氏による「タンク火災・考える能力磨き事故防げ」という投稿が掲載されています。

 投稿の大意は、経験者による観察が欠如したことが多発するタンク関係の災害の原因では、ということなんですが、その中ではっと思ったのが、「出光興産の火災で感じたのは、燃えることを想定した防災体制になっていなかったことだった」というくだりです。消火剤が不十分で、法律が義務づけた2時間分の消火剤で全然間に合わなかったのでは基準がおかしいが、基準以上の備えは必要費用とは認めないだろうとしています。

●思い出した実体験
 この投稿、まさに先の議論のような話でもありますが、これを読んでふと思い出した話があります。

 ある案件で、火災保険関係の交渉をしていた時に、海外の再保険会社の査定人と話をした時のエピソードです。
 火災など災害対策の状況によって、リスク算定が異なり、ひいては保険料が異なるため、言うまでもなく付保する側はリスクが低いことを一生懸命に説明します。
 そのなかで「(とある部分において)火災が起きたらどう対応するシステムになっているのか」と消火、延焼防止などの対応について問われました。
 初め、火災を起こさないようにしている「防火」体制を鏤々説いたんですが、起きた時の想定におけるリスク分析においてはそういう「事情」は斟酌されないのです。

 幸いというか当然というか、対応もきちんと説明しましたが、まさに「火災が起きることを想定した対応」まで求められるんだな、というのが実務でもあるのです。
 起きないようにするのは当たり前ですが、起きたらお手上げではそれはそれで大きなリスクである、ということであり、それに対して必要な度合いをどこまでと考える、といった総合的な判断により、リスク対応をどの範囲まで行うかという論点も見えてくるのでしょう。

さらに反論になりますが
 投稿者---和寒氏(2003/10/20 13:57:14) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 これについては、厳しく反論させて頂きます。
 まずは、引用から。

■「起き上がり小法師」か「棒倒しの棒」か

(前略)
 ・・・・・・さらに引き続いて、「エンタープライズ」攻撃隊より一時間遅れて発進した「ヨークタウン」爆撃機隊がこの攻撃に合流することになり、第一機動部隊の「加賀」「赤城」「蒼竜」の三空母は、相次いで急降下爆撃による奇襲を受けるに至った。
 すなわち、07:23頃「加賀」が9機の攻撃を受け四弾命中、07:24頃「赤城」が3機の攻撃を受け2弾命中、07:25頃「蒼竜」は12機の攻撃を受け3弾命中し、いずれも大火災となったのである。・・・・・・
 (中略)
 ・・・・・・「飛竜」艦爆隊は09:00頃「ヨークタウン」上空に達し、09:08から09:12にかけて攻撃を実施した。戦闘機による防空戦闘と対空砲火のなか、8機が攻撃に成功しそのうち3弾が命中、「ヨークタウン」は大火災となった。・・・・・・
 (中略)
 少数の艦上攻撃機(雷装)を中心とする第二次攻撃隊は、「飛竜」を発艦して目標へ向けて進撃の途中、米空母を発見、この空母は炎上中ではなかったため、さきに第一次攻撃隊が攻撃したものとは別のものであると判断した。しかし、これは第一次攻撃隊が炎上させた「ヨークタウン」であった。「ヨークタウン」は被弾後、約2時間たらずの間に消火活動と応急修理に成功し、11:02には自力航行を始めていたのだった。
・・・・・・「飛竜」第二次攻撃隊は戦闘機による防空戦闘と対空砲火のなか、11:45頃数機が雷撃に成功、魚雷2本を「ヨークタウン」に命中させた。同艦はこれにより傾斜したが、動力系統故障のため復元できず、復旧の見込みがないまま、11:55総員退去が命令された。
 (中略)
 日本側は米空母来襲を予想し、上空警戒機を発進させて備えていたにもかかわらず、今回の攻撃もまた奇襲となった。すなわち、太陽を背にして急降下してきた爆撃機隊の攻撃により、14:03、4発の爆弾が命中、「飛竜」は炎上し飛行甲板が使用不能となってしまったのである。
 この時点で、日本海軍第一機動部隊は艦隊航空決戦の主役である4隻の空母全てが戦闘不能となり、事実上、作戦遂行能力を失うに至った。また、先に被弾し戦闘不能となった三空母のうち、「蒼竜」「加賀」は、16:10頃から16:25頃にかけて相次いで誘爆、沈没した。
 (中略)
 なお、「赤城」「飛竜」は翌日になってから処分された。すなわち、「赤城」は味方駆逐艦の雷撃により6日02:00に沈没、「飛竜」も同じく6日02:10に味方駆逐艦により雷撃処分された。一方、「ヨークタウン」は行動不能になり総員退去の後ハワイへ向け曳航中のところを、7日になって日本軍潜水艦によって発見され魚雷攻撃を受けて沈み始め、翌8日夜明けにその姿を海面から消したのだった。
 (中略)
 ダメージコントロールの不備−−さらに、いったん被弾した場合の艦内防禦、防火対策、応急処置なども充分な考慮が払われていたとはいえない。空母の飛行甲板の損傷に対する被害局限と応急処置に関しては、ほとんど研究、訓練が行われていなかったのである。このようなダメージ・コントロールに対する日米の差は、珊瑚海海戦で大破し、真珠湾における三日間の修理で本海戦に出撃し、被弾後消火に成功したばかりか、飛行甲板の応急修理まで行い、「飛竜」第二次攻撃隊に無傷の空母を攻撃したと思わせた「ヨークタウン」の例を見るとき、特に顕著であるといえよう。
 (以上でこの項了)

