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CTC〜千葉圏公共交通利用者協議会〜
(過去ログNo.142)
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年末年始の京成は大丈夫なのか?〔続〕
 投稿者---パッスルスイカ氏(2001/12/15 13:19:46)

年末年始の京成は大丈夫なのか?
└ま、あんまり煽るものでも…
 └グランドデザインと言っても…
  └京成のグランドデザイン
   └Re:京成のグランドデザイン
    └Re:京成のグランドデザイン
     └Re:京成のグランドデザイン
      └Re:京成のグランドデザイン
       └Re:京成のグランドデザイン
        └Re:京成のグランドデザイン
         └Re:京成のグランドデザイン
          └Re:京成のグランドデザイン
           └京成としてどういった観点で鉄道事業を進めるか
            └Re:京成としてどういった観点で…
             └Re:京成としてどういった観点で…
              └Re:京成としてどういった観点で…
               └Re:京成としてどういった観点で…
                └Re:京成としてどういった観点で…
                 └Re:京成としてどういった観点で…

(以上別ページ)

                  └どういった観点でユニバーサルデザインを進めるか
                   └Re:どういった観点でユニバーサルデザインを…
                    └Re:どういった観点で…(一般論)
                     └京成のスタンスの問題が強いのでは?
                      └Re:京成のスタンスの問題が強いのでは?
 └Re:ま、あんまり煽るものでも…
  └Re:ま、あんまり煽るものでも…
   └Re:ま、あんまり煽るものでも…
└年末年始の京成は大丈夫でした。

▽前ページより

どういった観点でユニバーサルデザインを進めるか
 投稿者---brother-t氏(2002/01/07 17:36:46) http://members.jcom.home.ne.jp/brother/index.htm

 ここで言う普遍と言うのは様々な視点を踏まえてと言った意味合いです。確かに駅〜ホームと言うのはその最少公約数ではあると思いますが、それゆえに様々な視点が抜け落ちているのではないでしょうか?極端な話いくら駅〜ホームがユニバーサルデザインになっても駅までいかにたどりつくのかを考えなくては単なる駅〜ホームのバリアフリー化に他ならないと思います。確かにこれはこれで意義のある事だと思うのですが、普遍的な設計を目指すのならもっと広い視点が必要だと思います。例えば駅周辺の再開発と連動させてユニバーサルデザイン化を目指して見ると言うのも手だと思います。確かによほどひどい個所に関しては早急な手当てが必要だとは思いますが、まずしっかりと打てる手を打つには100駅があれば100通りの普遍的・最適な駅像があるわけでそれをしっかり把握しておく必要があると思います。ただいきなり100通りと言うのもやはり難しいと思うので要因事にグループ化くらいはしておくべきでしょう。例えば

と言った感じでグループ化してグループ事に最適な設計を用意しておけば完璧とは言えないまでもいざという時に相当レベルの高い物が用意出きると思います。

 ただ、英語案内充実・屋根延長・ピクトグラム整備・広幅改札などの方が安価で改善できるので導線のバリアフリー化が先に行われるとは限りませんが。

 実際具体的な改良は上の様な分類を終えてからの方がバラバラにやるよりずっと効果があると思いますが如何でしょうか?

Re:どういった観点でユニバーサルデザインを進めるか
 投稿者---矢切氏(2002/01/07 23:44:43)

 実際にユニバーサルデザイン化(特に街から電車のドアまでのバリアフリー化)をやろうとすると、なかなか進みそうにないです。利用者数が数千人という駅が多数を占める中、エレベータ設置などは採算の取れない投資といえましょう。いくつかの駅は残念ながら将来も階段を経由しないと電車に乗れない形が残るのではないかと思います。利用の多い駅から改善して行くのでしょうが、そのペースも資金に余裕がない以上ゆっくりになると思います。バリアフリー化の費用は自治体がもっと負担すべきだと私は考えています。

どういった観点でユニバーサルデザインを進めるか(一般論)
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/01/08 00:18:46) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 この分野で「カネが無い」という理由での整備遅滞や自治体への負担要請は筋違いだと思います。
 つまり、公共・公益事業と言うステータスを備える「鉄道事業」を営むうえで、顧客の身体的(とは限りませんが)問題を原因とする利用可能性の差異を放置すること、有り体に言えば、障害がある利用者を拒むような構造の放置は許されず、健常者、障害者を問わず全ての利用者がアクセスできることが事業を営む最低条件であると考えるからです。
 でも資金が無い、という批判もあるでしょうが、では例えばカネが無いから保安装置が整備出来ない、ATSも満足に付けられない、ということが許されるでしょうか。京福の事故は皮肉にも、いかに地域の足であっても、安全が担保出来ない会社に経営する資格はない、というスタンダードを提示する形になりました。

 余裕資金、端的に言えば配当に回る未処分利益があるのならそれはバリアフリー対策に回すべきです。株式会社で配当も出来ないのは、というならば、本当に資金不足であるのならいざ知らず、極論すれば払うべき支払を渋って身内に配当するというタコ配の如き行為と言い切っても差し支えないと考えます。

 もし資金不足でにっちもさっちも行かず、中期的な整備と支払の目処すらつかないのであれば、自治体が補助をする。これくらいシビアになるべきです。自治体も昨今は苦しいですし、自治体が出すと言う腹があるから、例えば支払余力が十二分に有るJREが、総武線No.2と3の乗降を誇る津田沼と西船橋にエスカレーター一つ作ってこなかったのです(津田沼は習志野市の支援で始まったが)。

