トップページ企画一覧BBS活用ガイド>道路板過去ログ
powered by ロリポップ!
【検証:近未来交通地図】<road to 〜 当世道路研究>
(過去ログNo.508)
下記内容は予告なしに変更することがありますので、予め御了承下さい。
当サイトの全文、または一部の無断転載および再配布を禁じます。

backindexnext
交通における「豊かさ」とは
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/21 20:18:57)
─誰がために、何のために公共交通はあるのか
 └時間がないので少しだけ
  └手段と目的/独占について
   └ご返信
    └道路とは離れますが

 戦後、高度成長を経て、日本は「豊か」になったといわれます。たしかにいろいろな家電製品が各戸にゆきわたり、われわれの生活は「豊か」になりました。
 しかしながら、主に地方においてですが、交通における「豊かさ」は増すどころか、かえって貧しくなっているように思われてなりません。

 そもそも「豊かさ」とは何でしょうか。欲しい商品が何でも手に入ることですね。
 したがって交通における「豊かさ」とは、使いたい交通手段が何でも使えることを指すと存じます。
 この点、もっとも「豊か」なのは日本の都市部でしょう。自動車を買いたい人は買えばいいし、買いたくない人は買わなくていい。飛行機や新幹線も選べれば、ハイウェイバスや鈍行列車も選べる。豊富な交通手段に恵まれています(日本に生まれて本当によかった。車を運転する「必要がない」のだから)。

 ところが地方にあっては、自動車を「買わざるを得ない」。自動車しか選択の余地がない。昔は鉄道と船しか選択肢がなく、貧しかったのですが、今は自動車しか選択肢がなく、やはり貧しいのです。

 竹村健一の交通論で一番疑問なのがここなのです。彼はまず、新幹線を賛美します。数年前中国横断新幹線についての講演会で「新幹線ができたら、みんな新幹線で行きますよ」と言いきっていました。たしかに新幹線は便利ですが、ではどうして近鉄の名阪特急やハイウェイバス、青春18きっぷなんかが人気なのでしょうか。結局、交通ニーズというのはきわめて多種多様であり、皆が皆高速性ばかり追い求めているわけではなく、遅くていいから安く行きたいという人も少なからずいるということでしょう。彼はそこのところをまるでわかっていない。
 さらに彼は、極端な道路整備を訴えます。たとえばオランダと九州を比べて「日本の道路整備は遅れている」とのたまうのです。しかしながら昔から馬車交通が発達していた欧米と単純には比較できないはずであり、しかも日本は沿岸部に人口が偏っていますから、少なくとも九州の山奥に高速道路を張り巡らしてもしかたがありません。むしろアル・エルコン殿のおっしゃるとおり、外環道とかのほうがはるかに重要課題と存じます(それにしても、どうしてそこまでしてアメリカの真似がしたいのか、まったく理解できない。そのくせLRTなどについてはまるで知らんぷりを決め込んでいるのだから、間違いなく彼は「自動車原理主義者」です)。

 日本の地方では、すでに「マイカー地獄」に陥ってしまっています。かつて公共交通しか選択の余地がなかったのと同じく、今ではマイカーしか選択の余地がない。自動車が生活を豊かにしてくれるというのは昭和40年代ごろの話であり、今ではむしろ公共交通を整備することこそわれわれの生活に資するものと存じています。だいたい今の時代は少子化が進み、子どものいない世帯が珍しくないでしょう。いずれ年金も破綻するし、将来に不安を感じないのでしょうか。まして今時の若者は食生活がメチャクチャですので、老化が早いと思われ、自動車を運転できない者が続出するのでは。まあ、老苦なるものは実際に歳をとってからでないとわからないのでしょうが。

誰がために、何のために公共交通はあるのか
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/08/21 21:58:47) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 まあこの掲示板でも何回か書いた話ですが、徒歩、自転車、クルマとつながる私的移動手段に対し、タクシー、バス、鉄道など陸運や航空船舶といった公共交通機関。両者はトレードオフの関係ではなく、まず移動する個々人の意思と目的があり、それに応じて選択するわけです。
 公共交通機関は、基本的には他人をして自分を移動せしめるのですから、そのコストに見合う「快適」「楽」が無いと割に合いません。自分でするよりも金を払って他人にさせたほうが辛いのに、公共交通機関を使えというのが間尺に会わないことはいうまでもありません。

 地方のクルマ中心主義については、その需要の疎なことから、お抱え運転手でも雇わない限り全員を満足させることが出来ません。ですから「自分で移動せざるを得ない」のであることは確かで、公共交通という「快適」と「楽」の提供がしてもらえないという意味では「豊か」ではないのです。
 ではどれくらいの水準であれば提供が可能になるのか。もちろん流動がそれなりに集まらないと無理ですが、現下の「クルマシフト」がかつては公共交通が成立していた部分も蚕食してきたのはなぜか。結局、金を払って辛い思いをするという部分でしょう。

 そのボーダーは画一ではなく、相当疎なエリアにおいても無理無く提供されているケースもあれば、明らかに公共交通の方がいいのにというエリアでも満足な提供が無いなどまだら模様です。
 結局それは、移動という行為を最終的に決める個々人を満足させるサービスを提供しているかという点につきます。はじめに個々人の移動の意思と目的があることを忘れて、移動には公共交通を利用すべきだと叫んでも意味が無いのです。長時間座れない列車とか、満足に移動するのなら料金が必要とか、大規模店にいきたいのに旧態依然の商店街にしか行けないとか、車庫があるから乗り換えだとか、公共交通の形態において、利用者よりも事業者の都合を優先し過ぎたツケを払っているに過ぎないのです。

 高齢化社会を訴えるにしても、こうした高齢者、障害者、また乳幼児や妊婦などバリアフリーを必要とする層にとって、公共交通がいかにバリアフルか。周りに危険を感じさせるような身体能力にまで落ちていても、障害に応じてカスタマイズされたクルマを購入してでも、車内いっぱいにチャイルドシートを並べたり、シートベルトが大きなお腹を圧迫しないようにクッションを挟んででもクルマを使うのはなぜか。クルマしか利用できなくしてきたのは道路行政ではありません。ひとえに公共交通の事業者のスタンスでしょう。

 旧国鉄時代末期の値上げ地獄において、利用者の受け皿となったのはなにか。独占の原理が働かず、利用者が独占の弊害から免れ得たのはなぜか。クルマという足の長い私的移動手段には、公共交通の手が及ばない水準のエリアにおける移動手段という側面と、いざとなったら自分で移動することで自分にとって最低限のレベルでの移動を可能にする最後の逃げ場という側面があるのです。
 闇雲な公共交通礼賛やクルマ規制論には、その最後の逃げ場だけを取り上げる弊害が背中併せ(クルマを運転する必要がない都市部においては、公共交通の都合に合わせたレベルの移動しかできない)という問題があり、まずその問題の克服、つまり利用者の立場に立った公共交通の整備をすることからはじめないと、いくら笛を吹いても踊らないばかりか、ハーメルンの笛吹きにすらなってしまうのです。

 ちなみに、クルマのコストが安い高いというのは実はそんなに関係ありません。そのコストが、得られるメリットに見合うのかどうかという「価値観」で決まるのであり、目的に応じたメリット見合いのコストの計算から多様な交通ニーズが生まれるといってもいいのです。
 ですから、青春18きっぷで移動コストを切り詰める反面、目的地では昼から料亭で舌鼓なんてこともザラなんです。あらゆる消費の局面で、安ければ安いほど支持されるということに必ずしもならないですし。

時間がないので少しだけ
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/22 03:13:34)

 公共交通の形態において、利用者よりも事業者の都合を優先し過ぎたツケを払っているに過ぎないのです。
 クルマしか利用できなくしてきたのは道路行政ではありません。ひとえに公共交通の事業者のスタンスでしょう。
 つまり利用者の立場に立った公共交通の整備をすることからはじめないと、いくら笛を吹いても踊らないばかりか、ハーメルンの笛吹きにすらなってしまうのです。