「失敗の本質−−日本軍の組織論的研究」(戸部良一・寺元義也・鎌田伸一・杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎共著)より
『一章 失敗の事例研究 2ミッドウェー作戦』

 私はエル・アルコン様とは異なり「火災保険関係の交渉」の当事者ではなく、その内容を知りうる立場ではないので推測にならざるをえませんが、この査定人が「なぜ『起こるべからざることが起こる』ことを問うたのか」の一般論を鑑みれば、「火災を起こさないようにしている『防火』体制」だけでなく「『火災が起きることを想定した対応』まで」の説明を求めたのか、その発想の背景は見えてきます。
 あくまで推測及び一般論としていえば、この査定人は「『起こるべからざることが起こる』ことへの対応策」の聴取を通じて、引用書のいうダメージ・コントロール能力を査定したのでしょう。
 つまり、起こらないはずの火災が起きた場合に、その事業がどの程度ダメージを受けるのか、という査定です。ボヤ程度で即時復旧できるのか、復旧に数日〜数週間を要するのか、それともゼロからの再構築が必要となるくらい深刻な損傷を受けるのか。事業が止まればそのぶん収益に直結するのは自明であり、企業経営の安定性をはかる一指標になるものでしょう。簡単なことで倒れる事業に対しては、保険会社もリスクを高く見積もらざるをえない、即ち保険料を高水準に設定するか、あるいは保険を引き受けないか、という判断をしたものと推察します。
 引用書の事例でいえば、同程度の数を被弾しながら、米海軍のようにすぐ立ち直れるのか、それとも日海軍のように空母全滅まで至ってしまうのか、という問いかけでもあるでしょう。

■ダメージ・コントロールの本質

 もう一つ引用です。5月の東北での地震の際に調べておいた資料が、こんなところで生きるとは思いませんでしたが(苦笑)。

2章 耐震設計の基本
 2.2
 2.2.1
耐震設計の原則
一般
  (2) 設計想定地震動は、次の二つのレベルの地震動とする。
  L1地震動:構造物の耐用期間内に数回程度発生する確率を有する地震動
  L2地震動:構造物の耐用期間内に発生する確率は低いが非常に強い地震動
 2.2.2 構造物の耐震性能
  (1) 構造物の耐震性能は、次に示すものとする。
  耐震性能T:地震後にも補修せずに機能を保持でき、かつ過大な変位を生じない。
  耐震性能U:地震後に補修を必要とするが、早期に機能が回復できる。
  耐震性能V:地震によって構造物全体系が崩壊しない。
  (2) 構造物の耐震性能は、L1地震動に対しては耐震性能Tを、L2地震動に対しては、重要度の高い構造物は耐震性能Uを、その他の構造物は耐震性能Vを満足するものとする。