京成のスタンスの問題が強いのでは?
 投稿者---とも氏(2002/01/08 20:31:52)

 ともです。

 この分野で「カネが無い」という理由での整備遅滞や自治体への負担要請は筋違いだと思います。

 同感です。
 ただ、現実問題としては国の補助制度や各自治体の事業との連携で費用を抑えながらの実施は可能なんです。それをしない、いやできない鉄道事業者に問題があるのでしょう。
 以前話題になった名鉄の岐阜市内線にしても京成にしても、行政が悪いのではなく、行政を動かせない企業に問題があるのです。

 京成は決して自治体とうまくやっている事業者ではないと思います。
 例えば、京急は国や地元とうまくやって自分たちの事業が最大限の効果が発揮できるような努力をしていますよね。京急蒲田なんて京急(鉄道)、都(高架)、区(歩道橋、駅前広場、エレベーター)、地元(再開発)、国土交通省道路(R15の拡幅と立体化)、国土交通省鉄道(駅の総合改善)といった具合にありとあらゆる事業を巻き込んでいます。
 同じように西武が練馬で区と都を巻き込みましたし、JR-Eは新幹線駅でやっています。
 しかし、京成はどうかといえば、船橋も本当なら乗り継ぎ利便性強化(逸走が怖いのは理解できますが)を名目にもっと市や国なりとタイアップしていけたでしょうし、京成上野もアプローチ次第では大江戸線との連絡だってもっと早期に出来ていたかもしれません。京成八幡もしかりですね。
 でも、それができない。そこが結果的にユニバーサルデザイン化の遅れ→利用者の減少→という道になっていると思えてなりません。

 確かに努力はしていると思います。船橋も他の事業区間に比べれば早いです。これは京成が船橋市なりとそれなりの関係を保っているからでしょう。しかし、それでも他の私鉄ほどの地元密着性を感じることが出来ず、さらにいえば、京成という会社のスタンスが良くわからないという気持ちを沿線に与えているのではないでしょうか。

 いっそ千葉に本社を移転するのが良いカナなんて思ったり・・・
 ではでは

Re:京成のスタンスの問題が強いのでは?
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/01/08 22:33:23) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 まあ千葉県内に関しては京成をあまり責めるのも酷かなとは思います。
 市川市内の問題は言うまでも無く外環整備とセットとされていた京成の連立化(菅野で交差する外環の形態が決まらないと連立を上に上げるか下に潜るかも決まらない)ですし、船橋の場合は駅前の地権者の取りまとめの問題(船橋市議会の建設委員会のログを見るとよくわかります)という塩梅で、どちらかというと行政が待ったを掛けたはいいが待たされすぎた、という面が強いです。
 船橋の連立にしても、船橋競馬場や海神方の取り付け部分(路線切り替え時などでより多くの土地を要し、本来土地の手当てなどでいちばん苦しいところ)は相当早くから用意・整備されており、結局駅前の再開発の取りまとめの遅れが尾を引いた形です。

船橋市議会建設委員会:
http://www.city.funabashi.chiba.jp/gikai/iinkaikiroku/iinkaikiroku2.html#Anchor-37516

 この構図、どこかで聞いたことが、と思ったら、成田空港開港が遅れに遅れて財務内容を決定的に悪くしたことがケチの付け初めかもしれません。

 強いて言えば、行政(地公体)を動かす「力」と「知恵」が他社ほどにあれば、というところでしょうが、昭和50年代の暗黒の10年はそういう「力」を削ぎ尽すに十分な時間ですし、沿線住民の信頼も相当落としてしまったゆえに、本来こうした事業を後押しするはずの「京成への期待」がホントにできるの?といった「不安」にしてしまったのでしょう。これが「地域密着」が感じられない理由なんでしょうが。

***
 ただ、京成のダイヤ編成のネック絡みの案件でもっともやり方が下手だったとしか言いようが無いのが金町です。どう考えてもR6の金町立体の整備は、金町駅のホーム延長を可能にする工事を同時施工する絶好の機会だったのですが、R6本線は京成の踏切を越えて着地し、京成は今まで通り地べたを走り、4連しか入れない駅はそのまま、と何も変わらなかったのは情けない話です。
(R6本線をもう少し手前に下ろし、京成は地下化してR6と交差すれば8連対応も可能だった。R6本線を下ろす理由にしても、金町駅前からR6本線に入りやすいとか理由はいくらでもできたはずなのに)

 あとは昭和40年代の千葉県のマスタープラン(?)作りに当たって、臨海部の開発で京成がことごとく貧乏くじを引くような設計になってます。つまり、埋立地の開発に際し、内陸部から引っ張る幹線道路がことごとくJR駅起点で京成駅の間を通過という構成です。
 このころは京成の競争力もありましたし、なぜこんな後で決定的に効いてくる「失策」を許したのか。この点については、確か当時両社のトップの座にあったT知事とK社長ともかなりのやり手だっただけに、「政治力」の問題でもあるのかもしれません。
 ただ、「政治力」となると、京成は戦前に有名な疑獄事件を引き起こしているだけに、踏み込まなかったのかもしれません。

 最後は筆が滑りましたがご海容のほど

Re:ま、あんまり煽るものでも…
 投稿者---はあ?氏(2001/12/23 05:32:58)