→お考えはよくわかりました。ただ、公営交通を批判するのならまだしも、民営事業者を批判するのはちと酷でしょう。民営交通はしょせん商売であり、慈善事業ではないのですから。だいたい民営化されたJRがどうしてローカル線の運営に努めねばならないのでしょうか。ふつうの民間企業なら、不採算部門からの撤退は至極当り前のことなのに。
 それに独占独占とおっしゃいますが、マイカーの独占についてはどうなんでしょう。

手段と目的/独占について
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/08/22 10:12:17) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 こちらも手短に。

●「民営交通はしょせん商売」
 現下の公共交通の質に関する問題をこの類の一言で片付ける論者があまりにも多いのですが、それでは「公共交通はどうあるべきか」という本質に一歩たりとも近づけません。
 「あるべき公共交通」を実現させるためには、どういう整備方法、経営形態が適しているのか、という目的に対する手段の検討を行うのが本線であり、始めに「民営だから」と手段を固定化することは全く本末転倒です。足下の道路関係4公団の議論もまさにその愚の繰り返しであり、始めに「民営化」という手段を目的化してしまったため、本来最初に考えるべき都市や地方の道路整備、交通整備のあり方という「道路整備の目的」に歪みが出ているのです。

 栗栖さんはおそらく大村連隊におられて前線に出られた経験がおありとのことなので、その方面の喩えを申し上げますと、ジャワ攻略戦の戦略を考える際に、「ジャワを攻略するという目的のためには、どういう兵力が最適か」という発想で戦略を立てても、「兵力は歩兵2個師団だから、ジャワまで行かずにボルネオで止めておく」という戦略は有り得ません。
 公共交通のあり方論において民営を絶対視することは「歩兵2個師団だとどこまで攻められるか」という議論であり、民営を含めた手法の検討まで至って始めて「ジャワ攻略のためにはどういう兵力が必要か」という議論になります。

●独占
 この手の議論で「独占」とその弊害といった場合、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」(いわゆる「独占禁止法」)における「独占」を指します。
 ここでは、独占及び不公正な取引の主体は「事業者」であり、独禁法で保護されるものは「一般消費者の利益」と「国民経済の民主的で健全な発達」です。

 ですから、事業者の独占を問うことは妥当ですが、一般消費者が自らの利益のために対象を選択し、その結果(マイカー選択)が画一であったことを「独占」とすることは失当です。

 なお公共・公益セクターにおいてはもっとも効率的な運営を行ううえで「独占」が必然であった側面があるのですが、旧独禁法21条に規定されていたガスや鉄道など公共・公益セクターにおける適用除外規定が平成12年の改正で削除された意味も合わせて考えるべきです。

ご返信
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/22 12:13:29)

 ご返信、光栄です。

→結局、民間企業にどこまで公共性を要求できるのかということですね。民間企業が利潤を追求するのは至極当然の儀ですので。
 今なすべきことは、一にも二にも公営交通における独立採算制の撤廃です。公共性と採算性をともに求めるなんて無理です。たとえば公立高校の授業料収入は微々たるものであり、運営費の大半が税金で賄われていますが、だからといって「公立高校は赤字だ」「公立高校の教職員はコスト感覚がない」なんて誰も言わないでしょう。そもそも独立採算でやるべきものとそうでないものを改めて論じ直す必要があろうかと存じます。

 足下の道路関係4公団の議論もまさにその愚の繰り返しであり、始めに「民営化」という手段を目的化してしまったため、本来最初に考えるべき都市や地方の道路整備、交通整備のあり方という「道路整備の目的」に歪みが出ているのです。

→おっしゃるとおりだと存じます。

 事業者の独占を問うことは妥当ですが、一般消費者が自らの利益のために対象を選択し、その結果(マイカー選択)が画一であったことを「独占」とすることは失当です。

→ですが過疎地にあっては、自動車の所有および運転は権利というより義務になってしまっておるのです。皆が皆自動車を選びたくて選んでいるわけではありません。

道路とは離れますが
 投稿者---とも氏(2002/08/22 14:21:58) http://town-m.vop.jp/

 ともです。

 今なすべきことは、一にも二にも公営交通における独立採算制の撤廃です。公共性と採算性をともに求めるなんて無理です。

 栗栖様のおっしゃりたいことは良くわかるんです。確かに採算性と公共性の両立は簡単なものではありません。
 でも方法はあります。
 インフラ部に関して公的保有として民間に運営を任せる方式や、奈良・十津川方式に代表される公設民営という考え方もあります。
 施設のうち構造物などの大規模投資を公的負担で行う手法(香港MTR方式)や公的機関の付属でも独立採算を追及する方法(NYのMTA、パリ営団など)など独立採算といっても様々です。
 それを全否定するのではなく、エッセンスを取り入れる工夫が大切なんです。
 独立採算のメリットと公的所有のメリットを相乗効果で活かすことを考えるほうが良いのではないですか?

 過疎地にあっては、自動車の所有および運転は権利というより義務になってしまっておるのです。皆が皆自動車を選びたくて選んでいるわけではありません。

 方法はいくらでもあるんです。青森の津軽地方や山形で行われている地域負担によるバス路線維持や長野の川上村のようにありとあらゆるバスをまとめて路線バスにしてしまうとか。過疎地でも路線バスなどの公共交通を維持する方法はあります。ただ、それをやらない。なぜか。車でよいと思う人が多いからです。
 自動車を皆選考したくないのならそういう方法はいくらでもある。でもそれを行わないのなら自動車交通で満足なのだね?となりかねない。

 交通事業は公共性はありますが慈善事業ではない。でも地域の要請があって、さらに金銭的なインセンティブを受けられる仕掛けがあるのなら交通事業者の協力で運行させることだって出来ない話ではないのです。
 マキシキャブだってなんだって方法はいくらでもあるんです。費用を公的な負担、もしくは住民の直接的な負担とすることに同意さえできれば可能なんです。

 自動車を選びたくないといっても、バスや鉄道が家の前まで来ることはないですね。どう考えても。仮に徒歩圏まではあっても、まさか好きな時間に自動車のような自由度での運行は到底無理です。
 公共交通の限界というものがあるのですから、そこを「マイカー独占」と結び付けては議論にならないばかりか答えの無いスパイラルにはまります。

 いかにして両者を有機的かつ効率的につなげ、公共交通を使いやすい環境にしていくかそういう観点ではないのですか?
 マイカー移動も公共交通移動もできるのが理想ですが、その折衷案があってもいい。公共交通と道路交通の結節機能を高めてあげれば乗り換えもパークアンドライドも容易になる。そういうことではないんですか?

 栗栖様はそれは専門家的な分限者の見方とおっしゃるかもしれませんが、諸外国の成功例はみなこのパターンです。ポートランドもストラスブールも考え方はミックス施策なんです。決してモーダルシフトではない。だからだれもが使いやすい。わが国でも実のところは浸透しています。地方駅ではパークアンドライドが当たり前に行われているではないですか。それでいいんですよ。端末まで公共交通に任せるのも理想論では結構ですが、まさか低コスト公共交通のジトニーやシクロを復活させるんですか?各集落に軌道を敷くのですか?ともなるわけで、現実的には両者のメリットを活かせばいい。
それだけのことです。
 高速道路と特急の使い分けがされたっていいんですよ。なにも悪いことじゃない。相応の地点までくれば選択の余地があるようにすればいいんです。

 それで

趣味的利用と日常の交通行動
 投稿者---かまにし氏(2002/08/22 17:12:28)

─ご返信
 └解っていない人間として考えますと
  └なるほど。
 └民間企業であっても努力は必要
  └ご返信
   └Re:ご返信
    └三度目ですが
     └Re:三度目ですが
   └「効用」という概念を改めて考えてみれば…
   └無礼の段はお詫び申し上げます/しかし強く勧告いたします

(以下次ページ)
    └Re:無礼の段はお詫び申し上げます/しかし強く勧告いたします
    └愚者の愚見
     └失礼を省みずに述べさせて頂きます
     └≪管理者投稿≫本スレッドに関する管理者見解

