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(過去ログNo.)

〔自動車〕環境に優しいはずだったのに…

投稿者---打越健太郎氏 (2000/10/17(火) 02:36)

打越健太郎です。先日の長野県知事選では田中康夫氏が圧倒的な強さを見せましたね。ここは政治を論ずる場ではないのでコメントは避けますが、社会の変化の象徴か、それとも単なる市民の不平不満による仇花か、興味がある所です。

さて、その田中康夫氏で紙面が埋め尽くされた感のある「讀賣新聞」10月16日号の39面に、「排ガス試験 甘い日本」という記事が出ております。この記事によると、日本式の自動車排ガスチェックは、米国・EUに比べて非常に甘いとか。炭化水素・窒素酸化物・一酸化炭素の排出量を、国産のワンボックス車・ライトバン・乗用車について検査した所、乗用車の窒素酸化物を唯一の例外に、日本式の検査方法がもっとも低い数値を示した(=基準が甘い)という結果が分かり、特に乗用車の炭化水素排出量を比較すると、日本式検査に比べて米国式検査では23倍、EU式では33倍という数値が出てきたとの事です。排気ガス中の有害物質は渋滞すると増えるのですが、日本式の基準は道路の渋滞を全く無視しているため、このような極端な違いになったのだとか。東京都の別の調査によれば、米国式・EU式のほうが、わが国の道路の実態に合致している、とこの記事は結ばれています。

これまで、「日本の排気ガス対策は優秀」とされてきました。ここから、「環境問題の見地からすると、公共交通は自家用車に優位する」という世界的な常識は日本には当て嵌まらない、とする主張も実在します。しかし、この記事を信じるならば、実はわが国の排気ガス対策は全然優秀ではなく、単に基準の甘さゆえにそう見えただけ、ということになりそうです。何とも嘆かわしい限り。やはり交通問題を考える際には、自家用車の環境負荷、そして公共交通の環境に対する優しさを無視することは許されないようです。

さて、実はこの記事には続きがあります。もしも日本の自動車メーカーに能力が無くて排気ガスを垂れ流してしまうのなら、これは仕方がありません。しかし、同じメーカーが作っている自動車であっても、欧米に輸出するものには手厚い排気ガス対策が取られている、とのこと。これでもわが国の基準なら満たされていた、との事ですが、技術的には充分取れる環境対策を取らない、というのは「ルールが無ければ何をやっても許される」と言っているのと同じです。確かに企業とは利潤を追求するための存在ですが、反面、法『人』である以上、市民としての倫理を守ることが当然の義務であるはずです。ちょっとあまりにも情け無いとしか言いようが無く、わが国の自動車メーカーが好む「環境を考えたクルマ社会」というフレーズさえ、色褪せて見えることは否めません。本当に環境を考えている、と言えるのでしょうか?

Re: 環境に優しいはずだったのに…

投稿者---P氏 (00/10/20(金) 16:51)

お元気ですか?
自動車会社の「環境宣伝」はまさに「打算的な宣伝・広報活動に過ぎない」という観念をPはかねてより、抱いてまいりました。近年、様々な企業が「ISO…」の取得とその告知に励んでおりますが、実際に排気ガス基準やらを知っている人は少ない、それでも環境基準がどうこう…を詠っていれば自分もエコロジーに貢献できるという「小市民的購買意欲」を刺激しているに過ぎません。やるならば海外の基準との比較やら、排気ガスが引き起こす諸問題などを提示すべきなのに、順序がひっくり返っているというか、必需品を省いているというか…。容(カタチ)だけの環境意識誇示には本当にうんざりですね。
私の住む町の隣町に本拠を構える某自動車企業は数年前、「これからは環境への影響を考慮して、他の交通システムとの連携を図って云々…」という旨の大広告を打ちました(これは見覚えのある方も多いかと思います)。ですが、その後この企業はその宣言を守った形跡・片鱗を視認した憶えが私にはありません。その隣町は車社会でなければ生きていけないような「まちづくり」をしていて、それは中核都市になってからも変更されていません。いわんや、その企業の造った車でなければクルマで通勤してはいけない_もしくはだだっ広い工場敷地の一番外れの駐車場を指定される、ディーラーはまず自分で買わされ(これは商品研究など…サービスマンの育成等の観点からはなまじ「悪」とは言い切れないかもしれません)、さらにはその親族にもセールスするなどの悪通俗も根付いています。