「鉄道構造物設計標準・同解説−−耐震設計」(運輸省鉄道局監修/鉄道総合技術研究所編/丸善/11,000円)より

 以上の記述は、ダメージ・コントロールの本質を的確に示していると考えます。引用書が示しているのは、鉄道の構造物は通常の地震で壊れるようなものであってはならない、大地震の際にはある程度壊れてもやむをえない、しかし全壊はせず復旧可能な損傷にとどまるよう設計する、という設計思想であると理解できます。

■しかるに本件は

 長々と引用してきて恐縮ですが、では本件にはどのような考え方が適用されうるのか。
 まず求められる性質は、「地震後にも(※1)補修せずに機能を保持でき(※2)、かつ過大な変位を生じない(※3)」なのでしょう。本件において、※1は「たとえ失敗があったとしても」、※2は「外部的な手当なしで完工可能であること」、※3は「過大な工期の遅延がないこと」、とそれぞれ理解すべきでしょう。
 先の投稿でも示したとおり、失敗する確率は「(百回のうち)数回程度発生する確率」ですから、この考え方でなければならないはずです。逆に「発生する確率は低いが非常に強い」失敗に対しては、エル・アルコン様の御指摘どおり、なんらかの「(失敗)が起きることを想定した対応」の備えが求められることになります。

 保険の査定人が査定したであろう企業経営の安定性については、当初計画より不通時間が延引したとはいえ、中央線の営業は今日もしっかり継続していますし、またJR東日本の経営が傾いたわけでもありません。高速バス飲酒事故のように営業停止命令が出る可能性もありません(業務改善命令が出る余地はありそうだが)。
 利用者に対するダメージ・コントロールが充分でないという指摘はできますが、査定人の視点が企業対企業の契約である以上これをそのまま適用していいものか、疑義をはさむ余地があると考えます。

 最後に、ダメージは既にコントロールされている、という見方が成立することも記しておきましょう。
 くだんの「失敗」以来JR東日本に対する批判は轟々たるものがあり、また連日のように踏切でのトラブルが報道されているのは、その批判の一環と見ることができます。
 ところで、肝心の利用者の「批判」はどう推移しているのでしょうか。勿論、腹の底に大きな不満を抱えている方が少なからずいるとしても、中央線利用者が目に見えて減って京王線など並行路線に流れた、という情報は未だ聞こえてきません。
 中央線が再び動き出した時点で、利用者にとってもJRにとっても、それ以上のダメージ発生は避けられた、と見るべきではないでしょうか。

■結論

 生命財産に関する不可逆な損害が発生する火災ならばともかくとして、本件のような「失敗」をどうとらえるか。
 エル・アルコン様の意見も一つの考えとしては成り立つでしょうが、結果の無謬を追求するあまり、過大な対策、過大なコストを容認しなければならない懸念が大きいのではないでしょうか。轟々たる批判を浴びるのも企業にとってはコスト(あるいはロス)のうち。発生確率が低い事象にまで充分に手当するとは、潔癖性にすぎませんか。
 私自身の考えは既に披瀝しているので略すとして、エル・アルコン様が引かれた記事において「基準以上の備えは必要費用とは認めないだろう」とされているとおり、所定時間を超えた代替バスの手当はまさに「基準以上の備え」であって、「必要費用とは認め(られ)ない」と考えます。

感想戦というか雑感というか...
 投稿者---エル・アルコン氏(2003/10/24 16:44:18) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 お返事が遅くなりました。反論というよりは同じ発想における程度の問題のようですが。

***
 確かに保険会社の視点はダメコンをチェックすることで事業が晒されているリスクを算定していたわけです。ただ、そのリスク算定においては、現実の備えの有無によりリスクの係数が変わってくるわけです。そういう意味では、「失敗の本質」のシチュエーションを借りれば、同程度の被弾における艦隊の存続可能性の問いかけでありますが、その可能性の数字は、現実に航空母艦に施された各所の対策の有無で変化するわけです。