 かまにしです。
 参考になるかどうか分かりませんが、私のまわりの身近な事例を挙げてみました。

 私は、東京都大田区の蒲田駅周辺に在住する大学生です。不幸か幸いか自分は大都市圏の中で生まれ育ち、小さい頃から公共交通に囲まれて生きてきました。

 私には1歳下の弟がいて彼も大学生です。私の弟は、よく週末になると隣町の川崎にあるヨドバシカメラ(→京急川崎駅から徒歩0分)に行くのにわざわざ車を使います。私にしてみれば、恐怖の「南蒲田」(→第一京浜・環状8号線・京急線が平面交差する渋滞の名所)をわざわざ通過してまで車でウィンドーショッピングをしにいくのは理解不能です。電車で行けばドアtoドアで15分、車なら下手するとその3倍はかかります。ですが、平日はほとんど車に乗らないので、週末に運転するのは気分転換になるのも事実のようです。そんな弟ですが、大学(千葉県野田市)へはちゃんと電車で通っています。

 私は、学校へは最寄駅(湘南台)から神奈川中央交通バスが出ているのですがそれを使わずに、自転車で通っています。大学ではサイクリングサークルに所属して、毎年、夏は北海道を半周する生活を送っています。個人的には、「この世の中、公共交通とチャリだけあれば生きていける人がもっといてもいいじゃないか」と思うことも確かにありますが、そういう自分も研究室から大量の荷物を持ってマウンテンバイクで帰るのには一苦労で、そんな時、友人の車で駅まで送ってもらえると非常に助かります。

 私の大学の友人で、車を「大人のおもちゃ」のように扱っている人は決して少なくありません。彼はホンダのレジェンドを中古で買い、「実用性だけを考えて車を選ぶ人って嫌いなんだよね」と言ってビッツとかに乗っている人を批判しています。別の友人で、学校が終わり夜になると箱根に行って、湯本〜強羅の山道を100km/hぐらい出して走っています。それで何度もガードレールをへこませているようですが、修理するとまた懲りずに走りにいっているようです。私の周りのそういう友人は全て男性ですが、今後、車が「女性のおもちゃ」にはならないと言いきれないですよね。どっかの自動車メーカーが「着せ替え○○」とやってきたら、いずれは女性が自分を誇示する道具になってしまうかもしれません(笑)

***
 では、鉄道の方が自動車から誘引する魅力が全くないかというと、必ずしもそうではないはずです。確かに、自動車は概ね個々が所有するものですから、車内で自分の快適な環境を作り出すことは容易です。公共交通ではそれは難しいでしょう。しかし、自動車での移動中に読書をすることはできないですし、ましてや移動中に睡眠できるのも公共交通だからこそです。

 それから、ともさんが挙げられたように、鉄道の車内の快適性をより高めようとしている取り組みが、少ないながらもあることは事実ですよね。そういう列車があれば、日常の移動に使うかどうかは別として、時と場合によっては利用されるインセンティブになると思います。

蒲田  例えば、私は蒲田在住だと言いましたが、具体的にはJR蒲田まで徒歩7分、京急蒲田まで徒歩17分のところに住んでいます。しかし私は京急好きなので、週末、川崎に行くときには、わざわざ京急蒲田まで徒歩ないし自転車で行って、そこから2100形に乗って川崎までいきます。たった1駅3分の話ですが、2100形に乗っていくことが自分の効用を最大化させるわけです。

 しかし私の近所では通常、京急を使う人はほとんどいません。私の家は前述の通りJRの駅の方が近く、実用性を考えてもJRの方が本数が多く、より広い地域をカバーしていて便利だからです。京急好きの自分ですら、場所によってはJRを使うわけですから。

***
 いろいろな例え話を長々と書いてしまいましたが、私が言いたいのは以下のことです。

 自動車・鉄道の趣味的利用は確かにあり、鉄道よりは自動車を趣味的利用する人の方が多数派であることは確かですが、それは果たして日常の交通行動にどれだけ影響を及ぼすものなのでしょうか?どんなに自分が「○○好き」であっても、「○○」よりも便利な交通機関があれば、通常はそっちの方を利用するのではないでしょうか?

 それから長期的に考えてみれば、確かに「自動車好き」が多くて、箱根の峠を暴走するような人間を生み出すのは良いこととはいえません。そうは言っても、そういう現状を変えて行くためには、日本の産業構造・都市構造などを含めた幅広い観点での議論が必要となり、またそれを変えることが望ましいのかという壮大なテーマになってしまうでしょう。

 とすれば現在とりあえず必要なのは、「いかにクルマと公共交通を使い分け、クルマから公共交通に誘導していくか」であり、それがともさんの言っている話につながっていくのではないでしょうか?

 かなり長くなりましたが。

ご返信
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/22 22:46:24)

 参考になるかどうか分かりませんが、私のまわりの身近な事例を挙げてみました。

 はじめまして。
 いえいえ、とても参考になります。ありがとうございます。

 私の弟は、よく週末になると隣町の川崎にあるヨドバシカメラ(→京急川崎駅から徒歩0分)に行くのにわざわざ車を使います。

→要するに、理屈だけで交通は語れないということですよね。個人の嗜好もあわせて論ずる必要がありますね。

 平日はほとんど車に乗らないので、週末に運転するのは気分転換になるのも事実のようです。

→そういう人は弟さんに限らず、相当な数にのぼると存じます。電車やバスに乗って気分転換を図る人なんかごくわずかです。

 個人的には、「この世の中、公共交通とチャリだけあれば生きていける人がもっといてもいいじゃないか」と思うことも確かにありますが、そういう自分も研究室から大量の荷物を持ってマウンテンバイクで帰るのには一苦労で、そんな時、友人の車で駅まで送ってもらえると非常に助かります。

→この場合における車はあくまで「手段」です。それはいっこうにかまわないしむしろ当然です。

 自動車・鉄道の趣味的利用は確かにあり、鉄道よりは自動車を趣味的利用する人の方が多数派であることは確かですが、それは果たして日常の交通行動にどれだけ影響を及ぼすものなのでしょうか?どんなに自分が「○○好き」であっても、「○○」よりも便利な交通機関があれば、通常はそっちの方を利用するのではないでしょうか?

→ただ小生がどうしても気になるのは例によって吝嗇的多面利用です。
 ここで小生の身近な例を申しあげます。

 いつでしたか、とある日曜日に孫が野球の遠征に行くというので、愚息に電車賃をねだりました。ところが、愚息は頑として「車で送ってやる」と言い張るのです。
 なぜか。電車賃をケチるためです。もともと愚息に限らず、世の父親は休日には家でごろごろするものであり、孫を一人で行かせたほうがはるかに楽なのですが、それでも電車賃をケチってわざわざ孫を車で送っていきました(ちなみにここでいう電車賃とは480円です)。
 近距離でさえこのありさまですから、たまの遠出となると四国はもとより、鳥取やら姫路やらすべてマイカー。
 この場合、単にミミッチくマイカーを使い込んだとみるべきか、それともマイカーそのものが好きなのか、父親たる小生にもはっきりとはわからないのです。というのは、先日妻の法事を営んだのですが、その席で大阪に住む親戚が「私、車もってへんのですよ。税金やら何やらありますさかい」と言ったところ、愚息はしーんと静まり返ってだんまりを決め込んだのです。小生は心中で「ああ、うちの息子は本当に車が好きなんだな。公共交通は高くつくとか言っていたが、実際はコストも利便性も糞もなく、ただドライブしたいだけなのでは」と思ったものです。

 あるいは次男が広島の郊外に住んでおるのですが、やはり新幹線なんかとうてい使う気にはなれないようです。「新幹線より高速代のほうがはるかに安い」と言って。ところが次男は馬鹿げたことに230万円もするRVに乗っているのです。これではわけがわかりません。しかも「アストラムラインを廃止して道路にしたらいい」「全国の鉄道を全廃して道路にしたほうがよっぽどありがたい」と繰り返しております。
 ひとつだけ確実に言えるのは、交通の専門家や交通政策担当者があまりにも吝嗇的多面利用を甘く見すぎているということです。アストラムラインの利用者数は広島市の予測を大きく割り込んでおり、市が最も期待したマイカーからの乗換えがまるでなかったと中国新聞に載っていました。アストラムライン開業に伴い、並行するバス路線は大半が整理されてしまっていますから、それまでバスを使っていた人がアストラムラインに乗り換えさせらえただけに終わったようです。そりゃマイカー族がアストラムラインなんか乗るわけないんですよ。ガソリン代よりも運賃のほうが高いですから。並行する祇園新道も立派に整備されましたしね。