クルマが悪とは私はさすがに言いません。なぜなら私も車移動をするからです。しかし、排ガス基準等、個人ではよほどでないとどうにも出来ない部分に関して、企業がすべき事はちゃんとやってもらいたいものです。また、それ以外にも私の住む学区にある別の自動車工場は先頃、もっと、消費者を小馬鹿にするようなことをしていた事が発覚しました。それでも私たち、車社会の住人はそこに依存せざるを得ないという状態にはホゾを噛む思いです。
 海外と基準が違うということを傘に、毎日の生活に知らない内に毒を盛られているというのは様々な分野で意外とあるようですね。腹立たしいと言うしかありませんが、「環境保護は金にならない」と言って放置する企業家も(かなり)多いようです。「取締役 平並次郎(新田たつお 作 小学館 刊)」という漫画があるのですが、この漫画は自動車会社を舞台に様々な問題を描くコメディーです。ちょっと参考になるかもしれません。
今回は私怨的な上、主旨不明確なレスで申し訳ございません。

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〔大気汚染〕各地公害訴訟が訴えるもの

投稿者---551planning (2000/12/02(土) 01:35)

先日の名古屋南部大気汚染公害訴訟における名古屋地裁の原告完全勝訴判決についで、先に排ガス差し止め命令判決が出された尼崎公害訴訟において、控訴していた国と原告が和解へ向けて基本的に合意したと発表されました。

当方も小児喘息を患っておりました(公害病認定は受けませんでしたが)ので、夜通し咳込んで寝られない、横になれないのでずっと上半身を起こしていなければならない喘息の辛さは分かります。
高度成長期、産業発展のために官民一体でがむしゃらに邁進したことで、現在のモノ余りすら云われる「豊かさ」を享受できていることは否定できません。その裏には幾人もの犠牲を払っているとはいえ…「なによりも次世代へ向けて青い空を取り戻したい」と訴え続けてきた原告の「想い」がようやく通じ始めたのも、「ミレニアム」のなせる技かなとの感慨すら覚えます。

訴訟まで至らずとも、全国各地に道路交通がもたらす公害は溢れています。鉄道はどうかといえば、新幹線騒音訴訟を境に都市圏でのスピードダウンを余儀なくされている現状があり、「小田急問題」では都市鉄道の高架化問題まで発展しました。飛行場建設もそれにしかりです。公害の公害たる線引きは非常に微妙なところにあり、それが問題解決を後手後手にさせてきた要因であった事も忘れてはならないでしょう。
名古屋判決では国の無策を厳しく突いた上で、「容易とは云えないが」としつつ植樹帯設置、シェルター化・トンネル化といった改善策が示され、今回の尼崎和解案では阪神高速のロードプライジング制導入による大型車誘導(市街地区間の神戸線から湾岸線へ)や設置予定だったランプの強制着工中止などが盛り込まれています。いずれも「小手先の策」である事は否めませんが、大きな前進である事は間違いないでしょう。

しかし、誰かしらが皺寄せを受けるのではなく、「国策」として行政が責任を持って行なうべき事柄を、道路交通問題の解決策を利用者負担に訴えがちな昨今の風潮は気になるところです。モーダルシフトを主軸とした日本の物流構造そのものから議論しなければならないのではないでしょうか。
皆様は如何様にお考えですか?

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自動車の将来に関する私論・燃料電池車を中心として

投稿者---打越健太郎氏 (2000/12/03(日) 16:29)

打越健太郎です。551planning様のご意見に対するレスと、僕なりの新規の考え方が混在した意見です。レスにするか新規投稿にするか迷ったのですが、皆様に大いにご教示を賜りたいので、敢えて新規投稿とさせて頂きました。