 太平洋戦争の事例を借りますと、軍艦というものは攻撃を受けないように装甲や対空、対潜兵器により最大限の防御を施すわけです。これは日米両海軍とも同じです。しかし、違ったのはそれを前提にしたうえでの設計思想であり、例えば日本海軍の空母は格納庫が密閉式で、艦載機を飛行甲板に上げるエレベーターは艦の中心線上にありました。一方、米国海軍の場合は開放式で、エレベーターは舷側にあるわけです。この違いが何をもたらすか、対空兵器の奮闘も空しく、また、装甲ではね返せずに爆弾が炸裂した時、日本海軍の場合はエレベーターが1箇所でも被弾、故障すると艦載機の運用が出来ませんし、格納庫に火が回ると航空機や弾薬類の延焼による火災、爆発による被害が発生します。米国海軍の場合はエレベーターが故障しても艦載機の運用に必要な飛行甲板は確保出来ますし、格納庫に火が回った場合は、開放式ゆえ舷側から航空機や弾薬類を投棄出来ます(この部分は「日本軍の小失敗の研究」光人社NF文庫刊を参照しています)。

 最も悲劇的にその差が出たのがマリアナ海戦での旗艦空母「大鳳」でして、潜水艦の雷撃を受けエレベーターが故障(上がった状態だったので発艦は出来た)したうえに、耐候性を高めるために完全密閉にした格納庫が徒になり、雷撃の衝撃で漏出、気化した航空燃料に引火して爆発沈没しました。
 250kg爆弾の急降下爆撃にも耐えられるなど「防御」は万全だったのですが、それをかいくぐった攻撃を受けたとき、わずか1本の魚雷で当時日本最大の空母を初陣で喪失する破目になったのです。

 このあたりは何も戦時の対策だけでなく、いわゆる「フェイル・セーフ」の発想にも通じますね。ミスを根絶する対策は当たり前ですが、ミスが起こっても致命傷にならないような対策をあらかじめ施すわけです。

***
 もっとも、事業継続リスクの問題については、そこまで損なわれる訳ではないリスクゆえ、という考えは確かに正解です。上記の空母の事例でも、設計変更をせずとも、米国海軍のようにダメコン専任の部隊を艦内に配属すれば攻撃を受けても母艦の喪失はまず避けられるというのであれば、設計変更までするのは過剰な対応ということが出来ます。

 ただ、一方で競合他社がいない独占企業においては、リスク見合いの結果を必ずしも招かないということを割り引いて考えたいです。つまり、少々の無茶も通ってしまう状況においては、リスクへの対応を極端に薄くしても良い、極論を言えば、京福のように運行停止命令でも出ない限り、社会的批判さえ耐えられれば、払い戻しのコストや運行停止に伴う減収分との兼ね合いはありますが、リスク対策にかけるコストを極小化することが正解になります。

 今回のケースを見ると、確かに中央線からの逸走は起きないでしょう。
 ただ、その後の踏切トラブルなどを合わせた社会的信用の低下がどういう形で作用するかを注意深く見極める必要はあるかと思います。
 これは97年頃の輸送障害が多発した時期には、現実に中央線沿線に住居を構えることを敬遠する動きがあったことや(都市伝説かもしれませんが)、勤め先が輸送障害やストライキによる不通というリスクを抱えた路線への居住を歓迎しないケースがそれなりにあるわけで、必ずしも「批判」で終わるとは限らないからです。

私からの感想戦
 投稿者---和寒氏(2003/10/30 07:21:54) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 私からも補足をかねた感想戦を。

 中央線の一件を海戦の例になぞらえていえば、攻撃を受けても被害を最小化する(防空戦闘・艦内防禦・防火対策)努力は技術者が担うべきものでしょう。あらゆる事態を想定して危険の芽を潰し、あるいは万一その事態が発生した場合の対策を施すなど。ただし、最大の努力をもってしても結果的に失敗することはある。引用例でいえば、主力正規空母全4隻戦闘不能(※)という状態ですね。

※:全4隻喪失、という表現がされることもあるが、私はこれを採らない。
 なぜならば「ヨークタウン」と同様に曳航して修理できる可能性があったからである。この意見は小室直樹氏が呈しているもので、私はこの見方を支持している。以上余談。