 批判的になってしまいますが、京成千葉に高層ホテルを建てて正解なのか?JR千葉駅前に奪われた商圏をうまく取り戻す、あるいは両駅間をモール化するなどのビジョンは今回の再開発からは見えてきません。また、グループでバス会社を何社抱えているんでしょうか?自社管轄の子会社再編を進めているとはいえ、千葉市内だけでも事業者がモザイク的になりつつあることは望ましいのでしょうか?「本業」の鉄道事業も、連続立体化事業を船橋付近と押上線で抱えている状況下では大きな投資が今後も続くわけです。「サービス向上」をどの軸足として見るのかでいろいろと方向性は分かれてくるのではないでしょうか。

 鉄おたのお子様は幼いから困る。
 ホテルは老朽化のために立て替えるんでしょう。
 あなたがこんなところで偉そうにしても社員にとっては勘違いの議論を押し付けられているだけで苦笑すらできないですね。
 そこが鉄おたの所以たるところですが。(w

Re:ま、あんまり煽るものでも…
 投稿者---エル・アルコン氏(2001/12/25 12:05:32)

 まあ放置プレーもなんですから煽りに乗ってあげましょう(笑)

●「建替え」
 ホテルの建替えはホテルでないといけないという固定観念があったのでは。
 あそこで人々がイメージしているのはローザやウェストといった千葉きっての映画街であって、京成ホテルをイメージしている人がどれだけいたのでしょうか。

●ホテルのコンセプト
 いま流行ってるホテルは、料飲・宴会・婚礼部門を廃して宿泊に特化した東横インに代表されるビジネスホテルと、TDLやUSJといったテーマパークと組んだ大型リゾートホテルくらいでしょう。
 ミラマーレはどちらかというと宴会・婚礼部門に軸足を置いたようでもあり、客室も7フロア全176室のうち3フロア半がツイン系、半フロアがスィートとビジネス重視ではないようです。

 では集客を考えると、幕張、舞浜とまともにバッティングします。婚礼や宴会(企業のレセプションなど)は、いかに設備が良くてもホテルブランドが左右しますが、ミラマーレ(京成)にこれら有名どころと伍すだけのそれがあるでしょうか。
 京成津田沼に帝国ホテル系のザ・クレストホテルというホテルがあります。ここは帝国ホテルブランドで婚礼や宴会部門が好調でしたが、舞浜地区のホテルが敷居を下げてきて競合するようになると設備で劣るクレストはあっという間に凋落しました。これはあくまで「帝国」と「ヒルトン」といった世界レベルの戦いなのです。ちなみに婚礼の料金を見ると、値段的には然程の差がないのも気掛かりです。
 あとせめてTDRのセミオフィシャルの資格くらいはないと厳しいでしょう。

●足付け
 専用駐車場が140台、高架下をいれて250台では滞在時間が長いシネコンのことを考えると少ないです。
 交通網の整備・再編から取り残された感がある千葉中央駅に人を呼ぶのであれば、JR駅からの回遊性を持たせるか、クルマ対応しかないでしょう。前者はJR駅からの集客ですが、いまの高架下や富士見町エリアを考えると京成単独ではどうしようもない話です。だったら後者ですが、そごう目当てのクルマがあふれる現在、焼け石に水のような規模です。
 一番現実的な対応は、JR駅とのシャトルバスか、今はなき「チーバス」を再編・復活させるかです。

●バス事業の分社化
 完全連結になった現在、各社で独自の労務施策を取れる以上のメリットがないです。おまけに間接部門を各社で抱えることになる無駄はどうでしょうか。

◆大切な方向性
 社史でも隠すことなく触れている通り、昭和40年代後半の施策はまさに京成にとって「失われた10年」を地でいく結果をもたらしました。まあコトデンが瓦町のデパート1棟でトンだようなことにはならないと思いますが、遅れてきたバブルの感すらあるミラマーレの仔細を見ると、列島開発ブームに後発で参入して致命傷になりかけた歴史を思い出さないわけにはいきません。当時の塩漬けになった不良資産の相当が、ロケーションを見誤ったがごとき地方の土地であり、「その土地で何が出来る・何をする」という検討という意味では、今回の計画に同じ類の懸念を感じるのです。

 「社員にとっては」が社員の心情を忖度したものであれば、それが的外れであることを祈りたいですし、本当に社員の心情であるのなら、本当に「勘違いの議論」かどうか、見直すことをお勧めします。
 お子様でもそれくらいの考えはするのですから...

Re:ま、あんまり煽るものでも…
 投稿者---とも氏(2001/12/25 23:28:24)

 ともです。あまりそういったプレイに興味はないんですが(爆)

●ホテルのコンセプト
 それはその通りなんですが、千葉市内は県庁所在地でありながらそれなりのレベルをもったシティホテルがありません。
 そういう意味では悪くはないと思います。
 ただ、確かに宴会系で儲けるにしてもイメージの部分が強いこの手のホテルで京成系というのは弱いですね。どこか海外ブランドとの提携を模索するのもよいかなと思いますが。
 うまくやればアーバンリゾートでの売り出しも夢ではないかな。でもTDRのセミオフィシャルはぜひともほしいですね。