先日来、自動車による公害問題に関して、尼崎・名古屋と原告勝訴の判決が続きましたね。わが国の物流制度のしわ寄せとして被害者になられた方々の正当な権利が認められた事、まずは大変嬉しく思います(僕は元来、被害者問題の専門家です)。しかし一面、喜んでばかりはいられませんね。排気ガス排出の差止め、ということは自動車の通行量そのものを減らしたり、或いは排気ガスの浄化を考える必要がありますから、我々に突き付けられた重大な問題でもあります。
僕としては、もともと「自動車の抑制・鉄道の復権」という処方箋を考えておりました。現在でも、基本的にはこれで良いと思っております。しかし反面、今日の社会のあり方を大きく変えてしまう方法ですから、これ一本槍で社会の問題を解決すると、人々に大きな不都合が生じてしまうでしょう。現在の自動車は一面において我々の敵であっても、それに百倍して我々の生活を豊かで便利にしてくれた恩人なのです。
こうした難問を前にしていた時、「燃料電池自動車」というものについて知ることが出来ました。この「燃料電池」がどんなものか、もう1度おさらいしておきましょう。水素と酸素を燃料に、電気分解の逆の反応を起こし、もって電気を起こすものです。排気ガスとしては水蒸気が出るだけ。この燃料電池によって動く自動車を作ったならば、今日のガソリン車の出す二酸化炭素、ディーゼル車の出す窒素・硫黄酸化物、微粒子(SPM)も出ない、大変にクリーンな自動車が出来る…ということになります。僕としては、最初あまりにもうまい話だと一笑に付していたのですが、どうやら現実のものとなりそうな気配です。これは確かに、世の中を一変させるかもしれません。551planning様が指摘された「道路沿線における自動車の排気ガス公害」などは解決の光明が見えて参りました。
では、この「燃料電池自動車」が、世の中の問題を全て解決できるでしょうか? 少し詳しく検討致しましょう。現代社会における重大問題のうち、自動車と関わるものは環境問題・エネルギー問題などですから、まずそれらを検討した上で、その他の問題に移りたいと思います。

まず、環境問題ですが、確かに燃料電池から出てくるのが水蒸気だけなら何の問題もありません。ディーゼル車の出す窒素・硫黄酸化物やSPMとは無縁ですから、その面での環境負荷は小さいようです。しかし、現実にはそこまでは行っていません。次のエネルギー問題の所で詳細に述べますが、燃料電池車の燃料として現在考えられているのはメタノールとガソリン(厳密にはガソリン同様に石油起源のライトナフサ)です。これらを改質(具体的には温める)して水素を発生させ、それで電池を動かすのですが、どちらの燃料も、この改質の時に有害な一酸化炭素を排出します。幸い、一酸化炭素は燃えますので燃やして害の少ない二酸化炭素にすることが可能ですが、これが温暖化問題を引き起こすことはいうまでもありません。「純粋な水素を積みこんだ燃料電池は?」という疑問が出てくるでしょうが、水素は常温・常圧では気体ですから取扱や積込に困難が生じます。水素吸着合金に積む、低温高圧のボンベに積む、といった方策は考えられているのですが、なかなか実用化は困難なようです(合金は非常に重く、ボンベは結構ガス漏れするという)。そして(これも下で触れますが)水素ガスというのは天然には殆ど存在せず、どこかで作らなければなりません。水の電気分解なら排気ガスは出ませんが、先に挙げた燃料から作ると、やはり二酸化炭素が発生します。