 かくも極端な事態に備えるには、将兵の努力だけでは無理で、作戦司令部の手当が必要となります。例えば、海戦に参加していた軽空母の1隻(「祥鳳」あたりが適当か)を、現場に急行できる位置に控置しておくなど。こうしておけば、戦闘をなお継続できた可能性もあるし、それが無理でも、帰還すべき母艦を失い不時着水せざるをえなかった練達の操縦士たちを収容できた。ベテラン操縦士は簡単に養成できない貴重な至宝であり、これを守るという意味でのダメージコントロールはできたはずなのです。
 ただし、実際に上記の措置ができたかと問われれば無理といわざるをえず、「祥鳳」にはミッドウェー島攻略を任務とする艦隊に充てられていた(この「目的の二重性」こそが敗因とする説もあるがここでは措く)がゆえ、予備軍として控置することはできなかったはずです。つまり、手駒が少ないとの物理的制約がダメージコントロール能力を鈍らせたともいえるのです。
 勿論、作戦司令部など幹部にダメージコントロールという発想がそもそもなかった、との論評も可能であり、事実海戦においてはそれが正かもしれません。これが本件での私とエル・アルコン様とのわかれめになっているところでしょう。代替バスの運行時間延長には物理的制約がある、とりわけ事前の合意形成が難しいというのが私の立場であり、それは経営者の意志によりクリアできるというのがエル・アルコン様の立場といえます。
 してみると、合意形成の難=物理的制約といえるかが争点になりますが、現実にこれは制約と呼ばざるをえないものでしょう。そんなことでいいの、という警鐘を鳴らすという主旨での立論ならばわかるのですが、現状が非で自論が正とされるとものすごく抵抗感が伴うというのが、私の率直な印象です。
 それゆえ使える材料を駆使して反論を試みた次第ですが、留意したのは「巻き尺で重さを計ることのない」よう、正しいロジックを使う、ということでした。私は「失敗の本質」を引用し、これは高い評価を与えられている研究ですが、そこで示されている知見が本件になじまなければ、それは引用者の不明となるわけです。
 定量論も定性論も、正しいロジックを用いなければならないという点では本質に違いはありません。喩えが空を切る、ということは私にしてもよくある話なので、自戒したいと思ってます。

***
 その点、新聞報道を見ると、論評のロジックは流行りすたりで決まるものだなあと失望を感じます。一つ覚えの「危機管理がなってない」「業者まかせとはなにごと」では議論としては素寒貧と評さざるをえません。原因究明の部分はともかく、本質を衝いた立論はなかったと思います。
 私が期待したのは「中央線が不通ならばなぜ『あずさ』は京王線を迂回できないのか」という立論でした。勿論、私たちはそんなことが簡単にはできない、というよりも不可能であることを知ってます。そもそも軌間が違いますし、たとえ軌間が同じでも車両限界が違う、信号閉塞システムが違う、ダイヤを割りこませる線路容量がない等々、物理的制約は枚挙にいとまがないほどです。
 しかし、これらの「専門知識」は「でも同じ鉄道でしょ?」という疑問に対する説得力ある答になるのか。いわゆる「御理解御協力を」の世界で、答になってないし、利用者のニーズにも応えていない。
 「法律が壁になっている」という見方には「しからば法律を変えればよい」という解がある。では「技術が壁になっている」ならばどうすればよいのか。
 早急に答が出ることではないので、じっくり考えていきたいと思います。

Re:私からの感想戦
 投稿者---World's Greatest Railway Enthusiast氏(2003/10/30 23:11:09)

 こんばんは。World's〜略しまして、神出鬼没(単にレスについていってないだけ?)の鉄道マニアWGREです。

 「あずさ京王線迂回の立案」は非常に興味深いです。直通運転は無理にしたって、あらかじめ契約を結んでおいて、中央線異常時に新宿〜高尾ノンストップ特急を運行できるようなダイヤにしておくのは物理的には可能ですから。この際「法律の壁」とは、「企業の独占的協調行動に対する例外的処置の規定」のようになるのでしょうか。法律のことは良くわかりませんが。
 参考になるかどうかはわかりませんが、エネルギー供給会社としてしのぎを削る東京ガスと東京電力の間では、面白い契約が結ばれています。冷夏だと電力需要が減り、暖冬だとガス需要が減るそうですが、これを利用して両社の間で気候デリバティブ取引が行われているそうです。冷夏の年には東京ガスから東京電力へ、暖冬の年には東京電力から東京ガスへ、利益の一部が支払われるような契約になっているとの事。この手の話を発展させると変なアイディアをたくさん製造できるので面白いです。たとえば、

(想定1) 鉄道会社と企業との間で契約を結び、保守工事等で減便となる路線沿線からの従業員の通勤を控えてもらうときに、鉄道会社から企業へ通勤費用の一部還元が行われるようにする。
(想定2) 同じく鉄道会社と企業との間の契約だが、当該路線の需要に影響を与えるような行動に関して、報償契約(需要を減らすなら、何がしかの報奨金を当該企業へ支払う)を結ぶ。
(想定3) 事故発生時に・・・というのは難しい?ただ、一旦列車が止まれば、当分混乱が続くのは明らかなので、旅行を延期することを表明した旅行者には安い値段で振替チケットを提供するというのも方法の一つ?