 ガソリン税や高速道路、公共駐車場が高いという意見がしょっちゅう聞かれるわりに、公共交通の運賃が高いとの批判はめったに聞かれません。愛媛新聞には連日のようにやれ市営駐車場が高いだのといった投書が載っております。貴殿の仰せのとおり、公共交通のほうが便利なケースは都市部ではすでにかなりあります。しかしだからといってそれだけで公共交通に誘導できるの思い込むのは甘すぎます。公共交通の運賃をガソリン代よりも安くする、遠距離にあっては高速代よりも安くしなければなりません。

 私は京急好きなので、週末、川崎に行くときには、わざわざ京急蒲田まで徒歩ないし自転車で行って、そこから2100形に乗って川崎までいきます。

→ふーん。小生は田舎者だし、鉄道ファンでもないのでよくわからないのですが、京急ってそんなにいいんですか。
 ちなみに京急は松山でもCMを流していますよ。「羽田with京急」だと。

解っていない人間として考えますと
 投稿者---とも氏(2002/08/23 01:00:48) http://town-m.vop.jp/

 ともです。

 栗栖様、広島にお住まいのご子息のご意見、正直私がそばにおりましたら怒鳴ってます(笑)。こういう方はいらっしゃる。その逆もしかり、両者のメリットという視点がないんですね。
 私も一応専門家の端くれでして、ま、栗栖様からみれば端くれどころか泥の底辺の有害ヘドロなんでしょうが、一応自動車の費用負担ぐらいは頭に入っております。ですから頭から否定するつもりはないです。ただ、栗栖様の表現では「いかにも自動車が悪」としか私のような読解力のない人間には受け取れませんでした。
 これまで大変非礼な書き方をしておりました。大変失礼いたしました。

●公共交通の運賃問題
 なにも交通政策担当者(そもそもそんな担当がいない自治体が多いのが実情ですが)や専門家が考えていないわけではありません。なぜなら日本中でTDMは行われておりますし、一見なにも変わっていないようでもちゃんと効果がでているのです。そこでの経験や蓄積をそれなりに有しています。私ごときですらそれなりに理解してますから、そこはあまり悲観的にならずともよいかと。
 専門書においても運賃の統一化などは常に課題として上がっておりますし、国交省あたりの資料でも運賃の低減はテーマの一つです。ですからTDMやバスの利用促進やLRTの整備や駅の結節機能強化に道路財源が使われているのではないかと。

 こう言い出すと元も子もないのですが、運賃の統一化のための運営一元化は今の日本の経済の考え方に逆行しますからなかなか難しいです。私も仕事では公共交通の利便促進策として直接コストの低減を打ち出すのですが、やはり経営や経済の専門家の方に一蹴されてしまいます。
 もちろん自治体によってはその辺を考慮した交通計画を立案しているところも数多くあります。運営一元化やチケットキャンセラーに代表される信用乗車制度に踏み込んでいる自治体も多いです。しかし、それがなかなか現実に実を結ばない。逆のケースはいくらでもあります。単年度では大幅黒字ではあるものの初期投資を回収するのに数年かかるという理由で廃止が議会にかけられたコミュニティバスなどという笑えないものもあります。
 そこには国民性はもちろん、行政分野においても採算性・資金の直接回収を常に求める姿勢が影響しています。
 クロスセクターベネフィットという考え方をご存知でしょうか。交通分野で赤字でも、その赤字を福祉や社会政策の分野で埋められればOKという考え方です。この考え方を実践したのが武蔵野市のムーバスであり、欧米諸国なのです。つまり弱者対策で福祉タクシーや福祉バスサービスをやるよりも利用しやすい公共交通を整備し、弱者にも負担を求めることで黒字になればいいということです。こういった考え方が未だ日本では成立しえません。そこが大きな課題であると私は考えます。

 採算性の追求はもちろん必要です。でも採算性や費用対効果をどこで確保するか。そういった点から考えていけば良いのではないかと思います。単に公共交通は良いというだけでもダメですよね。また、自動車の弱点を突くのはもっと簡単です。でもそうではなくお互いの利点を見出し、ベストマッチを常に追及する工夫が必要なのだと思うんです。お互いの弱点同士をぶつけ合ってもなにも解決にはならないのではないですか。

●交通選好
 確かに交通選好において嗜好が影響は与えます。そこは前から否定はしていません。ただ、それが全てではない。栗栖様やかまにし様の示された例は若干極端な例ではないかと。
 普段、自動車通勤の人は逆に休日に鉄道を使う傾向は各種データで実は示されています。また、その逆もあります。土日に鉄道分担率が上がるケースは地方都市では案外多いのです。つまり、「定常交通」「非定常交通」というのですが、定常=常に行う交通行動と非定常=非日常的な交通行動ではまったくちがうのです。ですから、かまにし様の弟様の行動もなるほどそういうことかという理屈はできます。
 でもドライブそのものを否定する必要はないと思います。そこはその人それぞれの考え方ですから。栗栖様のような非常に環境に対し高いご見識をお持ちの方にとっては許せないことかもしれませんが、そこまで否定しては逆に反発を受けるだけで得策ではないと考えます。両者がうまくマッチできる点を見出すことが効率的かつ現実的な対応ではないかと感じますが、いかがでしょうか。

 確かに理屈じゃないのかもしれません。でも、理屈で解決しなくては政策にはならないのです。政策として実行するからには何らかの科学的論拠において解決しなくてはなりません。この辺はご理解いただきたく。

 栗栖様には大変見苦しい投稿でしょうが、なにとぞご容赦いただきたく。

なるほど。
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/24 13:56:24)

 ご返信ありがとうございます。

→小生の次男は大変な車好きですが、親戚や隣近所を見回してもこういう意見は田舎ではけっこうありますね。いうなれば「公共交通不要論」というか。
 そもそも貴殿が最初に「軌道原理主義者」とおっしゃったとき、ピンとこなかったんですよ。松山でも数年前「LRT研究会」のような団体がシンポジウムを開いたことがあり、小生も行ってみたことがあるんですが、そこで出た意見はせいぜい低床電車を増やしてほしいとか、バス路線を拡充してほしい、といった程度の他愛ないものでした。むろんトランジットモールを提案する意見もありはしましたが、それにしたって大街道や一番町あたりのごみごみした繁華街において特定の時間帯に限りマイカーの進入を制限しよう、というほどの話であり、何も松山市全域をトランジットモールにしろ、などという荒唐無稽な物言いをする「軌道原理主義者」はただの一人もおりはしませんで、ある意味拍子抜けしたぐらいです。何しろその「LRT研究会」の会場にさえマイカーで来る人が多かったぐらいですから、地方では「軌道原理主義者」なんて相手にされませんよ。
 ただ、大都市における「軌道原理主義者」の気持ちはわからぬでもないんです。特に年輩者の場合、どうしても自家用車はぜいたく品というイメージが強いうえ、あれだけ公共交通の発達した都会でどうしてマイカーがいるんだ、という気持ちはあるかもしれませんね。川端康成が晩年、自動車なんて本当に必要なんだろうか、という文章を上梓していましたが、年寄りならわからなくもないです。

 ただ、栗栖様の表現では「いかにも自動車が悪」としか私のような読解力のない人間には受け取れませんでした。

→うーん、不本意です。むろん拙稿の言葉足らずが原因なんでしょうけど、じつはうちは道後温泉街で商店を営んでおり、愚息が商品を仕入れたりするのに車を使っていますから、自動車それ自体を悪だなんて考えようがないのです。たった今これまでの拙稿を読み返してみたのですが、かかる表現は見当たりませんね。ただ、それはあくまで拙稿の言い回しが悪かったのでしょうから、その儀は率直に謝ります。