次にエネルギー問題です。現時点ではわが国のガソリンは比較的安く、つい忘れがちですが、石油は有限な資源です。現在、あと45年ほどで使い切ってしまう、とされています。これについても新規の油田発見などでどんどん先送りになってしまい、今では「狼少年」状態ですが、今後も新規の油田が発見される、という保障は全く無く、いずれは無くなってしまうでしょう。無論、品薄になれば価格が上がり、現時点ではペイしないとされている油田も採掘されるでしょうが、それとても限りがあるわけです。まして今後は発展途上国の経済発展によって消費量が増えてくるでしょうから、却って予想より早く無くなってしまうかもしれません。当然、ガソリンもライトナフサも品切れです。
その他の資源(水素を作れるもの)として注目されているのが天然ガスです。前者は液化してディーゼルエンジンにも使えるという利点があり、しかもその際の環境負荷が小さいので今後有望とされています。今後62年分ほど埋蔵されているとされ、これに期待する向きも多いようです。しかし、この数値は現時点での消費を前提にしているのであって、現在の石油を悉く天然ガスに切りかえると、僅か24年ほどで無くなってしまいます。また、天然ガスに関しては「メタンハイドレート」といって、海中にシャーベットのように眠っているとされていますけれど、これは現時点で全体量すら不明であり、まして採掘の方法は全く実用化されておりません。これにどこまで期待できるかは不明です(因みに、これら天然ガスから水素を取り出す際にも、やはり二酸化炭素は発生する)。
石油系の燃料にあまり期待が持てないのなら、先に挙げたメタノールはどうでしょうか。実は先ほど「ガソリンも燃料電池の燃料になる」と申しましたが、これはあくまでも「なる」だけであって、メタノールのほうが向いているといわれています。ガソリンを利用しよう、というのは既存のガソリンスタンドなどのインフラを活かすための現実的な良策ですが、本来はメタノールのほうが改質も容易です。ではメタノールを使えば問題は解決できるのか? メタノールを自動車に使用するには、現在の生産量を100倍にする必要があるとされています。「ならば100倍にすれば良いではないか」と言われそうですが、それが可能でしょうか。元来、メタノールは「木精」と呼ばれていました(因みにエタノールは「酒精」。食用のエタノールと猛毒のメタノール、名前が似ているのは問題ですから、この「酒精」「木精」という呼び名を使用することを提案致します)。木から採れる訳で、バイオマスだったのです(註:「バイオマス」とは、食用を除いた植物資源のこと)。現在では水素と一酸化炭素から化学的に合成されています。具体的な原料は石油・天然ガス・石炭など。前2者は先に述べたように品切間近ですから、あまり頼りにはなり得ません(そもそも石油系の資源があるのなら、そのまま燃料電池に使ったほうが良さそうです)。石炭は、今後200年ほどは持つとされていますが、これも現時点での使用量を前提にした話で、何せ100倍も増産するのだからあっという間に底をついてしまうでしょうし、大量の二酸化炭素を発生させてしまうので、環境的にも宜しくありません。
それならば「いっそ水から水素を取れ」というご意見もあるでしょう。確かに水自体は無限に近いですから、これなら資源的に無理が無さそうですね。ここから「エネルギー問題は解決」と思っていらっしゃる方も多いようです。しかし、これは誤解です。(そもそもいきなり水素を自動車に積むのは現時点では困難なのですが、それは置いておいて)水はあくまでも水であって、電気分解をしない限り水素にはなりません。アルミニウム原子自体は(酸化アルミニウム、所謂ボーキサイトという形で)莫大な量があっても、電気分解しなければ金属アルミニウムが殆ど入手できない(それゆえ、電気分解が開発される前の19世紀中ごろ、アルミニウムは貴金属でした)という事を思い出して下さい。それと同じです。水を電気分解して、初めて燃料としての水素ガスを採取できるのですが、そもそも電気を利用して電気の原料たる水素を作る、という異様な矛盾に突き当たります。電気分解時に熱が発生することからも分かるように、電気分解に使ったエネルギーと、水素という形で取り出せるエネルギーとでは、後者は絶対に前者より大きくは出来ません。理想的な状態でも「同じ」というのが限界です(エネルギー保存の法則より)。余談ながら、太陽電池は2年ほどで、製作にかかったエネルギー分の電気を生み出します。太陽電池の寿命は20年ほどですから、エネルギー的に太陽電池は「黒字」を生むことが出来、廃棄物もシリコン(珪素=岩石に多量に含まれている)ですから、環境には極めて優しいエネルギー源といえます。これは外部から光という形でエネルギーを補給するからですね。それなら水素など作らず、いっそ電気のままで使えば良いのです。ですからトロリーバスは燃料電池以上に効率が良く、今後有望と言えるでしょう。架線があれば「回生ブレーキ」を効率的に使用することも可能です(トヨタの「プリウス」も回生ブレーキを有していますが、自動車のブレーキは充電にはあまりにも急過ぎて、電車ほど効率的には回生していません)。但し、現在の発電量は真夏の昼間(使用電力が最も増える)に合わせており、夏の夜などは随分余っています。電気自体を「保存」するような感じで水を電気分解して置けば、これは意味のあることでしょう。しかし、そもそも「無駄になってしまう発電」などと言うこと自体が疑問であり、それこそ今後は各家庭毎に燃料電池を備え、電池によって発生する熱まで利用する「コ・ジェレーション」などで電気や冷暖房(冷房も可)を動かす時代になるでしょう…自動車の場合、家と違って廃熱の使い道が無い…から、果たして「夜のうちに電気分解」などということが長期に渉って可能か、疑問が残ります。

と、環境・エネルギー問題から疑問を述べてまいりましたが、自動車の問題は燃料だけではなく、事故や渋滞といった問題もありますね。以前「事故は必ずしも自動車の責任ではない。ルールを破って車道を歩く歩行者も悪い」というご意見を頂戴致しました。そもそも交通事故は自動車対歩行者のみの問題ではなく、話を歩行者に限っても僕はこれに同意致しませんが、1歩譲って歩行者にも非があると致しましょう。で、歩道と車道をちきんと守らない歩行者は確かにルール違反をしているのですが、それは死を以って贖うほどの重大な違法行為でしょうか? そして歩行者に非があってもドライバーが罪に問われるとしたなら(そんな具体例があるとは思われず、これにも僕は同意致しませんが)、果たしてそれが正義でしょうか。これらは単純な責任問題に話を限るべきではなく、むしろ「自動車が多すぎて道路自体が不足し、歩道と車道を完全には分離できない」「全てを取り締まることが出来るほど、警察官がいない(=自動車の量が過大である)」といった、社会システム自体の病理ではないか、と僕は思います。これが鉄道なら(LRTも含め)原則歩道とは分離された軌道を走りますし、同じく自動車でもバスなら大勢の人が乗れるために自動車の量が減り、事故自体が減らせるでしょうし、万一事故が起こっても、その時にはきちんと捜査することが出来る(事故が多すぎるから、捜査が杜撰になるのです)のではないでしょうか。