●足付け
 駐車場はちょっといただけません。
 とはいえ、逆手にとって「そごう」などとの共通駐車制度などの策をとるチャンスですね。ここは千葉市に期待するのが筋なんでしょうが。

●バス事業の分社化
 分社化してもいいんですが、あくまで運行ブランドは1つにしておくという方法があります。
 たとえば、「京成千葉バス」というブランドにでもして、運行は様々な会社としておけば乗客は一貫したサービスを受けているという印象をもてます。
 それが結果的にバスサービスの向上につながりますし、共通乗車券制度や1日券などをうまく使えばさらに乗客増加を期待できます。

 なんかまとまりませんが。ではでは

年末年始の京成は大丈夫でした。
 投稿者---551planning(2002/01/14 07:52:34)

 思わぬロングスレッドとなりましたが、「本題」につきましては解答が出ましたのでご報告しておきましょうか。

 今年の京成は、空港輸送も大事だが、例年以上に成田山輸送にも力を入れるべきではないかと感じます。

  京成 南海 出典
2002 996(+3.8) 1,117(-5.3) http://www.mintetsu.or.jp/news/news/020107/data.html
2001 960(+2.0) 1,180(+0.9) http://www.mintetsu.or.jp/news/news/010105_g.html
2000 941 1,170 日本民営鉄道協会発表 年末・年始(12/31〜1/3)定期外輸送概況(速報)(単位:千人・%)

 京成の増加理由としては、2001年は前年のy2k対応の反動による海外旅行の増、2002年については米国同時多発テロの影響により海外旅行客は減少したものの、沿線の人出が順調であったためとしています。
 ちなみに関空を持つ南海も載せましたが、2001年は同じv2k反動増、2002年は1/2に強風で空港線が長時間ストップしたこともありましたが、「大口」の住吉大社参詣客の減が響いたようです。

 なお、JR-E発表資料は下記の通りです。

成田駅降車人員( 1/ 1 〜1/3) 680(+0.6)
N'EX等利用状況(12/28〜1/6)  117(-13.0)
http://www.jreast.co.jp/press/20020101/main.html

 民鉄協発表では4日間だけなので、特に今年のように4日から6日まで帰国ラッシュが分散化されたときには渡航利用が十分に捉えきれないということもあります。N'EXの利用状況を見ると1割以上の減ですから、パッスル様が懸念されたとおり成田空港輸送はかなり厳しかったと見て良いでしょう。
 それだけに参詣輸送が結構良かった、ということが云えそうです。ただし全国の正月3ヶ日の初詣の人出は8,491万人(−4.3%)と過去5年間で最低、成田山新勝寺だけでも前年から5万人減の284万人ということでしたから、輸送状況の見極めは難しいところですねぇ。「電車で行った」という人が増えたということであれば、それはまた嬉しい話ではあるんでしょうが

京成グループのグランドデザインを考える  投稿者---551planning(2002/01/06 17:28:56)

 個人的にはもっと早く纏めようと思っていたんですが、ついつい先延ばしになってしまいました。その中で興味深い議論も続いていましたから、すべてを纏めるかたちでいったん総浚いしてみようと思います。

●「グランドデザイン」論の真意
 当方は『今の京成にとってはむしろグランドデザインこそしっかると作るべきではないか』と書きましたが、これはCTCで繰り返し言ってきていることであるのは皆様既にお分かりと思います。この議論はほぼ1年前にも行われており、当方はそこで大塚社長の年頭挨拶を紹介しているのですが、そこでも触れられている通り当然ながら京成本社がこうした長期計画を考えていないわけが無く、「フューチャー100」という名で2009年の創立100周年を完了年次とした計画が進行中であります。ただし、環境変化が激変している状況下において、描いた未来図は大幅に変更を余儀なくされていることが読み取れます。

二一世紀、京成は何で生き残るのか? log119.html

 「フューチャー100」の描く未来図におけるキーワードとして当方は下記のものを読み取れるとして挙げています。

スカイライナー

 この中で最たる項目は何と云っても成田空港輸送でしょう。新高速建設が本決定となった現在、これに鋭意参画し、既存輸送力の見直しに向けた施策を進める必要がありましょう。それは当然鉄道事業だけでなく、乗合事業や最近ホットなタクシー事業も含めてのことです。
 新高速完成の暁には、既存路線(本線高砂以東)に余裕が生じることになります。それをどのように活かしてゆくのか、詳しくは後ほど言及しますが、千葉中央再開発がひとつの鍵と考えるのは当方だけでしょうか。
 公津の杜の分譲地開発もコンスタントに進めざるを得ないわけですが、いまだ特急停車等の施策がとられていない中で、メリットをどこに求めてゆけばいいのでしょうか。これは他社開発のユーカリが丘しかり、沿線大規模宅地開発を「成田輸送」の名の下に犠牲にしている「結果」そのものではないかと思います。事実、現在は都心部遊休地のマンション開発に積極的になっていますよね。
 高架下コンテナルームやスーパー銭湯進出など、新規事業開発も目立ってきていますが、業種として5年10年先を考えた施策かはどうかは今後徐々に解答が見えてくるものと思います。この中で押上再開発をどのように取り組んでゆくのかが個人的には注目するポイントです。