 これまで大変非礼な書き方をしておりました。大変失礼いたしました。

→ハハハ、べつにいいですよ。むしろ小生のごとき交通のイロハも知らぬボケ老人が専門家たる諸賢に臆面もなく反論することのほうがよっぽど非礼でしょう。ただ、このホームページはあくまで利用者の視点から交通を論ずる場であり、素人が口を出すのはある程度やむをえないとも存じますので、ご理解ください。むしろ小生のような素人をご指導くだされば幸甚です。何しろ何万人もの人々がこのホームページにアクセスしているのですから。

 なにも交通政策担当者(そもそもそんな担当がいない自治体が多いのが実情ですが)や専門家が考えていないわけではありません。なぜなら日本中でTDMは行われておりますし、一見なにも変わっていないようでもちゃんと効果がでているのです。そこでの経験や蓄積をそれなりに有しています。私ごときですらそれなりに理解してますから、そこはあまり悲観的にならずともよいかと。
 専門書においても運賃の統一化などは常に課題として上がっておりますし、国交省あたりの資料でも運賃の低減はテーマの一つです。ですからTDMやバスの利用促進やLRTの整備や駅の結節機能強化に道路財源が使われているのではないかと。

→ああ、なるほど。道路財源を公共交通整備に使っているのは存じておりましたが、役所が運賃のことまで考えてくれているとは寡聞にして存じませんでした。少し安心です。

 こう言い出すと元も子もないのですが、運賃の統一化のための運営一元化は今の日本の経済の考え方に逆行しますからなかなか難しいです。私も仕事では公共交通の利便促進策として直接コストの低減を打ち出すのですが、やはり経営や経済の専門家の方に一蹴されてしまいます。

→要するに、競争原理が交通事業にふさわしいか否かですね。一昔前、広電が宮島線沿線のバス路線を系統立ててわかりやすく整理しようとしたらしいのですが、独禁法にふれるというので公取委から待ったをかけられたというのです。つまり広電バスと広島バスが競争したほうがよかろうというわけです。しかしながら当地では広電バスと広島バスがバラバラにバス停を設け、乗りたいバスを探すのにクイズを解くような労力がいるわけです。こういうのはいけません。その点、松山は伊予鉄バスしかありませんから、広島よりはわかりやすいように思います。
 ただ、競争によってサービスが向上したケースもありますね。JR西日本と私鉄の競争とか。もし東海道・山陽線が阪急などと競合していなかったら、はたしてあそこまで熱心にサービスに努めたかどうか。
 交通事業における競争のあり方につき、小生もちょっとわかりかねております。

→素人考えで申し訳ないのですが、公営バスを公立高校や公立図書館のように考えたらいいと思うのです。公立高校の授業料なんて微々たるものであり、どう考えたって赤字ですよ。公立図書館に至っては収入ゼロですし。しかしだからといって「公立高校は赤字だ」「公立図書館は無駄だ」なんてだれも言いませんよね。何とかならないんでしょうか。
 もっと単純に申せば、「動く歩道」です。広島の比治山のふもとに「動く歩道」がありますが、もちろん無料です。公営バスを「動く歩道」と同じように考えることはできないものでしょうか。

 確かに交通選好において嗜好が影響は与えます。そこは前から否定はしていません。ただ、それが全てではない。栗栖様やかまにし様の示された例は若干極端な例ではないかと。

→次男の場合、高校まではバスで通学していましたが、就職してからはマイカー通勤で、何というのか、公共交通を使わないことをひとつの「誇り」にしているようなのです。忘年会などで酒を飲んでも平気で飲酒運転するし、どうしようもありません。「芸備線を使えばいいじゃないか。飲酒運転はやめろ」と言っても絶対に聞きません。もっとも次男に限らず、田舎では飲酒運転が日常化しているようですが。
 アストラムラインや井原鉄道ができたときは、本気で怒っていましたね。「何であんなバカなことをするんだ。道路を造りゃいいんだ、道路を!」と。そしてアストラムラインが赤字と知るや大爆笑し、「ざまぁみろ。言わんこっちゃない。道路に造りかえろ」と言う。むろん整備新幹線も大反対。空港整備も猛反対。ただし高速道路だけは例外で、「高速道路は赤字でもいい。国のために役立っているのだから」と言うわけです。ちなみに次男は、月刊「ジャフメイト」と竹村健一の著書にかなり影響を受けているようです。
 これは次男だけの言い分かと思ったら、そうでもないのです。地方であればあるほど、そして男性であればあるほど「マイカー原理主義」はかなり多いですね。

 普段、自動車通勤の人は逆に休日に鉄道を使う傾向は各種データで実は示されています。また、その逆もあります。土日に鉄道分担率が上がるケースは地方都市では案外多いのです。つまり、「定常交通」「非定常交通」というのですが、定常=常に行う交通行動と非定常=非日常的な交通行動ではまったくちがうのです。ですから、かまにし様の弟様の行動もなるほどそういうことかという理屈はできます。

→ああ、なるほど。ただ、マイカーを保有していながら土日に公共交通を利用するのは、地方では中流以上の人でしょうね。小生の周りを見回してみても、この数十年間ただの一度も公共交通を使ったことがないという人がごろごろいますから。特に男性は。

 でもドライブそのものを否定する必要はないと思います。そこはその人それぞれの考え方ですから。栗栖様のような非常に環境に対し高いご見識をお持ちの方にとっては許せないことかもしれませんが、そこまで否定しては逆に反発を受けるだけで得策ではないと考えます。両者がうまくマッチできる点を見出すことが効率的かつ現実的な対応ではないかと感じますが、いかがでしょうか。

→ドライブ自体を全否定する気はないのですが、せめてドライブは郊外でやってほしいですね。ごみごみした都市部ではトラックやタクシーなどの「働く車」を優先すべきです。

民間企業であっても努力は必要
 投稿者---Tom氏(2002/08/23 08:19:10)

 ただ小生がどうしても気になるのは例によって吝嗇的多面利用です。
 ここで小生の身近な例を申しあげます。

 これはちょっと極端ですね。交通論というよりお子様(栗栖さんからみればお孫さん)を一人立ちさせるという観点からはむしろ一人で行かせるべきでしょうね。お孫さんがいくつかは存じませんが、中学生以上ならば、問題行動の目立つ子でなければ自主性を重んじるべきでしょう。ただ、大学生以上ならばその位いちいち小遣いせびるな、と指導する必要もあるでしょう。

 近距離でさえこのありさまですから、たまの遠出となると四国はもとより、鳥取やら姫路やらすべてマイカー。

 遠方でも鳥取駅近辺が目的地なのかどうかで変わってくると思います。
 また、大阪の親戚の方の例はひとつの考え方であると思います。レンタカー屋が近くにあれば実質、あまり不自由はしません。最近は一部営業所では常連客を対象に24時間貸し出しサービスをやっているところもあるようですし、マンションにレンタカーを配送するというサービスもあります。いちいち連絡をとったり借りに行ったりということを手間に思わない人には選択肢のひとつになるでしょう。

 しかも「アストラムラインを廃止して道路にしたらいい」「全国の鉄道を全廃して道路にしたほうがよっぽどありがたい」と繰り返しております。

 これは極端な・・第一鉄道用地を道路にしたって片側一車線の道路しか作れないのに。
 息子さんにきちんと説明しておかないと・・。

***
 単に安くするだけでは公共交通機関は選ばれません。
 利用者からすれば「コスト」「快適性」「利便性」との兼ね合いをそれぞれ秤にかけているのです。
 JR-Eの快速アーバンの例にしても、コストは安いですが立席でトータルでの時間もかかるという問題があります。一方、かまにしさんがあげた京急の2100形はオールクロスシートで座席定員も確保され、またスピードも日中は並行する東海道よりも速く、更には2100利用の快特だけでも20分に1本、快特全体では10分に一本の多頻度運転をしていることがあげられます。 関東では京急は好きという方は多いですが、京急の車両や設備改良への地道な努力に対し好意的にみているものと考えます。一方、JR-Eはといえば線形自体はいいのに車両は座席を減らし立席は強要するわ、立席を強要している割にはのんびりと流して走るわと、あまり良いイメージを利用者に与えていません。
 民間企業であっても、より顧客に選ばれるためには相応の努力は必要でしょう。

