【検証:】常設板過去ログ集

【検証:近未来交通地図】
(過去ログNo.059)
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「通勤電車」標準系の源流をたどる
 投稿者---和寒氏(2002/04/12 18:48:02)
 
http://www.geocities.jp/history_of_rail/
「通勤電車」標準系の源流をたどる
└「通勤電車」の源流をたどり分流を追う
 └ブレイン・ストーミング中・・・・・・ひょっとしての推測
  └「通勤電車」の源流を分け入る
   └続編が楽しみ
   └敬服いたしました
    └感想&フォロー
     └Re:感想&フォロー
      └皆様。お楽しみ頂けましたでしょうか?

 このような将来の利用者に、「電車は立って乗るもの」というイメージを植え付けるのは如何なものかとも思うのです。
 もちろん、それは乗車時間にもよりますし、前にやった4ドアクロスシート論でも出てきたかもしれませんが、どこかで「電車は座って乗るもの」という潜在意識を持ち続けていないと、私たち乗客は、会社の論理に押し切られてしまうことになるのではないかと危惧もしているのです。
(さいたま市民@西浦和様)

 このとき、「通勤」そして「通勤輸送」はどうあるべきか、というデザインの策定と、利用者のコンセンサスが今の議論に欠けている気がします。
 そこには例えば「快適に移動する」といったクルマの世界では当たり前、いや、大前提となる、ユーザーに直結する部分の議論が置き去りになっています。
(エル・アルコン様)

直通運転と始発駅乗車 log058.html

 重要な問題提起と思われるので、このシリーズにリプライします。

 以前の私の投稿では、クモハ42−(4扉ロングシート化)→クモハ32という改造が行われたとき既に、4扉ロングシートが通勤電車の標準として確立したのではないか、との見方を示しました。
 しかし、よくよく考えてみれば、大正時代から既に、「電車」はロングシートが標準でありました。当時は17m車が主流であったがために3扉になったというだけで、現在の「通勤電車」標準系は、本質的には大正時代までに確立されていたといえます。
 勿論、クロスシート車、セミクロスシート車も存在しましたが、これらは横須賀線など「長距離運用」に充てられており、「通勤電車」はほぼ例外なくロングシート車であったと見てよいでしょう。

 ではなぜロングシート車が標準となりえたのか。それは、旧鉄道省(あるいは官営鉄道時代か?)初の電車が甲武鉄道からの承継車であったことに由来するから、と推測されます。
 甲武鉄道の電車は、軌道系の車両に毛が生えたようなもので、車両サイズからして必然的にロングシートを採らざるをえなかったはずです(クロスシートにすると通路幅が確保できない)。また、短距離での運用でもありましたから、たとえ着席できなくとも利用者に与える苦痛は少ないと、判断された面もあるのかもしれません。
 ひょっとすると、「最初の電車がそうだったから」という理由だけで、標準的デザインが批判されることなく、ロングシート車という標準系が現在にまで承継されている、という可能性さえ指摘できます。

 こんなことでよいのか。当座はともかくとして、根本的には改善を図らなければならない問題でしょう。しかし、これだけ長く続いた「伝統」を打破するためには、明治維新に匹敵する大改革をなさなければならないような気がします。
 また、本来は短距離限定であるはずのロングシート車を、無際限に「長距離運用」に充てられていることも、かなり深刻な問題といえるでしょう。

「通勤電車」の源流をたどり分流を追う
 投稿者---さいたま市民@西浦和氏(2002/04/18 00:40:20)

 こんばんわ。和寒さん。

 このような将来の利用者に、「電車は立って乗るもの」というイメージを植え付けるのは如何なものかとも思うのです。
 …どこかで「電車は座って乗るもの」という潜在意識を持ち続けていないと、私たち乗客は、会社の論理に押し切られてしまうことになるのではないかと危惧もしているのです。

 これは私の心配ですが、これだけ車に乗る機会が増えて、今後起こりうるであろう鉄道での移動への移行に対する心理的・物理的抵抗を減らすことはこの掲示板の話題の一つのテーマです。


 このとき、「通勤」そして「通勤輸送」はどうあるべきか、というデザインの策定と、利用者のコンセンサスが今の議論に欠けている気がします。
 そこには例えば「快適に移動する」といったクルマの世界では当たり前、いや、大前提となる、ユーザーに直結する部分の議論が置き去りになっています。(エル・アルコン様)

 孫引きで恐縮なのですが、まさにここ、ここがキモなのです。最近のサービス業全体に言える事かもしれないのですが、一見百家争鳴状態に見える各メディアの議論はガス抜き的なもので、実際は会社の論理がまかり通っていることが珍しくないのは皆さんもご経験済みでしょう。

 …クモハ42−(4扉ロングシート化)→クモハ32という改造が行われたとき既に、4扉ロングシートが通勤電車の標準として確立したのではないか、との見方を示しました。

 私の記憶が確かならば、4ドア車の始めは鶴見臨港鉄道が戦争中か直前に建造したもので、18m車に4つのドアが備わっていたものだったかと思います。42系の4ドア化改造も戦争中のことだったかと思います。戦争中には有名な63形が建造され、後の101系からの新性能通勤電車のデザインの流れが決定されたのでしたね。間違ってたら訂正をよろしくお願いします。とにかく、日本の通勤電車のデザインはまさに「1940年体制」の名残ですね。蛇足ですが、これが1970年代ソウルへ輸出され、韓国の首都でも東京スタイルの電車が走り回っているわけです。

 …よくよく考えてみれば、大正時代から既に、「電車」はロングシートが標準…本質的には大正時代までに確立されていたといえます。
 勿論、クロスシート車、セミクロスシート車も存在しましたが、これらは横須賀線など「長距離運用」に充てられており…。
 …初の電車が甲武鉄道からの承継車であったことに由来するから、と推測されます。…
 …「最初の電車がそうだったから」という理由だけで、標準的デザインが批判されることなく、ロングシート車という標準系が現在にまで承継されている、という可能性さえ指摘できます。