 さすがに語られていないだけに変なアイディアです。そもそも定期代を直接払うのは個々の通勤者で、企業に金がいくというのはおかしいような気がするし(但し、そうしないと企業社会の日本で通勤流動の変化は期待できないだろうが)、企業活動が旅客流動に与える影響ってどう計るの、旅行の延期を表明した人が本当に延期をする必要があるのかどう確かめるの、など現実的には問題がたくさんあります。
 しかし、有事の混乱の原因が、普段と変わらない流動にあり、その流動が経済的な手段によって変化させられるとするなら、どうなんでしょう。
 少なくとも、「高加減速の電車により日本の鉄道が変わる」という通り一辺倒のトンデモ論よりは面白みのある議論は出来そうなわけで。

<それから>
 中央線関連では一度も発言していないので、本トラブルについての個人的見解を述べることは一つの義務であるかと思うのですが、あまりいい言葉が浮かんできません。あえていうなら限られた線路容量で過密運転をするのはいろいろな意味で高コストにつく、という事なのでしょうか。
 ちなみに言うと(欧米の鉄道にかぶれてバタ臭くなったせいかも知れないのですが)、日本の鉄道は完全に正確で、しかもそれはすばらしい事で、日本人の勤勉さの成果であるように宣伝する事には少々疑問を感じます。遅れないのはいい事ですが、早着を許さないのは線路容量の拡充にお金をかけられなかったからで、使っている技術が先進国共通である以上、数十秒以上狂いが生じると崩壊してしまうようなシステムがすばらしいものであるように言うのは果たして正しい事なのでしょうか。日本人が他国に比べて本当に勤勉で正確で、それが未来永劫に続くというのなら問題ないのですが、私には単に人材の費用と技術やインフラの費用との相対関係に過ぎないような気がしてなりません。

意外なところにも本質が
 投稿者---和寒氏(2003/11/04 21:11:04) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 Great様、「WGRE」は公式略称という理解で宜しいでしょうか、さらに興味深い展論ありがとうございます。

 私の問題意識は、鉄道はなぜ迂回運転しにくいのかという技術面にあるので、前半のコメント、デリバティブ取引に関しては興味はあっても、それなりの意見を構築することができません。恐縮です。

 ここで後半のコメント、

 あえていうなら限られた線路容量で過密運転をするのはいろいろな意味で高コストにつく、という事なのでしょうか。
・・・・・・遅れないのはいい事ですが、早着を許さないのは線路容量の拡充にお金をかけられなかったからで、使っている技術が先進国共通である以上、数十秒以上狂いが生じると崩壊してしまうようなシステムがすばらしいものであるように言うのは果たして正しい事なのでしょうか。日本人が他国に比べて本当に勤勉で正確で、それが未来永劫に続くというのなら問題ないのですが、私には単に人材の費用と技術やインフラの費用との相対関係に過ぎないような気がしてなりません。

という意見に関しては、いい点を衝いておられる、と感じました。線路容量を目一杯使ったダイヤ構成が、なんらかのトラブル時に大きな物理的制約条件になる、ということはあると思います。
 先の京王線の例でいえば、たとえ規格がJRとまったく同一でも、容量を一杯に使っているから、「あずさ」が割りこむ余地は(まったくとはいわないまでもほとんど)ないわけです。
 運行本数を減らすには、サービス水準低下をおくとすれば、列車単位の輸送力を増すしかありません。しかし、列車単位の輸送力を増そうにも、増結はままならず、新幹線は二階建てにできても通勤電車ではそうもいきません。
 根本的には需要があるからこその悩みなんですが、毎時数本程度の需要でも経営が成立するような仕掛けがないと、異常時の柔軟性は確保できないと感じました。

2004.11.02 Update


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