 このように「グランドデザイン」というべき一本筋の通った企画・施策が長期計画から見えてこない以上、京成グループという企業集団が今後どのような社会貢献をしてゆくかが分からないのは悲しいことではないでしょうか。もっともこれは京成のみならず、これまでの経営モデルが崩壊して明日知れなくなっている鉄道会社全体、引いて云えば目先の改革に踊らされているこの国全体が抱えている病理的現象なのかもしれません。「青臭い」といわれようとも、50年、100年先の未来を描く気概を持たなければ街を描くべき開発企業の看板は下ろすべきではないかと考えます。

●経営環境を考える
 短期的なものを考えると何もできなくなってしまうことは必定、ここでは50年・100年先を考えるわけですから、ちょっとは大風呂敷でもいいとお考え頂ければ幸いです。
 京成グループのバックボーンはまさしく千葉県を中心とした関東平野東部。成田空港は無論、幕張新都心や筑波研究学園都市も範疇に含まれると考えるべきでしょう。房総半島も観光「原石」を抱えた重要戦略地域です。
 しかしなんといっても核となるのは成田空港の存在でしょう。ただし、ここで判断を誤ると社勢に直撃する諸刃の剣であるものと認識すべきです。成田空港がこの20年で築いてきたのは、日本の玄関口たる旺盛な需要を背景としたアジアのハブ空港としての役割、まさしくその利点がアジア各国で進められている巨大ハブ空港計画に取って代わられようとしています。日本の空港政策を憂いても始まらず、羽田・首都圏第3空港論を注視する必要は今後も続いてゆくでしょうが、成田空港そのものの存在意義は今後も当面はさほど変わらないものと考えます。とはいえ、それが未来永劫続くものとは到底考えられません。小手先の輸送に踊らされてはいけないと云うことはこのことにあります。
 実のところ、成田空港輸送に占める鉄道の割合はさほど高くありません、しかもそれをJRと分け合っている状況にあります。「スカイライナー」は屋台骨とはなっていないのです。その輸送が専門となる新高速鉄道の危うさはそこにあります。今こそ、「空港抜きの経営環境」を考えるべきときにある、特に新高速においては、空港に繋がることがチャンスなのではなく、そのことが何を生むのかを真剣に考えなければならないときではないか思っています。

 幸か不幸か、沿線地域にはいまだ有効な開発途上地域を抱えています。率直に云って、近未来必ずやって来るとされる東海地震・首都圏直下型地震等の災害後、一過的な需要増が見込まれます。そのときにそれら新住民を受け入れる総合的な環境レベルの高さこそ定着の鍵となりましょう。裏を返せば通常から環境レベルが高ければそれがウリになるというわけです…当然そのような自体が来ないことを切望しますし、そんないい加減な論で進めるべき話ではない、ということは承知の上ですが、首都圏においてはまだまだ宅地開発環境が残っているというのは今後の重要な戦略になりうるということを再認識すべきです。すなわち、私鉄が得意としてきた経営モデルがまだ準用できる余地を抱えているということなのですから。
 さらに論を進めれば、職住接近型開発がメインで進められる、というのもポイントではないでしょうか。今後都市公団なき千葉NT・市原NTの開発動向が気に掛かるところですが、こと千葉NTに関しては東京と成田を結ぶ大規模開発地としての可能性が指摘されます。京成にとって、これまで手が出せなかった地域において、職住接近型開発における域内交通や住環境整備にこれまで培ってきたノウハウを活かすことができます。主導でなくとも、積極的に開発に参画することで地域の信頼に応える責務があるといえましょう。それこそブランド力の強化につながるのです。

 さらには千葉都心部の再開発の可能性をも再考すべきでしょう。現在千葉中央駅ビルの建設が進められていますが、千葉中心部のニーズに応えるものになるかを検証する余地はいまだあるものと考えます。当方はホテル事業の継続のそのものを当方は否定したつもりはありません。しかし千葉都心部の求心性が低下しつつある現在(非都銀(信託系等)銀行支店の縮小撤退状況が顕著)、幕張に対抗しようというコンセプトは疑問であり、といってビジネスホテルという策も安易である中で、中途半端なものが生まれないかという懸念があります。JR千葉駅前が商業中心となっている以上、どのように中央駅付近まで流れを引き込むかが主要テーマであるはず、当地でシネコンの走りたる事業を何十年も培ってきたノウハウをどのように活かすか、川崎のチネチッタや池袋のサンシャインシティなどの開発事例が近似といえそうですが、一歩踏み込んだ文化創造プロジェクトがあってもいいはずでは?

 文化という意味では上野という奥深い地域があります。佐倉にも国立民俗歴史博物館があります。沿線は貝塚文化からの長い歴史を持っています。大袈裟な、という声もありましょうが、こうした視点をもっと広げてゆくことができないでしょうか。直接「儲け」にならなくとも、ブランド力向上に必ず資するものではないかと考えます。

 ざっと見てきただけでも、沿線の潜在能力はいまだ残されているということができましょう。言い換えれば、これまであまり発言力を持ってこなかったが故の結果ともいえますが、鉄道各社が「沿線回帰」を進めている現在、この流れは当然でもあるのです。ただし、京成にはその可能性が豊富にあることを認識すべきでしょう

(京成)昭和50年代の暗黒の10年
 投稿者---矢切氏(2002/01/09 01:13:58)

─Re:昭和50年代の暗黒の10年
 └Re:昭和50年代の暗黒の10年
  └皆さん手厳しいなァ・・・
  └Re:昭和50年代の暗黒の10年
   └あまり詳しくは知らないのですが。空港関連で。
    └Re:あまり詳しくは知らないのですが。空港関連で。(横レス)