 ぶつ切り引用で大変恐縮なのですが、明治末期、当時の新交通システムとして東京市内へ拡張していった電気軌道の車両は小さなものでしたが、そのアコモデーションは、ロングシート(横型座席)だったわけです。この座席は、会社によっては(有名なのは東京電気軌道でしたか)当時の2等車並の座り心地を誇ったものもあったそうです。そして、当時の国鉄の2等車は横型座席のものも多かったのです。特に長距離用の寝台兼用の2等車は、横型座席を夜は寝台とし、昼は座席定員制で運行されましたから、大変居住性が良かったのです。

 馬車軌道から電気軌道へ変わっていった都市の路面電車は、開業時こそ乗客も少なく「省線2等車並」の輸送機関だったはずですが、公共輸送機関として認知が進み、都市の拡大が進んで、路線網が充実し大衆化すると、ラッシュ時の詰め込みと閑散時の居住性の両立に横型座席は打ってつけとなったのでしょう。
 この流れの中で、明治末年の甲武鉄道のお茶の水〜中野電化は路面電車各線の拡張として考えれば、路面電車スタイルの電車の大型版(それでも客車に比べ十分小さいのだが)が導入されるのは必然だったかもしれません。その後の山手線電化や東京駅開業に伴う京浜間電車運転はまた意味が違ったのです。
 当時の他社は、京浜(六郷)、阪神の初期の車両にクロスシート車があったはずですが、程なく改造され、関東大震災で戦後へ持ち越しとなった湘南電車計画では、木造ダブルルーフの2ドアセミクロスシート車が建造されていたのです。横須賀線や阪神間電化で登場する鋼製クロスシート車は都市間高速輸送のためのもので、現在でいえば特急電車的な役割を担っていたと言えそうです。
 同時期に電気鉄道が発達したロサンゼルスの場合、ロングシート車は登場せず、最後までクロスシート車で通したはずです。

 …根本的には改善を図らなければならない問題でしょう。…「伝統」を打破するためには、…大改革をなさなければならないような気がします。
 また、本来は短距離限定であるはずのロングシート車を、無際限に「長距離運用」に充てられていることも、かなり深刻な問題といえるでしょう。

 本来、ロングシート車が意味をなすのは片道30分程度の路線または区間で駅間が短く(1〜2分)ラッシュ時に立ち客を容認でき、閑散時に座席定員程度の乗客がいるような輸送形態を想定した座席形態なのではないでしょうか。
 ですから、理想的な通勤車両を実現しているのは、東海道、横須賀・総武線のグリーン車や各ターミナルからの通勤ライナーのみとなるわけです。
 東北地方で、客車や気動車鈍行から置き換えの701系電車が導入されたとき、ロングシートが敬遠され、千鳥にクロスシートが設置されたことがありましたね。駅間5分以上の路線なら、座席定員を増やす工夫をするべきではないでしょうか。

 この考えで東京の各路線を解釈し直したら、現状の輸送量が確保できないかもしれませんが…。努力は期待したいですね。

 乱筆ご容赦。

ブレイン・ストーミング中・・・・・・ひょっとしての推測
 投稿者---和寒氏(2002/04/18 11:16:47) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 さいたま市民@西浦和様、重要な意見を御呈示頂き、ありがとうございます。この件に関しての当方は、アイディア出しを追求している面があり、どうにまとまりませんが、どうか御寛恕ください。

 これは私の心配ですが、これだけ車に乗る機会が増えて、今後起こりうるであろう鉄道での移動への移行に対する心理的・物理的抵抗を減らすことはこの掲示板の話題の一つのテーマです。

→まったく同感であります。
 余談ながら、鉄道を利用するうえでの最大のバリアは「駅に行くこと」「切符を買わなければならないこと」という説もあり、そのうえで更に「座れない」がスタンダードときては、やはり問題は深刻だと思われてなりません。

 明治末期、当時の新交通システムとして東京市内へ拡張していった電気軌道の車両は小さなものでしたが、そのアコモデーションは、ロングシート(横型座席)だったわけです。・・・・・・

→このへんを起点に連想してみてハタと気づいたのですが、京成や京急のような本格的な鉄道としての路線延長を具備している鉄道が、なぜに路面電車スタイルで始まったのか。現代ならばいざ知らず、当時の速度で乗りとおした場合、さぞや居住性が悪かったのではと、推測できます。
 そして、京成や京急には並行する「本格的な鉄道」が存在していました。してみると、これら並行路線が存在するがゆえ、京成・京急の敷設許可条件として、「本格的鉄道」からはスペックを落として差別化を図る、というような判断が働いたのではないか。・・・・・・まったくの憶測で、証拠はありませんが、並行路線のない(あっても離れている)東武・小田急・西武が「本格的な鉄道」として営業開始した事実を鑑みれば、ひょっとすると、と想像してみたくもなります。

 「本格的な鉄道」すなわち蒸気機関車牽引の客車列車(注:小田急は最初から電化)に対して、差別化を図らなければならなかった(しかも当時としては低位の方向に)がゆえの「路面電車」スタイルであったとするならば。
 その「路面電車スタイル」が「通勤電車」の源流を規定したと考えれば、なんという歴史の皮肉かと、慨嘆ふかきものがあります。

「通勤電車」の源流を分け入る(その1)
 投稿者---さいたま市民@西浦和氏(2002/04/19 01:09:01)

 和寒さん。みなさん。こんばんわ。
 いやいや、面白い話題を提供していただき、楽しませていただきます。
 今夜は久しぶりに少し電車の歴史をひもといてみましょう…

下記大作論文は別ページに纏めてあります

続編が楽しみ
 投稿者---和寒氏(2002/04/19 09:34:16) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 さいたま市民@西浦和様、おはようございます。

→たいへん面白い論が展開されており、興味深く拝見いたしました。続編が楽しみであります。
 以下、若干のコメントを。

 軌道は道路の一部で、法律や管轄官庁も道路を司る部署の管轄だったはずです。
 明治末年の民営鉄道には、鉄道国有法にかからなかった蒸気鉄道の私鉄と軌道起源の電気軌道の2タイプの路線があったと言えます。