※休みの日にレジャーに行くのに立席前提の列車に乗っていく気がしない、というのは少し考えればおわかりになると思います

ご返信
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/24 13:56:24)

 ご返信、光栄に存じます。

 これはちょっと極端ですね。交通論というよりお子様(栗栖さんからみればお孫さん)を一人立ちさせるという観点からはむしろ一人で行かせるべきでしょうね。お孫さんがいくつかは存じませんが、中学生以上ならば、問題行動の目立つ子でなければ自主性を重んじるべきでしょう。ただ、大学生以上ならばその位いちいち小遣いせびるな、と指導する必要もあるでしょう。

→たしか中学のころだったと思います。まったくもって貴殿のおっしゃるとおりなんですが。
 ただこの場合、ドライブしたいという欲望に加え、買ったばかりの新車を周りの父兄に自慢したかったという理由もあったのではと推測しております。

→鳥取の場合はあまりよく覚えていないのですが、姫路の場合はたしか姫路城を見に行ったケースです。姫路城は姫路駅から歩いて10分少々ですし(たぶん)、「しおかぜ」と新幹線を使ったほうがはるかに楽なはずなんですが、早朝に家を出て、途中休憩をはさみつつ、えんえんと行ったようでした。そして日が暮れたころにぐったりして帰ってきたのを覚えています。

 これは極端な・・ 第一鉄道用地を道路にしたって片側一車線の道路しか作れないのに。息子さんにきちんと説明しておかないと・・。

→これは愚息に限った話ではなく、地方であればあるほど、男性であればあるほど「公共交通不要論」はかなり根強いですね。可部線の可部以北の廃止につき、沿線住民が反対しているとよく報ぜられますが、それは主に老人です。若い世代は屁とも思ってはいないらしいのです。次男に「芸備線が廃止されたらどうするか」と聞いたところ、「べつに。廃止したほうが静かでいい」とのことでした。

 民間企業であっても、より顧客に選ばれるためには相応の努力は必要でしょう(休みの日にレジャーに行くのに立席前提の列車に乗っていく気がしない、というのは少し考えればおわかりになると思います)。

→ああ、なるほど。ただし、単に事業者だけを責めるのも酷な気がするのです。京急と違い、JR東日本はローカル線を多く抱え、長期的には決して前途が明るいはずはありません。都市部で「効率よく」稼ぎ出す必要があります。
 むしろ、政府による「規制」こそが重要なのではないでしょうか。たとえばローカル線にはトイレがない。なぜか。規制がないからです。行政が「列車には便所を設けるように」という法令や通達を出せばすむ話です。昨今極端な規制緩和が叫ばれていますが、小生は不安です。JR本州三社が「完全」民営化される以上、経営権はJR自身にあるのであり、外部の者がいくら陳情したところで何の解決にも至らないように思われてならないのです。可部線の可部以北の廃止に際して、自治体がJR西日本に対し、懸命に陳情したり署名を集めたりしていますが、本来は政府に陳情すべきなんです。民営交通は慈善事業ではないのだし、彼らにだって生活がかかっているのですから(公営交通であれば、地元住民が役所に陳情すれば何とかなる場合もあるかもしれません)。やはり国土交通省がしっかりと監督し、「クロスシートにしろ」とか「トイレを設けよ」などと行政指導してほしいと願っております。

 ちなみにこれは空港にも言えることです。ニューヨークのテロ事件の原因のひとつは、航空に関する規制が甘すぎたことです。小林よしのり氏によれば、アメリカの空港の搭乗チェックはとても甘く、ビジネスマンの「駆け込み搭乗」もごく日常的で、ほとんど「バスに乗る」ような感覚なんだそうです。スチュワーデスが勤務中に平然と客とふざけ合うなど、乗務員に使命感がまったくないとか。
 今空港を民営化しようなどという愚論が飛び交っておりますが、小生は絶対反対です。石原大臣は何を考えているのでしょうか。小林よしのり氏はヒースロー空港を利用した際、電気系統のトラブルで何時間も待たされたうえ、待合室は狭いしどうしようもなかった、と述べています。空港は国の玄関であり、税金を投じてどーんと立派なものを造るべきだと存じます。それに日本の空港の発着料はべらぼうに高く、外国の航空会社が飛んでこないそうで、ハブ空港の整備の観点からも問題ありと考えております。

Re:ご返信
 投稿者---Tom氏(2002/08/24 23:58:33)

 Tomです。こんばんは。
 一部議論が完全に平行線になっている為整理したいと思います。

 栗栖さんの主張について

  1. クルマについて、「吝嗇的他面利用」という現象が見られる。これは地球環境には良い事とは思えない。但し、これについて規制するというところまでは考えない。
  2. クルマについても、モノを運ぶ必要がある場合、小さな子供がいる場合などの必要性は認める。
  3. 鉄道など公共事業への吸引策は、鉄道会社も全て民間企業となってしまった以上、例えば今のJR-Eのような状況も是認せざるを得ない。都市部の利益で地方を支援する必要もある。それらを改めるには公による規制が必要。

ということでよろしいのでしょうか?

 今までの文脈からすると、1.については苦々しく思いながらも個人の趣向もあり、やむを得ない、といわれているように認識しています。
 で、私との考えが大きく異なるのは3.ということになります。
 仮に民間企業であっても顧客獲得の為に自ら努力すべきというのは当然の論理である、というのは民間企業人としては当然の論理になります。この点については社会人の方の認識には大差がないと思います。で、JR等鉄道事業者の努力によってこそ、集客がてきるということになると考えます。ただ、栗栖さんはこの点については具体的な対案を出されていない、その為ここでいつも議論が止まってしまいます。

 可部線の例もあげられていますが、外部の陳情とはいっても普段利用していない人の意見、及び利用していても同じ意見の絶対数が少ない意見であればとりあげられないでしょう。あくまでも通常利用している方の多数意見が重要だと思います。

 栗栖さんは規制といっていますが、それではJRに規制をかけようということでしょうか?
 単に規制をかけるということは、民間企業であるJRに「一方的に」指導する形となりますが、それではコストに対する納得性は鉄道事業者からは得られません。 
 また、その分を補助金でまかなうとして、それは税金投入となります。
 連続立体交差化など、諸外国の実情に比してあまりにも不便なところ、かつ高コストを要する箇所への税金投入はやむを得ないと思いますが、一概に税金投入は認めたくはありません(更なる財政事情悪化を招くだけです)。

 地方のバスなどについても、工夫した上で、運行しても乗客が少ないのであれば廃止もやむを得ないでしょう。
 日本の場合、北朝鮮などとは異なり住居移動の自由は保障されています。
 バスがなく不便だと思えば、その地域のより便利なところに引っ越すという選択肢もあります。
 そのバスについても、ともさんの意見にあるようにミニバスやワゴンタイプのタクシーを代用するという手もあります。

 話をもとに戻しますと、栗栖さんの意見に対する認識として誤りがなければ、対案について具体的に提案していただけないでしょうか? もし対案がないようならこの問題については平行線ということで議論を打ち切りたいと思いますし、対案が提示されるのであれば、どのような部分まで公共セクタが分担すべきか、とかその為にはどのような施策を以って集客するかを論議したいと思います。

 また、その点を議論するならぱ道路板ではなく常設板での議論としたいと思います。

三度目ですが
 投稿者---和寒氏(2002/08/23 14:48:45) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 同じことを三度も書かなければならないので、厳しい筆致になるかもしれません。

 ひとつだけ確実に言えるのは、交通の専門家や交通政策担当者があまりにも吝嗇的多面利用を甘く見すぎているということです。

〔No.234再掲〕
→「吝嗇的他面利用」という表現は、文学的で直感に訴えるものはありますが、分析的に見ればかなり厳しいものだと思います。
 拙稿で述べたとおり、自家用車の保有には相応の効用があります。効用の増分は、潜在需要の顕在化を促し、人間の社会的活動を励起します。吝嗇的に使い倒すというのは一面的な理解であり、その道具が便利だからこそ需要が伸張するというのが正当な認識でしょう。
 これはあらゆる交通機関に当てはまるものです。具体的にいえば、明治時代に日本を出る人がどれほどいましたか、ということです。現代は、どれほどどころか、「何回」出たかというオーダーになっています。それもこれも、航空機という便利な道具が出現して、需要が伸張しているからこそです。