これらのことを考えると、燃料電池自動車は確かに優れた発明であり、今後の自動車はこの燃料電池を利用したものにすべきですが、それでもやはり自動車の絶対数を減らすべきだしょう。環境やエネルギーの見地から言っても、大量に輸送できる鉄道やバスは、確かに自家用車よりも環境負荷が大きいにせよ、1人あたりに割れば環境負荷で逆転するでしょう。貨物に関しては鉄道や船舶といった大量輸送機関を見直せば、ある程度のトラックは減らせるはずです(河川水運の復活についても、近々投稿したいと思っています)。残る自動車は、緊急自動車・業務用自動車(自家用車型を含め)・バス・タクシー(バスのフィーダーとして)・そして減らせないトラックなどに、過疎地の住民や身体障害者など、自家用車の必要性が著しく高いものを加えた程度が望ましいのではないかと思います。1995年現在、わが国の自動車の数は6585万台ですが、先に挙げた自動車だけで364万台、それに自家用車の残りを足して2000万台程度が望ましい、という試算があります。無論、自家用車を所有していても日常は公共交通を利用すれば、実質的には自動車は減ったのと同じですから、所有自体は問題ありません。こういったビジョンのもとに、強力なTDM的な手法を採り入れた行政が、今後求められていくことでしょう。当然、バスのみならず鉄軌道も有益です。今後も維持・発展を図るのが望ましいかと思われます。こういった方策には、当然反発・怨嗟が起こるかとも思いますが、それらの声に耳を傾け、どうしても自動車でなければ用を足せない場合には自動車の使用を認め、そうでない場合には鉄軌道・バスや自転車、歩行などの利便性を高めてそういった不満の解消を図り、それでも解決できない場合には説得を行うべきでしょう。それでも納得できない人がいることも有り得ますが、果たしてそれが環境やエネルギーなどといった、人類のサスティナビリティ(持続可能性)の前に正当な権利の主張なのか、一考を要する問題でしょう。

最後にもう一度、僕の考えを申し上げます。確かに燃料電池自動車は優れた発明であり、今後の人類にとって福音となるに違い無い。しかし、環境やエネルギーのことを考えるに、無制限な自動車の使用が今後も可能かと言えば、それは怪しいと言わざるを得ない。人類のサスティナビリティを考えるに、やはりTDMといった手法を用い、自動車の利用にある程度、人々に過度の負担がかからないような歯止めが必要なのではないだろうか、と。新発明の誕生前夜、人間はユーフォリア(多幸症)的な気分になりがちですが、新発明の長所と限界とを鋭く見据え、今後の社会のあり方のグランドデザインを引くことも必要なのではないでしょうか。

Re: 自動車の将来に関する私論・燃料電池車を中心として

投稿者---エル・アルコン氏 (2000/12/04(月) 00:44)

取り敢えずのコメントです。

●燃料電池によるコージェネ

クルマへの搭載が遅れているのは、小型化技術と、分解反応時の発熱問題のクリアのはずです(例の新書に出てましたよ)。

ですから、その手の問題が少ない定置型の自家用小型発電装置としては既に出回っているやに聞いており、電力会社の今後の経営に影響を与えると見られています。
実際、大規模な発電事業では、需要以上の発電を要する上に、送電ロスがありますから、個別需要規模に応じた発電を、その場で行う同方式の普及は環境面でも優れています。

●電源問題

水素の供給源が化石燃料というジレンマは確かにありますし、電気分解による(純)水素については、その搭載方法がネックです。
ただ、電車など電気動力へのシフトについて、結局化石燃料の消費増大につながりますし、送電ロスの問題もあります。
非化石燃料系にしても、原子力は非常に有効ですが安全性に難があり、水力はダム建設や浚渫、それと信濃川の「断流」といった問題もあり、風力、太陽電池も補助にはなるが主役にはなり得ません。

非化石系発電による水素生成と、電力の直接供給の組み合わせが落とし所でしょう。
(軌道系交通でも、電力回生効果が望めない閑散線区の内燃化を考えるべき)

ちなみに、二次電池(蓄電池)の活用は出来ませんかね。


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