→このへんの分析は、私も認識を共有しています。

 大正バブル期の首都圏での新規開業路線には、京成電気軌道、京王電気軌道、王子電気軌道、玉川電気軌道、京浜電気鉄道の北品川延長や神奈川延長(これは明治末年)鉄道院(国鉄)の京浜電車運転などがあります。

→そうか、このへんの路線はこの時期の開業でしたか。もっと歴史が古い路線と思ってましたが、案外新しい路線だったのですね。

 それでは。続編の展開に期待しております。

敬服いたしました
 投稿者---和寒氏(2002/04/30 10:34:47) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 さいたま市民@西浦和様、御高説を賜り、まことにありがとうございました。私はええ加減なアイディア出しをしたにすぎません。ここまで素晴らしい論にまで発展させたことに、謹んで敬意を表します。
 さて、私からは、質問と補強点を呈したいと思います。

■質問■大正期の鉄道投資について
 貴論においては、大正〜昭和初期の鉄道投資は、だぶついたバブル資金が向けられたと認定がなされているように読みとれます。
 実際のところは如何でしょうか。第一次大戦後、大正 9(1920)年には小恐慌が既に起こっており、バブル資金どころではなく世の中不景気の真っ最中だったのではないでしょうか。
 また、投資された鉄道路線も、こういってはなんですが、その多くがいわゆる「泡沫路線」であり、営業的な成算が得られていたとは到底思えません。
 論の本質とはあまり関係ない点ですが、事実認定における私の問題意識として重要な点ですので、御回答頂ければ幸甚です。
 なお、私における事実認定は、下記のとおりです。

http://www.geocities.jp/history_of_rail/ibara/01.html

■補強点■視点を動かしてみては?
 貴論の参考文献は相応の評価を得ているものですが、それぞれの著者の傾向を反映して、若干のバイアスがかかっている様子が見受けられます。
 事実認定に誤りがあるというわけではないのですが、行政サイドの判断、地権者の意向(開発にあたって土地を提供する側の立場)、さらには国土計画との関連(一極集中を促進することによる高度経済成長の実現)に言及しておけば、穴がなくなるのではないでしょうか。
 勿論、それぞれの事柄は広汎で、真面目に調べるとそれだけで一論を呈せるものです。しかしながら、キーワード的に一文なりとも挿入しておくと、論にさらなる深みが加わるように思量いたします。

 あるいは蛇足かもしれませんが、御参考になれば幸いです。

感想&フォロー
 投稿者---とも氏(2002/04/30 13:22:29) http://town-m.vop.jp/

 本当です。これだけで一つの論文ともいえるレポートになっていると思います。
 さて、フォローをちょっとさせてください。

 事実認定に誤りがあるというわけではないのですが、行政サイドの判断、地権者の意向(開発にあたって土地を提供する側の立場)、さらには国土計画との関連(一極集中を促進することによる高度経済成長の実現)に言及しておけば、穴がなくなるのではないでしょうか。

 そうですね。東京にとって、悲劇的な都市計画の衰退の原因となった震災復興計画、戦災復興計画、そして都市計画上、その良し悪しは別として完成していればと思われる帝都防空緑地帯の話しも入れたいところです。

 復興計画はご承知のとおり、東京の復興計画として立案され、相当大掛かりなプランでしたが、政治的圧力により大きく変化してしまいました。
 特に、戦後の復興計画では各駅に駅前広場を構築すること、道路網を整備することが明記されたものの、結果的には実現せず、モノになったものは渋谷のハチ公前、池袋東口などで、他は悲惨な状況といえます。例えば、吉祥寺や荻窪は戦災復興時の計画がポシャったことが今の駅前開発の遅延につながっていますし、そこがもし進んでいれば、いまほどの東京一極集中は生じなかったという意見もあります。
 すなわち、中間都市が衛星都市として機能したであろうということです。

 一方、帝都防空緑地計画は、旧東京市エリアの外縁部に延焼防止帯としての緑地帯を設け、さらに、皇居から放射状に緑地帯を整備しようというもので、軍部の発案により強制収用直前までいったところで終戦になり実現しなかったものです。
 ここでは、この中に道路や鉄道も計画され、各ゾーンを衛星都市として機能させようという発想です。もちろん戦時中のことですから、発想は極論としての軍事的なものですが、実は、この発想はグレーターロンドンの衛星都市群形成過程に近く、もし実現していれば、おそらく東京は全く違う発展を見せていたでしょう。

---
 追記として、質問ではないですが補強です。

<東京郊外の区画整理について>
 井荻町の区画整理は鉄道会社はきっかけにはなっていますが、直接的な関与はないと思われます。西武(当時多摩湖鉄道・武蔵野鉄道)が行ったのは大泉学園、一橋学園、小平ではないかと。
 井荻町は町施行の区画整理としては日本でも初期のもので、見事に碁盤の目上の区画が形成されています。
 旧西武鉄道、西武電車はここには直接関与していないと考えられます。
(参考文献 杉並区50年史 井荻町区画整理事業誌)
(※旧西武電車=都電杉並線(今の丸の内線)は現上石神井付近までの延伸構想を持っていましたが、区画整理には一切反映されていません。)

 それでは

Re:感想&フォロー
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/04/30 14:42:16) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 いやいや、参りました。この素晴らしい論文を読むと、自分の思いつきのような論が恥ずかしくなります。

***
 さて、お節介な話ですが。
 大正から昭和にかけての東京郊外の都市計画については、ちくま学芸文庫「東京都市計画物語」(越澤明著)が詳しいかと思います。
 井荻など杉並区北部、そして成城・砧あたりの世田谷区西南部については、私鉄による開発の前に、旧来の農耕地を区画整理する先見の明がある地元有志による努力があり、鉄道開業の受け皿になったというのが実情と聞いています。
 ともさんのフォローについては同著でけっこう敷衍することが出来ます。

 以上、半可通のお節介まで。

皆様。お楽しみ頂けましたでしょうか?
 投稿者---さいたま市民@西浦和氏(2002/05/01 00:52:49)

 皆さん。こんばんわ。お楽しみ頂けましたでしょうか?