(以下次ページ)
「京成電鉄85年の歩み」より
 └Re:「京成電鉄85年の歩み」より (自分の投稿の間違い発見)
  └自分の投稿訂正
   └時宜を得たものであったか
    └よこみち話
     └よこみち話につけたし
      └利用者に対するアドバンテージ
       └Re:利用者に対するアドバンテージ

昭和50年代の暗黒の10年(エル・アルコンさん)

 これって、具体的には何があったのですか?矢切が耳にしたのは

 矢切が実体験したのは

 これくらいですが、他に何があったのか教えていただければと思います。
 昭和47年生まれなんでこの時代の事がよくわかりません。

Re:昭和50年代の暗黒の10年
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/01/09 01:53:56) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

  ピクの京成特集巻頭の「総説:京成電鉄」で本社広報課が自ら「昭和49(1974)年以来、平成元(1989)年までの15年間は、当社の長い歴史のなかで経営危機に直面した時期であった」と述べています。

 経営面では昭和48年度(49年3月期)に経常赤字転落。昭和52年度には無配転落。累損は昭和58年度下半期に281億円に達しました。これは昭和63年度(平成元年3月期)に単年度経常黒字を計上し、平成元年度上半期に累損解消、同下半期に復配してようやく立ち直ったのです。この時期、昭和55年3月には民鉄協から脱退、私鉄総連の団交からも脱退しており、平成2年4月に民鉄協に再加盟するまで事実上「大手私鉄」でなかったのです。

 この時期、昭和47年7月に国鉄総武線が東京地下駅開業、錦糸町−津田沼の複々線を開業させたのに対し、京成は成田輸送への備えとは言え、昭和48年6月から半年間上野駅改造のため日暮里−上野間を運休。そして同年12月に急行のセンター競馬場前以東各停をデフォルトとする種別統合の改正を実施するなど客離れの基礎が固まりました。独自の要因としては空港線が昭和47年11月に完成、AE車も同年3月に竣工しましたが、空港開港はなんと昭和53年5月であり、その間6年の間資産が眠ったことも大きかったのです。

※AE車はたまりかねて昭和48年12月30日に成田臨特急でデビュー。同年に限ればわずか2日の運転で昭和48年のブルーリボン賞を受賞した。

 経営が苦しくなり保有資産の売却も進み、昭和52年から60年にかけて3次にわたる経営再建計画のなかで、昭和57年12月に谷津遊園閉鎖・売却、昭和61年には津田沼工場が売却されました。

***
 本社では「15年」としていますが、私は敢えてその復興へのターニングポイントを昭和60年10月の「通勤特急」デビューの改正におき、そこまでの10年(ちょうど昭和50年代)と言う意味で「暗黒の10年」としたのです。
 実際、この前年の昭和59年が輸送のボトムでもあり、この区切りはけっして間違いで無いと思います。

Re:昭和50年代の暗黒の10年
 投稿者---矢切氏(2002/01/09 11:39:15)

 ご解答ありがとうございました。昭和40年代には地方の土地にも手を出してオイルショック以降大損したということもあったのでしたっけ。

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 暗黒の10年(含昭和40年代後半=総武快速線開通前後)に取られたダイヤ変更は、考え方としては正しい面もありましたが、実現方法が誤りだったと思います。急行の船橋競馬場以東各停化は、船橋での逸走が予想されるため船橋以東で集めた客を船橋以西でごっそり都心へ運ぼうという正攻法だったといえます。
 問題は船橋以西の急行が遅すぎたことで、これが現特急並であれば今でも多くの人が都心までの足として京成を使っていたはずだし京成が遅いという固定観念も形成されずにすんだかもしれません。きちんと所要時間などのスタディーをしていれば現急行停車駅でダメなことは自明だったはずで、当時のダイヤ編成者は会社の損失の責任を取らされるべきと思います。
 昭和50年代に40分に7〜8本停車だった国府台・小岩などを10分に1本の普通のみにする決断は勇気がいりますが・・・いえ当時の輸送量なら20分に特急2普通3というダイヤも正当化されるだけの近距離需要があったはず(ダイヤ分析的には20分に特急2普通3というのはライナーの存在まで考えると普通2に比べコストが増える割にはあまり便利でないので現状まで輸送量が落ちた段階で20分に普通3へ戻すのはNG、ライナーが無ければ組める=昭和47年なら組めた!)。いや、20分に特急2・急行1・普通2だってできたのではないかと。

 千葉快速については千葉線部分で優等運転しても本線区間で鈍足化するという代物で総武快速完成による千葉線需要低下も考えれば廃止は妥当と思われるかも知れませんが、仮に本線で20分に特急2急行1普通2という積極ダイヤで行くのであれば残すべきだったかもしれません。また、青砥上野間での優等減少を招いたのは大きかったと思います。今更同区間で優等10分毎に戻しても客は戻らないでしょうが、昭和40年代からずっと同区間で特急相当10分毎運行をしていれば(その実現方法は千葉快速でなくても良い)今でも京葉地区の多くの人が上野・日暮里をめざしていた可能性があります。

 通勤特急も昭和47年に設置できていればと悔やまれます。

皆さん手厳しいなァ・・・
 投稿者---樫通氏(2002/01/09 13:32:46)

★派(?)の樫通です。特にこだわってるわけではないのですが、おそらく「ホシ印」という言葉の影響と思われます。「星」という文字の使用頻度が少ない、ということもあるかもしれません!?