〔No.284再掲〕
 勿論、自動車が好きで自動車を使いたがる方はいます。しかしそれは、マクロ的にとらえれば、「自動車という便利な効用の高い交通機関が潜在需要を顕在化させた」ことにほかならないのです。
 これは鉄道にも当てはまることなのです。例えば、東海道新幹線が開業する以前、東京−大阪を往復する方は日に何人いましたか、ということです。特急急行夜行、そして大阪以西までの列車を合わせても、優等列車は確か30本程度しかなかったはずです。今日の新幹線の運行本数は3桁に乗っており、輸送密度は20万人に達しているのです。
 これらのお客さんは、鉄道が好きだから新幹線を使っているのですか? 違います。新幹線が便利な交通機関であるからこそ、これほどの需要を惹起したのです。そしてそれは、自動車についてもいえることなのです。

〔今回オリジナル〕
 自動車を使いたくて使いたくてしかたない方がいることは確かでしょう。でもそれは、マクロ的には効用増に伴う需要増の一部にすぎません。それを「吝嗇的多面利用」と形容する限り、認識として正当でないので、支持できません。

 また、「車そのものが『目的』になっているケースがとても多い」ことを非難するのは、著しく不適切です。なぜなら、家業のために走り回るのも、病院に通うのも、単なるドライブでも、同じ車種で同じ距離を走る限り、環境や道路に与える負荷は同等だからです。結果が同じである場合、特定の目的は是とし、そうではければ非とする判断は、極めて恣意的であり、私は支持できませんし、世の賛意を得ることもできないと思います。
 そして、この非難は交通論でもなんでもなく、特定の嗜好者に対する排撃でしかないことも、あわせて記しておきます。

***
 さらにいえば、栗栖様の問題提起は理解しがたい点が多いです。このスレッドのおおもと、

 交通論というのは極めて特殊であり、「個人の嗜好」が入り込んでくるために大変やっかいなテーマです。ことに「自動車オタク」はべらぼうに多く、おそらく男性の7割近くがそうではないかと思われます。

 ここからして誤解誤認に満ちているのではないですか。
 交通論は極めて特殊ですか?
 個人の嗜好が入り込むために厄介なのですか?
 世の男性の7割近くが自動車オタクなんですか?
 どこにそんなことをいえる根拠があるのですか。あるわけないですよ、はっきりいって。私の書き方は無礼に見えるかもしれませんが、根拠が不確かな事柄をいかにも尤もらしく書くことは許容できないので、敢えて厳しく書きます。

 なお、交通論は他の学問領域と大きく異なる特殊なものではありません。個人の嗜好を数量化する定式など幾通りもあります。自動車嗜好に関する有意な統計など見たことがありません。
 このようなことをわかっていて先からの論を展開しておられるならば、それは人を欺く行為です。わかっておられないならば、ただの無知です。

 如何? 返信など、特に期待していませんが、反論できるものならばお待ちしています。

Re:三度目ですが
 投稿者---栗栖克寛氏(2002/08/24 17:55:54)

 貴殿のおっしゃっていることは、要するに車のほうが便利だから増えたのであり、使い倒しているのではない、ということですね。
 これは近距離移動についてはたしかに言えるものと存じます。たとえバスの運賃が無料であっても、マイカーのほうが便利ならマイカーを使う。これは当たり前です。
 湯川利和氏のいう「吝嗇的多面利用」とは、長距離移動の場合や子どもの移動など、「公共交通のほうが便利な場合であっても」あえてマイカーを使い込むことを言っているのです。
 たとえば拙稿に挙げた、子どもの野球遠征のケース。せっかくの休日ですから、子どもだけを電車で行かせたほうがはるかに楽ですよ。それなのにわざわざマイカーで送って行く。あるいは姫路城を見に行くのに、新幹線を使わず、何百キロもの道のりをえんえんとマイカーを走らせる。
 このように、「公共交通のほうが便利であっても」マイカーを使うことを指しているのであり、マイカーのほうが便利な場合にマイカーを使うことを指してはいません。
 湯川氏の「マイカー亡国論」をお読みになったことがあるのですか。もっとも同書はすでに絶版ですので、図書館に行くしかありませんが。

自動車を使いたくて使いたくてしかたない方がいることは確かでしょう。でもそれは、マクロ的には効用増に伴う需要増の一部にすぎません。それを「吝嗇的多面利用」と形容する限り、認識として正当でないので、支持できません。

→繰り返しますが、湯川氏の言っているのはマイカー利用か公共交通利用かを選択するにあたり、たとえ「公共交通のほうが便利な場合であっても」マイカーを使うことです。
 もともとマイカーが好きな人は、コストも糞もなく、たとえ高速代より新幹線代のほうが安くともマイカーを使うでしょうから「吝嗇的多面利用」には該当しません。

 また、「車そのものが『目的』になっているケースがとても多い」ことを非難するのは、著しく不適切です。なぜなら、家業のために走り回るのも、病院に通うのも、単なるドライブでも、同じ車種で同じ距離を走る限り、環境や道路に与える負荷は同等だからです。結果が同じである場合、特定の目的は是とし、そうではければ非とする判断は、極めて恣意的であり、私は支持できませんし、世の賛意を得ることもできないと思います。
 そして、この非難は交通論でもなんでもなく、特定の嗜好者に対する排撃でしかないことも、あわせて記しておきます。

→それでは、たとえば河川敷をRVで走り回り、ウミガメの卵を轢きつぶす行為を条例で禁じた場合、それはRV好きの人々を「排撃」したことになるのですか。
 そもそも「人権」とか「自由」とかいうものは、「義務」や「責任」を伴うものであり、無制限のものではないはずです。どうしてもドライブしたければ、せめて人気の少ない郊外でやるとかの配慮は必要です。都市部ではいかんせん道路は渋滞しがちであり、歩行者も多く、トラックやタクシーなどの「働く車」を優先するよう努めるのはむしろ当然ではないですか。
 だいいち、ドライブを批判しただけで「排撃」になるのなら、言論の自由も糞もなくなりますね。ドライブを批判すること自体が許されないとは。ご自分の気にくわない意見は「言論封殺」ですか。

 交通論は極めて特殊ですか? 個人の嗜好が入り込むために厄介なのですか?

→車好きそのものはいいんです。ただ、数がべらぼうに多い点はやはり見逃せません。まじめに総合交通体系を考えることなく、ただ「ドライブしたいから道路を造れ」という意見は、「ジャフメイト」に限らず愛媛新聞にもかなり載っております。
 たとえば国防論において、もちろん「軍事オタク」が入り込んでくる余地はあります。しかしながら人数はほんの少しでしょう。

 世の男性の7割近くが自動車オタクなんですか? 

→数が多いということを申し上げたのです。たとえば「白髪三千丈」というとき、本当に白髪が三千丈もあるわけないでしょう。

 どこにそんなことをいえる根拠があるのですか。あるわけないですよ、はっきりいって。私の書き方は無礼に見えるかもしれませんが、根拠が不確かな事柄をいかにも尤もらしく書くことは許容できないので、敢えて厳しく書きます。

→ということは、「推測」や「伝聞」はすべてダメということですね。「でしょう」とか「ではないでしょうか」とか「のようです」とか「だと思います」とか「だと考えられます」とか「という気がします」とか「と見られます」とか「だそうです」とか「らしいです」とか「と聞きました」などの言葉は一切用いてはいけない、と。

 なお、交通論は他の学問領域と大きく異なる特殊なものではありません。個人の嗜好を数量化する定式など幾通りもあります。自動車嗜好に関する有意な統計など見たことがありません。