 いやいやどうも、大人の皆さんを相手に、斜め読みの本のうろ覚えの記憶で思いつきの知ったかぶり、いつもの事ながら私の方が何ともお恥ずかしい限りです。エンターテインメントと割り切ってお許し下さい。

 大正から昭和にかけての東京郊外の都市計画については、ちくま学芸文庫「東京都市計画物語」(越澤明著)が詳しいかと思います。

 そうですね。今回の論は、この本の影響が大きかったです。この本で、ちょっと悔しいのは、常盤台駅の切符売り場の庇が「デザインが良くない」と書かれていることで、施工したのは私の父の勤務していた会社です。古レールを使った庇は、しゃれた駅舎に対して不似合いなものですが、私にとっては思い入れのある施設です。
 都市計画の歴史の話題については、それこそ更にお詳しい皆様方に今後ともいろいろ教えていただきたく存じます。

 井荻など…成城・砧あたり…については、私鉄による開発の前に、…区画整理する…有志による努力があり、鉄道開業の受け皿になったというのが実情と聞いています。

 そうなんですよね。大正〜昭和戦前期の耕地整理は、結果として都市化の準備を完成させたものなのですが、当時の状況としてはどうなのでしょう?農業の近代化や機械化との関係もありそうに見えるのですが、これは宿題になりそうです。
 私たちの浦和でも、「さいたま市の交通網妄想」で書いたのですが、大正時代に県庁西側の台地上の地域の耕地整理が行われていました。衛星都市として、早い時期から独立(当時京浜電車で川口を過ぎると浦和まで水田地帯だった。途中駅は蕨のみ)を保っていた、浦和の戦前の都市化はこの整理された畑が住宅地化する事で進んだところがあります。昭和7年の東北線の電車化(というより京浜線の大宮延長=新宿湘南ラインの逆?!)で東京駅へ30分あまりで通勤できる衛星都市となり、旧制高校のある街として文化人も移り住んだといわれている「北の鎌倉」ブランドが確立したのです。東京大宮電気鉄道が実現していたら、井荻や砧同様私鉄沿線として耕地整理由来の住宅地として発展していたかもしれません。

さいたま市の交通網 ../citydesign/log123.html

 それから、大正時代〜昭和戦前の経済状況についてですが、第1次大戦時の成金ブーム(正確にはここがバブルですね)、戦後の不景気、大正10年11年と景気が戻りかけたところへ関東大震災、震災手形の乱発とその不良債権化、処理が進まない所から金融恐慌、そして世界大恐慌、対策としての金解禁によるデフレ深刻化、その中で昭和7年、9年の飢饉と続き12年に日中戦争が始まりようやく軍需主導の景気回復が本格化するわけです。こんな認識でどうでしょう?
 その中で、既存鉄道会社は軌道輸送(河川改修による舟運衰退分を請け負う)と電力供給で安定した成長を保っていたのではなかったでしょうか。ですから、大正後半〜昭和初期の不況下でも有力な投資先とされていたのでは?ただ、鉄道疑獄事件を始めとして、東武の昭和6年の配当問題や京成の昭和8年の東電千葉支店合併問題など当時の優良企業?ならではの経済事件はあったと言えます。

 それから私は、猪瀬氏の著作のバイアスについては一応批判的に捉えているつもりです。彼の近年の活動(道路公団のことなど)については、彼を押し出すことで一定の社会的な評価(それはもちろん彼の著作などからの)を得つつ、彼の委員会の提言のある部分を政策へ取り入れるというスタイルの改革政策の一部分なのだろうなあとぼんやり思っています。

以上、半可通のお節介まで。

 いやいや、いつも勉強になります。乱筆まさにご容赦。

英断か暴挙か
 投稿者---和寒氏(2002/04/18 12:36:39)
 
http://www.geocities.jp/history_of_rail/
英断か暴挙か
└少なくとも暴挙とは言い切れない
 └中途半端な改良が招いた「怪挙」
  └防衛的投資の意義
   └大規模イベント時に対する準備が足りない

 4/18付の交通新聞によれば、JR西日本はW杯輸送に関連して臨時列車を289本設定するとの由。
 その一方で、神戸ウイングスタジアムでの試合開催時には、「和田岬駅のホームが狭い上、同線が単線で輸送力に限界があるため」和田岬線は運休するそうです。文面がやや曖昧なので確定的にはいえませんが、開催日の全列車運休、もしくは開催時間帯前後の列車のみ運休となる様子です。

 この措置、皆様どう思われますか。
 混雑による事故を防ぐ英断か。
 自らの本業を放棄する暴挙か。

 昨年の将棋倒し事故がありましたから、防衛措置として理解できないわけではありませんが、いささか過剰反応ではという気もします。

少なくとも暴挙とは言い切れない
 投稿者---551planning(2002/04/18 13:00:19)

 そもそもW杯云々を置いといて、地下鉄海岸線ができてなおわざわざ電化までして残す和田岬線の意義って…?(勿論通勤時の利用度は知っておりますが)

 浦和美園駅に行くと分かりますが、あれだけ広大な土地を以ってしても代表試合後に一部混乱が見られたといいますから、和田岬線のキャパではなんともはや…。個人的には英断とまで言わないまでも暴挙とは言い切れないものがあると思います。
 しかも投石を避けるためにバラストを固めるとか…(のぞみデビュー後の教訓が形を変えて活かされる?)それでもなおフーリガンをはじめとする外国人サポーターの動向は未知数であり、関係各所も頭の痛いところですねぇ(先日警備のデモンストレーションが報道されていましたが、コメンテーターが「対警備隊の訓練だけでは、サポーター同士の小競り合いを止めることに対処できるのか?」と言及してましたが、まさに視点の違いというか)。

 「公共交通」を掲げる以上、それを半ば放棄するような措置とも取れなくはないですが、難しいですねぇ。個人的には違う例ですが、大雪(になるであろうという)時に事前に大幅な間引き運転をするようになってしまった現状なども疑問には感じています。