★手厳しいコメントが続いてますが、昭和50年当時の津田沼以東の特急通過駅の状況を思い起こすに、問題があるとすれば急行よりも特急西馬込行きの船橋以西の所要時間ではないかと考えます。というのも、昭和50年当時、八千代台・勝田台だけが突出した利用客を抱え、佐倉市といえば志津を最寄りとする角栄団地・佐倉を最寄りとする千成団地程度しか大きな団地が無かったと思います。臼井は旧駅でしたし現駅前に広がる王子台団地などはほとんど造成中、ユーカリが丘に至っては駅のカゲカタチも無く、周囲はうっそうとした森の中で、結構未舗装道路も多かったと記憶しております。昭和50年代の逸走を象徴する朝の上り東中山行きも、当初は八千代台始発の特急でした。今やほとんどが臼井以遠始発となった朝の上り普通もほとんどが大和田始発で十分需要に見合っていたと思われます。船橋朝6時50分に通る急行ですら4両編成でしたし・・・。もっとも最後は単に車両を買う金が無かっただけかもしれませんが。

★とはいえ高砂〜青砥が複線かつ青砥で平面交差という時代ですから、ダイヤ制約の大きさから特急ですらわざわざ筋を寝かせていたものと考えます。

★通勤特急が昭和60年に誕生が可能となった背景には、上記の高砂〜青砥複々線化工事の進展が大きく影響していると考えます。通勤特急運転開始直前のダイヤでの特急西馬込行きと急行上野行きとの関係は、佐倉で抜かして青砥で接続というものでした。ただし遅延時での青砥接続は、何のためらいも無く(?)急行が発車するというものでした。主に最後の2年間の記憶になりますが、2割くらい非接続だったような気がしております。かようなことから3社相直の関係からあまり特急のスピードを欲張って実現不可能なダイヤとするわけにはいかなかったものとかと思います。

★暗黒の10年の原因はむしろ矢切さんが冒頭で触れられた件が主因ではと思います。加えて、なのか、この事に起因して、なのか、ともかく伝聞なので事実ご存知でしたらご教示頂きたいのですが、昭和50年頃に大手私鉄の中で唯一京成のみが1週間程度の連続ストを敢行し、国鉄への逸走を決定付けたという話を聞いた記憶もあります。余談ながら、京成沿線(少なくとも昭和46年までは最寄り駅の一つは京成駅であった)の某校が、沿線でありながら京成のスト・運休では授業中止にならないのは、国鉄や地下鉄が動いていたにもかかわらず京成がこのストを続けたことに懲りたため、校則を改正して京成を条件からはずしたと聞かされました。

★妙に京成弁護が続いてしまってるのですが、さらに付け加えるに、国鉄側は高架複々線化に伴って駅周辺の貨物引き込み線等撤廃による駅前広場整備等の再開発が可能であったことも大きいと思います。暗黒の10年だったことは確かでしょう(昭和60年頃の冷房化率はダントツに低かった記憶もあります)けど、その分当時光り輝いていた西武や東急と比べれば、バブル期と現在との落差は比較的小さいとも言えるかと思います。ただしもう落ちるところが無いだけかもしれませんが!?

Re:昭和50年代の暗黒の10年
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/01/09 13:55:30) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

●京成の土地政策
 これもピクの特集号に出てますが、関鉄や常磐急行バス、果ては南部縦貫への出資など、京成の志向は東北・北海道方面でした。土地にしても、東北や北海道での宅地、住宅開発を手がけており、まあ列島改造ブームのなか、そちら方面しか参入の余地が無かったとはいえ苦しい展開でした。
 しかも改造ブームの末期ともあって、かなりスカをつかまされたとも聞いています。

#栃木県野木のローズタウンもその性向の残照です。

 無論これが命取りになったのはいうまでも無く、本業が傾いた瞬間に加速度的に転落したのです。

●ダイヤ編成
 昭和48年の改正ですが、基本的に新しい特急は通勤特急、特急の、急行は急行(逆さ台形)、急行(丸に急1文字)、通勤急行のそれぞれ停まっていた駅全てに停車する形にしています。つまり、特急系、急行系とも改正によって「停まらなくなった」という批判が出ない配慮ともいえるのですが、おかげで呆れかえるほど停車駅が増えたのも事実です。

 それでも特急はまだマシで、
上野・日暮里・青砥・高砂・(小岩)・八幡・東中山・船橋・<谷津遊園>・津田沼・八千代台・(勝田台)・佐倉・成田ですが
(< >は旧特急のみ、( )は旧通勤特急のみ停車)、
急行は、
上野・日暮里・町屋・(千住大橋)・堀切菖蒲園・青砥・高砂・(小岩)・(国府台)・市川真間・八幡・東中山・船橋・{センター競馬場前}・{谷津遊園}・津田沼・<大久保>・<実籾>・八千代台・<大和田>・<勝田台>・<志津>・<臼井>・佐倉・大佐倉・酒々井・宗吾参道・成田ですから。
(( )は旧通勤急行のみ、< >は旧通勤急行と急行(丸)のみ、{ }は旧急行(逆さ台形と丸)のみ停車。なお旧急行(丸)は都営線〜佐倉までの運行))