→読解不能。矛盾してませんか。「個人の嗜好を数量化する定式など幾通りもある」と言っておきながら「自動車嗜好に関する有意な統計など見たことがない」とは。

→貴殿は人を挑発するのがお上手ですな。
 このホームページには「利用者の視点から」というキャッチフレーズが付してあり、管理人殿もそういう趣旨で営んでおられるはずです。したがって交通の専門家のみならず、一般の素人が意見を述べるのはやむをえないどころかむしろ当然のことで、だからこそ小生も使い慣れないパソコンで投稿しておるのです。
 そこへ「人を欺く」だの「無知」だのと言われたのでは立つ瀬がありませんな。反論したければ一定の礼節をもって淡々とすればいい。どうしても素人が口を出すのが気にくわないなら、貴殿のほうがさっさとこの「近未来交通地図」を離れ、べつの「交通の専門家のみ投稿可能」なページに移られてはいかがですか。
 加えて「返信など特に期待しない」というのは、こういう場で決して言ってはならないのでは。それを言ってしまったら議論になりませんよ。捨てぜりふを吐かれたのでは、小生としてはどうすればいいのかわかりません。

「効用」という概念を改めて考えてみれば…
 投稿者---かまにし氏(2002/08/24 23:14:08)

 かまにしです。返信が遅くなってしまい、申し訳ありません。
 ただ私が言いたかったことも、結局、和寒さんのこの一言につきてしまいます。

 勿論、自動車が好きで自動車を使いたがる方はいます。しかしそれは、マクロ的にとらえれば、「自動車という便利な効用の高い交通機関が潜在需要を顕在化させた」ことにほかならないのです。

 なお、交通論は他の学問領域と大きく異なる特殊なものではありません。個人の嗜好を数量化する定式など幾通りもあります。自動車嗜好に関する有意な統計など見たことがありません。

 経済学でいう「効用」は、ここで問題となっているいわゆる個人の嗜好も含んだ概念です。栗栖さんがおっしゃっている「吝嗇的他面利用」も、いくら公共交通が運賃や時間で優位な「利便性」の高い状況であっても、「効用」が最大化する選択肢であるかどうかは別問題です。

 そして最終的な「効用」を最大化させる交通行動の選択は、予算制約と時間制約によって決定されます。しかし、当然ながら通勤・通学時と休日のレジャーでは予算制約も時間制約も異なりますよね。だから、当然ながら個人の嗜好が変わらなくても、はたまた公共交通の運賃や時間が変わらなくても、当然、状況によって選ばれる交通行動は変わってくるでしょう。

 それが具体例を挙げれば、私の弟の話であったり、私自身が土日は好きな京急を使うけど、平日の所用にはJRを使うこともあるという話につながってきます。

 そして、和寒さんがおっしゃっていたことは、そのような個人の嗜好を数量化した場合であっても、自動車嗜好が都市交通全体に影響を及ぼすほどの影響力はないということではないでしょうか?

 ただし今回の栗栖さんの投稿から考えられるのは、栗栖さんの息子さんが「アストラムラインを廃止して道路にしたらいい」「全国の鉄道を全廃して道路にしたほうがよっぽどありがたい」と繰り返しておっしゃっているように、地方都市の特に男性には、私とは逆で小さい頃から公共交通の恩恵を受ける環境におらず、いかなる時間制約や予算制約のある状況においても、自動車を利用してしまうような「効用(関数)」の持ち主が一定数存在するのかもしれない、ということですね。それが本当であるのだとすれば、確かに問題ある状況なのかもしれないです。

 ではでは。

無礼の段はお詫び申し上げます/しかし強く勧告いたします
 投稿者---和寒氏(2002/08/25 09:05:54) http://www.geocities.jp/history_of_rail/

 私は、自動車の吝嗇的多面利用に関し、栗栖様は掲示板活動の一切を停止すべきであると勧告いたします。理由は後に記しますが、これは私と意見が異なるからではなく、このままでは栗栖様が人倫に悖る行為を続けることになると思量されるからです。

 まず、私においてたいへん無礼な言辞を弄したことについてお詫び申し上げます。正直なところ、私には栗栖様の真意がまるで理解できませんでしたので、それを引き出すために敢えて挑発的な言辞を用いましたこと、どうか御寛恕ください。
 そして、栗栖様の穏やかな、というよりはむしろ困惑されたような対応を見るにつけ、栗栖様におかれては交通論の根幹でたたかう気持ちが薄いのでは、と判断しております。交通論は仮託の材料にすぎず、明確に意識しておられるかどうかはともかく、本音の部分が別にあるように思われてなりません。

 栗栖様は自動車の吝嗇的多面利用(という用語が適切かどうかはとりあえず措くとして)について縷々述べておられますが、それを大雑把に要約すると、

1)自動車の吝嗇的多面利用者が存在することは嘆かわしいことだ。
2)自動車の吝嗇的多面利用者の思想を矯正し、行動を掣肘したい。
3)自動車の吝嗇的利用者の存在を、行政や専門家は甘く見てはいけない。
4)自動車の吝嗇的多面利用者を公共交通を利用するようにさせたい。

ということになるでしょうか。ここで1)2)は議論になりようがありません。吝嗇的多面利用者が存在することは確かですし、それを認める以上は思想強制や行動掣肘はそう簡単なことではないからです。
 3)4)については議論の余地がありますが、しかし栗栖様の立論においては、根拠が薄いといわざるをえない。なぜならば、その具体的な事例として、必ず御子息が登場するからです。別に御子息に限らなくてもよいでしょう。皆が納得しえる一般的な状況を示すことがどうしてできないのか。
 さらにいえば、Tom様やかまにし様が示された事例は、栗栖様の御子息より更に極端ですが、それを吝嗇的多面利用の最たる例として援用してはおられない。論じたいことの主体が吝嗇的多面利用にあるならば、Tom様やかまにし様の発言を活用すべきなのに、そうしておられない。
 要するに、栗栖様は御子息の事例を一般論に拡大しようとしておられる。そこに交通論としての根本的な無理があります。

 以上までを総合すると、栗栖様が真に論じたいのは自動車の吝嗇的多面利用についてではない、と結論せざるをえないです。家族関係への言及はごくごく無礼と承知しますが、しかし敢えて言わなければならない。栗栖様が本当に論じたいのは御子息のことではないのですか? おそらく、明確に意識されているわけではないでしょう。しかし、第三者の目から見ると、そのようにしか見えないのです。
 だから、先の要約も、

1)御子息の思想や行動は嘆かわしいことだ(自分の価値観と合わない)。
2)御子息の思想を矯正し、行動を掣肘したい。
3)御子息のような自動車ユーザーを、行政や専門家は甘く見てはいけない。
4)御子息を公共交通を利用するようにさせたい。

と置き換えることが出来ます。
 ここで1)に主な力点があるならば、この掲示板は「悩み相談室」などではなく、交通論を論じる場なのですから、速やかに御退場のうえ別の場を探すべきです。
 2)に力点があるならば、親子関係の相克の解決を一般論・交通論に求めるようなもので、責任転嫁でもあり、また現実逃避でもあります。以前に栗栖様が記されていた軍歴が確かであれば、栗栖様は70代半ばよりも上の御高齢でしょう。そのような方が、家族の内部における相克を公の場で展開するのは、実にみっともないことです。栗栖様本人にとっては気晴らしになっても、御家族にとっては迷惑でしょうし、掲示板参加者にとっても同じく迷惑です。栗栖様は輝かしい軍歴をお持ちの由、かようなことは慎むべきです。
 3)に至ってはまったくの論外です。これは御尊父による御子息への批判以外のなにものでもないからです。親たるものは子を擁護してしかるべきでしょう。それをなんですか。御子息の目の届かない場所で批判を繰り返すとは。
 冒頭に「人倫に悖る」としたのは、栗栖様の御批判が御子息に向けられていることを、感じたからにほかなりません。そのようなことは、親として人として控えるべきです。

***
 結論として、自動車の吝嗇的多面利用に関し、栗栖様は掲示板活動の一切を停止すべきであると、勧告せざるをえません。今までに栗栖様が記されてきた栗栖様の軍歴や家族関係が真実であるならば、敢えて晩節を汚す行いをすることは絶対にやめるべきです。

 以上。

次ページへ

2005.07.20Update

backindexnext
Copyright © 1998-2006 Unlimited Liability Company 551planning. All rights reserved.

Powered by ロリポップ!アフィリエイトはエーハチネット