中途半端な改良が招いた「怪挙」
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/04/18 14:19:06) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 本来会場直近の駅があり路線があるのに輸送に参加せずしかも運休というのならその非協力ぶりを指弾されて当然という事態ですが、こと和田岬線に限っては、誰からも省みられないばかりか、運休に対する批判どころか当然視すら沸いてくる有様です。
 まあ実際、あのインフラですから、輸送計画に入っていないとはいえ運転してたら押し寄せるであろう観客を捌き切れないのは必至で、公共交通としては痛恨のことではありますが、周囲の「どうするつもりだろうか」という疑念への最適解がこの「運休」だと思います。
 まあこの手の措置には類似の前例があり、昭和49年度までの旧盆・年末年始輸送の時、上野−大宮間の線路容量確保と上野駅混雑防止を目的として、高崎・東北線の普通列車が上野−大宮間運休という措置が取られていましたから、重要度が低く、高順位の輸送の障害になる存在を運休という選択肢が無かったということはないようです。

 さて、私が思ったのは551さんと同じ疑問です。
 今回の非常措置ですが、平日夕刻以降の列車が運休することになります。つまり、その日は和田岬線の存在価値そのものである三菱重工や三菱電機などの退勤客輸送を放棄することを意味します。JRや神戸市などではバス代行で対応するとしていますが(海岸線利用はW杯輸送で手一杯?)、裏を返せばそれで事足りる程度の輸送量しかないということです。

 昨年7月、海岸線の開業と時を同じくして和田岬線はまさかの電化となりました。この総工費は約1億3000万円。電気は本線から配電、車両は中古の103系とコストがかかってはいないとはいえ、それなりのコストはかかりました。
 4月の電化着工の時点で神戸ウィングスタジアムの建設とそこがW杯会場になることはわかっており、同スタジアムはJ1のヴィッセル神戸のホームグラウンドでもあり、W杯以外でも使用されることは分かりきっていました。
 しかし、臨時電車の運転や和田岬駅の改良などの声は一つも聞こえておらず、電化というイベントがウィングスタジアムの開業と全く無関係であることがわかります。
 となるとひたすらこの路線は和田岬の三菱重工と三菱電機などの通勤輸送しか目的で無いことになりますが、今回の措置で少なくとも退勤時はバス代行が可能なレベルに過ぎないことが露呈しました。

 そもそも和田岬から海岸線に乗ると、東方面はハーバーランド前でJR神戸駅と、西方面は新長田でJR新長田駅と接続しており、朝、鷹取と兵庫、そして明石以西から通勤するケースを除けば(朝の上り快速は西明石から外側線を走り、明石、兵庫停車で神戸に至る。日中の快速が停まる須磨、垂水、舞子から兵庫は朝は普通しかない)、然程の利便性低下にもならないのに、存続どころか億単位の資金を投じて改良する意義はどこにあったのでしょうか。それこそ川崎重工兵庫工場への側線扱い部分を残して廃線にする選択肢もあったはずで、保線費用も惜しんで異常な減速措置すら取る会社とは思えない資金の使い方です。

 本来ならウィングスタジアム対応として、和田岬駅の改良(側線跡に線路を移し、ホームを拡幅する。出入口が突端部しかないように見えるが、実際は脇から横の道路に降りる出口がある)や兵庫駅の改良(連絡通路の増設)くらいはしておくべきでした。目的意識も内容も中途半端な電化の意義が、今回の措置で顕わになったというところでしょう。

防衛的投資の意義
 投稿者---和寒氏(2002/04/18 19:26:08) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

→やはり、和田岬線とはその程度の路線にすぎないということなんでしょうか。現地の状況はよくわきまえませんが、時刻表を見る限りにおいては、確かにその趣があると感じます。

→事実関係はそのとおりとして、誤解を招きかねないのは、神戸市交海岸線開業に対抗するための電化ではない、ということでしょう。
 和田岬線電化は典型的な「防衛的消極的投資」である、というのが私の認識です。気動車基地が立ち退きを迫られたというきっかけはあったとしても、基本的には、キハ35を維持し続けるよりも電化した方が安い、という判断だったかと思います。
 その一連の流れは会社の枠を超えて存在し、相模線・八高南線・七尾線・播但線・舞鶴線・若狭線・大村線(早岐−ハウステンボス間)・豊肥線(熊本−肥後大津間)などの電化は、基本的に同趣旨なんでしょう。

 それにしても和田岬線の場合、旅客営業廃止という選択がありえたことは確かでしょうし、海岸線が開業してまでなぜ電化かという疑念は、やはりあります。また、そこまで頑張っておきながら、せっかくの繁忙期に運休というのも理解しにくい対応であり、「怪挙」との形容がまったくもって実にふさわしい展開といえるでしょう。

大規模イベント時に対する準備が足りない
 投稿者---とも氏(2002/04/18 21:03:35) http://town-m.vop.jp/

 ともです。

 和田岬線については、ちょっと驚きました。
 基本的に神戸市は海岸線で足りるということなのでしょうが、本当にそれですむのでしょうか。

 大規模イベント時には予想外の動きや現象がおきるものです。W杯という超特殊事情を勘案すると、運休ではなく、突発的な海岸線キャパオーバー時には振り替え対応を考えるぐらいのことをすることが必要であり、表向き、運休ということでもよいとしてもその程度のことは考える必要があったと思います。
 フーリガン対策はもちろん重要です。ですが、交通輸送も重要なのですから、セキュリティエリアの外側からの和田岬線の部分営業(W杯時のみの臨時駅でも良い)など方策はありそうなものです。

 あと1ヶ月あります。見直しは今がチャンスです。

 それでは。

おけいはんの憂鬱
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/04/30 02:08:08)
 
 http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs
おけいはんの憂鬱
└そもそも京都口に毎時16本も必要なのか?
 └Re:そもそも京都口に毎時16本も必要なのか?
ついに「鉄道分割」へ…深度化する事業再編
 └Re:ついに「鉄道分割」へ…深度化する事業再編

 大阪淀屋橋と京都出町柳を結ぶ京阪電車。その華はなんといっても京阪特急です。先々代の1900系からのテレビカーの伝統に、8000系(現存する3000系編成も)のダブルデッカー車も加わり、京へいざなう「おけいはん」の笑顔もあって、往々にして通勤偏重となりがちな昨今の私鉄業界において、唯一「華」を感じる路線でもあります。