 船橋以東で集客して都心へ、というのなら急行(丸)の停車駅でよかったはずですし、国府台や小岩もこのとき始めて日中に優等列車が止まるようになったのですから。

 千葉線のダイヤは不詳ですが、津田沼で緩急接続をしていたかが鍵ですね。津田沼に各駅で到着した千葉行き快速が急行や特急を受けて発車していたのならベストのダイヤですが。
 ただ、これは通勤特急の問題とも絡むのですが、当時の「住宅街」はやはり津田沼あたりまで、その先は八千代台団地が目立つくらいというのが実情なので、津田沼以遠で優等運転するより、高砂−津田沼間の総武線並行区間の乗降の多い駅の利便性を高めようとするあまり、遠方への優等は手薄になり、手前では停めすぎちゃったのかもしれません。

あまり詳しくは知らないのですが。空港関連で。
 投稿者---とも氏(2002/01/09 22:26:42)

 京成は、昭和40年代後半から50年代にかけてかなり積極的な土地投機を確かに行い、それがもとで・・・というつい最近破綻した鉄道会社と似たような経緯をたどっています。
 とはいえ、そのときの積極策が成田空港といういまの屋台柱ともいえる事業を可能にしたともいえます。
 そもそも成田新幹線計画があったため、京成は空港乗り入れを認められなかったのですが、そこを交渉して従業員輸送のためにという名目で成田空港の国道下(ここは空港敷地の外という扱いです)に乗り入れたのです。この策は極めて積極的で評価できるものですね。
 しかし、京成のこの積極策が裏目に出てしまいます。成田空港の反対闘争によって、昭和47年の開港が53年にまで遅れ、結局AE車は無駄な投資になります。
 そこで京成AE車をちょうどオイルショックの関係で輸送力不足に陥っていた近鉄に貸し出し、当面運用する(よってリース料を稼ぐ)という話が持ち上がったものの、AE車の独自技術がライバル企業に洩れることを恐れた某メーカーの反対で却下。結果的にAE車は宝の持ち腐れ状態になり、結果的に成田臨特急での営業というなんとも切ないスタートを切ったのです。

 その後成田空港が開港するものの、厳しい警備のおかげで海外渡航者しか利用しない空港となり、京成はかなり限定された客層のみを相手に商売をすることになります。スカイライナーにとってはリムジンバスの脇役のさびしい冬の時代です。

スカイライナー  そして昭和63年、京成に一筋の光ともいえる大プロジェクトがスタートします。それが成田空港乗り入れで、石原運輸大臣(当時)のツルの一声で整備が決定し、平成3年、ついに空港直下に乗り入れます。
 しかし、またまたとんでもないライバルが・・・昭和50年代に京成に総武線快速でダメージを与えた国鉄−JRが「成田エクスプレス」という飛び道具を出してきたのです。
 登場して20年のスカイライナーはこの新鋭とのガチンコ勝負に挑まなくてはならないのです。
 結局は、JRのCM戦略と高級感に圧倒され、AE100を投入して挽回を狙うものの・・・シェアは拮抗していますがそれでもなんともかんとも・・・という状況になったのです。

 そして21世紀。京成に春を通り越して初夏のような出来事が。
 またまた石原都知事と扇大臣、そして千葉県堂本知事の働きで成田新高速の建設が決定。ルートは因縁の新幹線ルートに近いもの。しかも運営は京成と相成ったのです。事業には超法規的に国費投入が決まり、京成の負担を少なくしたまま京成は大きなビジネスチャンスを得たのです。
 それにあわせ、通勤区間も事業が進みます。押上線の連続立体交差は一気に進み、よりスピードアップも可能になります。
さらに、押上への半蔵門線の乗り入れによって押上自体の交通結節機能強化が図れることで、日暮里経由とあわせて渋谷や池袋へのアクセスが改善され、副都心アクセスに難がある総武線と真っ向勝負を挑める状況になります。

 京成はある意味で時代に翻弄された会社なんですね。とはいえ、空港関連という最初お荷物だったものを大事に大事に育て上げ、ついには柱になりました。

 長年の懸案であった市川外環の着工によって菅野付近の立体化も可能になり、また、浅草線強化策と東京都の都心シフト策によって利用者増も期待できます。
 これからの京成に期待したいところです。
 まずは千葉線ですかね。

 ではでは

Re:あまり詳しくは知らないのですが。空港関連で。(横レス)
 投稿者---エル・アルコン氏(2002/01/09 22:48:56) http://6408.teacup.com/narashinohara/bbs

 近鉄へのリース話は確かに耳にしたことがありましたが、本当なんですか。迂闊にも知りませんでした。

 まあ切ないデビューですね。
 ただ、「その年(暦年)に営業運転を開始した最も人気のあった車両」というかんじんかなめの定義に引っ掛かり、「営業すればブルーリボン」と囁かれていたところに、オーラスの12月30日の運行開始、僅か2日でブルーリボンをとったという記録的な逸話は薄幸ともいえるAE車の勲章でしょう。

#「2日で受賞」の快挙については当時新聞で読んだ記憶がある。

 もし47年中に運転開始していたら、48年の受賞車は今ごろ幻の候補車だったのです。それが47年7月15日に房総特急で運転開始した国鉄の183系特急であるという因縁話までつきまとうのです...

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2006.01.23 Update

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