 しかし、その京阪特急も曲がり角を迎えているようです。
 かつて京橋−七条間ノンストップをウリにしていましたが、洛南伏見とはいえ中書島、丹波橋に停車し、通勤時には枚方市にも停車しています。2扉転クロの特急専用車もラッシュ時には邪魔なようで、3扉クロスの9000系を導入しましたが、これもロング改造がされたようで、お隣りの阪急が6300系による十三−大宮ノンストップから高槻市停車、そしてロング車も交え、茨木市、長岡天神、桂にも停車(大宮は通過)と変貌したこととあわせ、特急のあり方について議論が喧しいところです。

 私自身、休日に数回乗車しただけなので多くを語れませんが、沿線外住民から見た「京阪」の姿と絡めて、特急の問題を述べてみます。

●現状ダイヤ
 日中、淀屋橋−出町柳間50分(京橋−四条は38分)と、新快速の27分に相当水をあけられていますが、阪急の梅田−河原町42分とは拮抗してます。
 問題は最速列車が特急の毎時4本だけということで、新快速と同数。阪急の特急毎時6本といった目玉もありません。京阪には急行も毎時4本ありますが、上下(京都方面行きが「上り」です)とも丹波橋で特急待避のため、直通利用には適しません。
 急行の所要は淀屋橋−出町柳で67分、京橋−四条でも57分と、JRの普通(43分)にも遠く及びません。
 特急が中書島まで停まらないため、寝屋川市、枚方市や樟葉といった中間へは急行が頼りですが、京橋から枚方市が19分、樟葉が25分とそこそこ速くはありますが、如何せん毎時4本(このほか萱島から各停の準急があるが…)と直通便と同レベルの頻度です。

●問題点
 休日に淀屋橋から京阪特急に乗って耳にする不思議な放送があります。
 大阪都心の停車も終わった京橋を出て、「この先混み合いますので、補助席の使用は出来ません」というものです。
 次は京都伏見の中書島ですから、京阪間都市間輸送の特急が、京橋を出てこの先乗ってくるというのはどういうこと?と感じるのが自然です。

 実は特急が混むのは京橋ではないのです。中書島で乗り込み、そして急行を抜く丹波橋でピークになります。この混み方を見ると補助席を使わせないのも肯けますが、とはいえ京都市内輸送で混むから直通客に立ってなさいというサービスが正鵠かどうかは論じるまでも無いでしょう。
 何でこんなことになるかというと、丹波橋までの各駅および宇治線から、七条、四条、三条、出町柳への移動は、事実上特急しかないのです。これは急行が丹波橋で特急を待避し、普通も藤森で特急と急行のダブル待避。中書島−三条の区間普通は逃げ切りますが宇治線の接続が無いという具合で、わずか10kmも無い区間の移動に都市間輸送の特急を充てているダイヤです。

 直通客にとっては迷惑至極であり、区間客にとっては2扉の乗りづらい電車とこれも迷惑という状況ですが、この現状に、「急行の逃げ切り」「特急の3扉化」という意見が見られます。

●改善すべき点
 京都市内輸送に特急を充てている点は、自社の看板商品の使い方を完全に誤っています。この部分は、宇治線接続を中書島−七条以北で先着する列車に変更することがまず必要です。

 また、急行の問題ですが、淀屋橋の発車時刻繰り上げや、枚方公園、伏見稲荷などの停車駅削減をセットにすれば逃げ切りは可能です。
 しかし、都市間輸送においては確実に特急への狙い乗車が発生しますから、特急の直後に大阪を出て、直前に京都に着いても乗車チャンスの点から見ても利用は少ないでしょう。
 ここは、「急行は特急を待避する」ということを是認して論じたほうが良さそうです。

 私としては、急行の待避駅を樟葉に変更し、特急を枚方市に停車することを提案します。
 趣旨としては、中間の主要都市である枚方市の乗車チャンスの拡大。京都市内での優等列車雁行の解消による、特急の中書島以北の混雑の解消です。
 枚方市停車による混雑への懸念ですが、樟葉待避により淀屋橋発時刻の繰り下げにより、現在特急−急行−特急が3分−12分ヘッドであるのを、8分ー7分か9分−6分程度に出来るはずで、先着列車として案内できる時間が拡大されるので、急行の利用はかえって多くなります。
 下りが特急の後走りですが、まあ枚方市からの乗車なので、直通客の着席機会への影響はないでしょうし、居住地側の駅では狙い乗車が容易なので(家を出る時間の調整は出先で駅に向かう時間よりも調整しやすい)、どう分散しても狙い乗車が発生するので開き直るということです。

 枚方市での急急接続にする手もありますが、香里園、寝屋川市方面から京都への接続は効果も大きいので考慮する必要がありますが、大阪から樟葉、八幡市への接続まで担わせると急行に対する効果が少ない割りに、特急に集中してパンクする懸念があるため、あえて枚方市では片連絡にしたほうが良いでしょう。

 この案は特急と急行しか見ていないので、準急や普通を組むと破綻する可能性が強いです。また折り返しにあたりが出る懸念も多分にあります。
 しかし、ダイヤは運用あってのものではなく、利用あってのものですから、現状を見る限り、少なくとも休日や日中は、もう少し看板列車の上手い使い方が必要です。

●看板列車論
 京阪特急が2扉であることへの批判が根強いですが、確かに通勤輸送に2扉、ましてやダブルデッカーはあの構造では不向きです。
 しかし、お世辞にも足場が良いとは言えない淀屋橋の狭いホームに、休日ともなればダブルデッカー狙いで2列車30分も待つ行列が絶えないことをはじめとする(一般車でも次発を待つ列がザラ)、「京阪特急」の「指名買い」が根強いことを忘れてはいけません。

 上述の通り、JRの普通列車と良い勝負の所要時間でもここまで支持されるのは、特急専用車両の品質に依ること以外考えられないからです。
 速さで負け、品質でも勝てないと悟った(6300系特急車に京阪ほどの指向は見られない)阪急は、途中利用の確保とフリークェンシーに活路を見出し、成果を挙げていますが、京阪は根強いファンがいる段階で看板を下ろす必要はないでしょう。
 学研都市線と競合しているとはいえ、ある程度独占性を持つ沿線ですから、阪急スタイルに変えた場合、途中利用が増えるよりも、直通利用を失う危険性のほうが高いです。そしてまがいなりにも看板です。在阪私鉄各社の経営が厳しいですが、こうした時こそ自社のポリシーを貫かないと、却って自社のアイデンティティを失い、迷走する危険があるのです。

そもそも京都口に毎時16本も必要なのか?
 投稿者---西尾氏(2002/05/02 12:15:50)

 拝読しました。初めて投稿させていただきます。

 詳細への評価は時間の都合で次として、「そもそも京阪の京都口に毎時16本も必要なのか?」という疑問を呈したいです。
 京都口の昼間発着数(無料列車のみ)を列挙してみると、

JR京都線 12本 [(新快速、快速、普通)×4]
JR琵琶湖・湖西線 12本 [新快速3+1、快速4、湖西線普通4]
JR奈良線 6本 [快速2、普通4]
JR嵯峨野線 4本 [快速、普通3]
阪急京都線 12本 [(特急、急行)×6]
近鉄京都線 8本 [(快急、急行)×2、普通4]
地下鉄烏丸線 8本 [(急行、新田辺)×2、普通4]
地下鉄東西線 12本 [京津線4、醍醐8]

で、京阪だけが16本[(特急、急行)×4、普通8]です。

Re:そもそも京都口に毎時16本も必要なのか?
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/05/03 00:10:31) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 迂闊にもその視点は忘れていました。
 おっしゃる通り、毎時16本(樟葉−中書島は12本)というのはかなり高頻度と言っていいでしょう。特に京都口で、中書島と丹波橋に特急が停車している現状での優等8本、各駅8本は他を圧しています。
 ただ、中書島・丹波橋−七条・四条・三条・出町柳で事実上使えるのがそれぞれ半分の4−4ダイヤというのもある意味「贅沢な」使い方です。

 もともと京阪間のインターバンとして優等列車の種類と本数を揃えたところに、他線と違い洛南・伏見との市内輸送の任があるため、昔からJRや阪急が大阪起点の漸減ダイヤなのに対して、淀・中書島から本数が再度増える中間減少型のダイヤになっています。

 特急が洛南の市内輸送を担う現状ダイヤであれば、急行がこのまま樟葉以北で優等運転することは意味があまり無いともいえますし、普通(もしくは゛この区間を各駅停車で走る列車")を毎時4本にしてしまうというのも、ややフリークェンシーに欠けるきらいがあります。

 このあたりは「検証」の別の掲示板でも話題になったのですが、15分サイクルで優等を設定した時の泣き所であり、各駅に停車する列車に充分なフリークェンシーを与えると、輸送力過剰になるという部分です。
 いっそかつての阪急のように20分ヘッドにする(普通は10分ヘッド)という手もあるのでしょうが、阪急が停車駅を増やしはしましたが、特急を10分ヘッドに詰めた経緯を見ると20分ヘッドの退歩感が利用者に与える影響は深刻なのでしょう。

 この兼ね合いは難しいところですが...

ついに「鉄道分割」へ…深度化する事業再編
 投稿者---551planning(2002/05/11 01:02:21)

 別スレにしようか迷いましたが、とりあえず「憂鬱なお話」ということで。

8====8
 京阪が慢性赤字にある大津線系統の子会社化を予定していると報道された。詳細は不明な点もあるが、いまだかつて、曲がりなりにも大手私鉄からの(完全)分離独立化という話は聞いたことが無いように思う…新京成だって特異事例の産物であり、千葉急なぞ逆に編入されている。西鉄北九州線も(熊西−黒崎駅前間)籍はまだ残っているはずだ。

 東武・近鉄・南海・京阪が無配、名鉄が減配…平成14年3月期決算発表を目前に、大手私鉄の「明暗」が現れてきた。安定配当を基本とする大手私鉄にあって、減配・無配は大いなる決断といっていい。事業規模拡大に伴う負の遺産が会社経営に大きく影を落とし、「会計ビックバン」の集大成とも云うべき固定資産現存会計導入が視界に入ってきた中、既に不動産の含み益を調整弁としてきた政策は崩壊、各社は追い立てられるかのように事業再編に追われている。
 京阪は2月に持株会社形態への移行を主軸とした事業改革計画を発表しているが、その中で「大津線は、ワンマン化、フリークエンシーアップ等の路線特性、旅客ニーズに対応した運行体制を確立し、設備改良、人員配置の見直しにより自立化を目指します」と謳っていた。しかし改めて大津線系統の「分離独立」という報道に接するに、複雑な心境を覚えたのも事実である。ついに本丸とも云うべき鉄道事業の抜本再編へのプロローグとなることは間違いない。
 といっても、そうした予兆は既に表れている。昨年阪急・京阪・京急が相次いで発表した駅業務の子会社移管はまさにそれであり、今回の事象もJRでは珍しくない「鉄道部」体制の一変形ともいえる。時折噂に聞く東武の東上線系統分離も夢物語ではなくなってきたと云えるかもしれない。
 報道でも懸念視されているが、新会社の営業基盤は弱含みであり、ドラスティックな支出構造の変革を行ったところで厳しいのでは?…すなわち運賃値上げや本数削減など利便性や安全対策面の低下として跳ね返ってくるのではないか。期待通りの機動力と収益力を確保・維持できるのか?今、大いなる実験が幕を開けつつあるのだろうか…。

京阪電気鉄道 http://www.keihan.co.jp/
京阪グループ新生計画 Re-Born21 
http://www.keihan.co.jp/news/kcompany/news/news01/2002-2-19.pdf

Re:ついに「鉄道分割」へ…深度化する事業再編
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/05/11 02:14:27) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

いまだかつて、曲がりなりにも大手私鉄からの(完全)分離独立化という話は聞いたことが無いように思う…

 大手私鉄の子会社化、鉄道から軌道の分離は、南海から阪堺電軌の分離が唯一の例でしょう。あとは中小を入れれば関東鉄道から筑波鉄道(廃止)、鹿島鉄道というのでしょう。

 また京阪系の京福からの叡山電鉄の分離という先例もありますが、記事のほうはこのあたりからくる懸念でしょうね。

和歌山の休日で感じたこと  投稿者---エル・アルコン氏(2002/05/13 22:11:09)
 
 http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 スルKAN3daysの最終日、家族で和歌山に行ってきました。

 春の3days用に各社局の駅で配布していた「春遊びマップ」に掲載のモデルコースに、和歌山の項があり、テーマパーク「ポルトヨーロッパ」が3daysだと入場無料ということで決めたのです。
 この行楽で体験したこと、感じたことを少々述べます。

●意外と不便?な南海
 和歌山市までは毎時特急「サザン」1本と急行2本の3本体制。もちろん阪和線快速の毎時3本と拮抗してますし、所要も急行でも「紀州路快速」と大差がありません。
 ただ、イメージ的に特急が毎時1本で、しかも新今宮、天下茶屋、堺、岸和田、泉佐野、尾崎、みさき公園停車ですから、和歌山も遠く感じます。急行は羽衣、泉大津、貝塚にも停車するだけで、10分程度の差しかないのですが、イメージ的に損をしています。

●車両面での魅力が無い南海
 かつて阪和線快速といえば103系が爆音を上げて疾走するというイメージでしたが、今では毎時2本の「紀州路快速」には223系、毎時1本の無名の快速には221系と、京阪神地区と遜色無いレベルです。
 対する南海ですが、高野線急行のように車端にクロスシートを持つ新車が集中しておらず、もっぱらロングシートの従来車であり、特に「サザン」の一般席は形式の関係で新車(1000系)が入れないという決定的な問題があります。まあロングシートであっても、南海のそれは品質がよく、疲れないのですが、それでも1時間乗って行楽、という時、関西圏ではちょっと淋しい内容です。

●優等列車・優等車両のフォローが薄い南海
 
もちろん特急「サザン」には500円でリクライニングシートの特別車に乗れます。
 ところが難波発だと7時20分の後は10時45分まで無く(この間9時10分に全車一般車の特急がある)、和歌山市発だと16時37分の後は19時まで無いといった穴が行楽の行き帰りの時間帯に発生しており、せっかくの需要をみすみすフイにしています。
 一方の阪和線ですが、毎時1本以上「くろしお」があります。もちろん南紀方面直通で着席可能性が低いといえばそれまでですが、新大阪方面直通など附加価値もあります。

●宣伝しておいて途方に暮れさせる接続
 
さてポルトヨーロッパですが、和歌山市から系列の和歌山バスのマリーナシティ行きに乗り換えです。
 ところがこのバスが毎時1本しかありません。JR和歌山駅からは毎時2本あり、この時点で試合放棄さながらですが、では毎時1本なら同じ毎時1本の「サザン」受けのダイヤかというと、違うのです。
 例えば難波10時45分の「サザン3号」に乗ると、5分ほど前に出たばかりです。またこの施設は夜もきれいなのですが、午後の「サザン」からの接続も悪く、主要駅で行楽用のクーポン「サービック」を、しかも「サザン」指定券つきバージョンまで売っている割にはお粗末です。

 私も「サザン3号」で途方に暮れた口ですが、案内所が機転を利かして、JR和歌山駅まで目の前のバスで出ればJR駅始発便に乗れると案内してくれたので助かりました。ちなみにこれに救われた3days利用者は我が家の4人をいれて10人以上。この春の50日余り、いったいどれだけの人が同じ目にあったのでしょうか。

●和歌山バスの光と蔭
 
紀勢線の105系電車が思い出したように結ぶ和歌山市と和歌山ですが、日中10分間隔で中心街の本町2丁目などを経由する和歌山バスのシャトルバスが出ています。
 両駅とも駅舎正面の発着と至便であり、非常に使い勝手が良いです。

 しかし、問題もあります。引き違い窓に2人掛けの座席をならべた、前後扉ではありますが観光タイプに近い車両ですが、所要が10分台の市内シャトルには相応しく無いようです。
 つまり、通路が狭いので乗降に手間取ること。特にベビーカーや荷物があると大変です。一方でマリーナシティへのバスは30分以上かかる割りに座席数が少ないワンステ車など中型中心で、グループ客が入るとすぐ座れなくなります。実際、帰りは発車10分前に行っても和歌山市駅行きは座れなかったので、見送って和歌山駅行きにしましたが、グループ客が乗りこみ満席で、座れないと判断した初老の客が見送るなど、時間がかかり、本数が確保されていない路線でこれは問題です。市内シャトルと車両を交換すれば適材適所の気がするのですが...

 また運賃も高く、シャトルですら均一でなく(210〜220円。JRは180円)、海南に近いマリーナシティまでは510円と、この規模の都市圏では珍しい強気の運賃です。

●バスから見た南海とJRの地位
 
結局シャトルに行きも帰りも乗りましたが、JRと南海の明暗がくっきり分かれました。
 つまり、行きも帰りも和歌山駅と本町の間では立客がかなり出る盛況だったのに、和歌山市駅へ通す客は座席定員の半分程度。しかも本町など中心街から和歌山市というのは目立ちません。
 駅前の商業施設も和歌山駅のほうが賑わっているようで、ここと中心街(ブラクリ丁など)の二重構造はありますが、南海側はかなり厳しそうでした。

●南海の都市間需要は?
 
行きの「サザン3号」(一般車乗車)は、堺で早くも半分近く降りましたが、そのあと岸和田や泉佐野、尾崎と乗りこんできました。
帰りの急行も、和歌山市ではそこそこ乗ってましたが、岸和田や羽衣でまとまって降車しており、新今宮や難波まで通す乗客は予想外に少なかったです。

 一方阪和線ですが、編成が短いというせいはあるものの、天王寺(環状線)を向いた一極集中型で、和歌山からの通し乗客も多いです。かつては山側後背地の乗客頼みで直通需要は南海に一歩譲っていた感のある阪和線ですが、今や南海が途中需要で持っているようです。

***
 以上、行楽客の雑感まで。

2004.11.02 Update


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