【検証:】過去ログSpecial

【検証:近未来交通地図】Special013-2
鉄道におけるユニバーサルサービスの崩壊と再生(2)
(2002/10/27〜)

 本投稿は、【検証:】掲示板でもお馴染みの、さいたま市民@西浦和様より当BBSに御投稿頂きました文章を 中心に、読みやすく構成させて頂いたものです(なお一部文面を編集しております)。
 なお、【検証:】では掲示板投稿に限らず広く皆様からの御意見・レポート等を御紹介致します。自分ではホームページを持っていないけれど、意見が結構纏まっている…という貴方、各種ご相談に応じますのでお気軽に管理人までどうぞ!

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▽ 前ページより

 第6講 (2002/11/24 23:53:27)

 こんばんわ。みなさん。かまにしさん。
 今夜はサービスの分類についての思いつきです。知ったかぶりをお許しください。

◆ どこまでサービスの種類をシンプルに出来るか?(ハード編)

 郵便では、はがき、封書、小包、第3種などといった分類がありますが、はがき封書は重量に応じた全国均一の料金ですね。小包になりますとこれも重量と距離で数種類の料金区分がありますね。これらは何となくまあ、輸送にかかるコストが比例でかかるのだろうというイメージが湧きます。
 ところが、鉄道の旅客輸送は、距離に応じた一定の賃率の普通運賃を基礎として、サービスのオプションを加えていくという仕組みになっています。
 実はここに最初の混乱があるのです。

 はじめ一般車両で運行されていた高速列車の運行を、一般車両でなく専用車両を用いてサービスするに至り高速輸送料金=優等車両料金と考えなかったところにボタンの掛け違いがありそうです。これは昭和30年代前半の36/10改正ぐらいの頃までのことです。国鉄では3等級の座席グレードと特急急行準急の3段階の高速輸送サービスを行っており、専用客車で運行されていた特急列車にも専用の3等車を連結していたという状況で、混乱というか細分化はこの辺からだったと言えそうです。同時期に企画構想され、実現を見たヨーロッパ大陸のTEE網は全車1等車の編成でスタートしたのです。

 列車の種別のインフレも昭和47年のL特急、昭和57年の新特急の設定でそのピークとなったといえるでしょう。もともと本線筋で日に1往復程度走る「特別」な急行列車であった「特急」列車が1時間間隔で走り回るという、ちっとも「特別」な状況でなくなった(いや、また別な意味で特別になったか)時に、無理だっただろうが「特急」の定義を変えておけば、もう少しスマートな形になったでしょう。
 L特急の設定と前後して、各本線筋の直通列車の列車種別のデフォルトが、普通列車や急行列車から特急列車へ移行したという見方もできます。いわゆる「長距離鈍行」が希少になった時期です。この論で最初から申し上げている「基礎的なユニバーサルサービス」の形態が崩壊を始めた時期とも言えます。こんどは逆にヨーロッパでIC(インターシティー)という等時隔特急列車網が1・2等混成編成で設定されるようになりました。ただ、この時期のヨーロッパは伝統ある直通国際列車もTEEも走り回っており、やはり種別、サービスのインフレが起こっていたかもしれません。

 新幹線が開通して、「並行在来線」という概念が生まれたのですが、最初の東海道線ではまだ、長距離鈍行と「東海」や「比叡」といった区間急行列車が中距離輸送を担当し、夜行では九州行きや中国・近畿へ超長距離急行が次々と発車していたのでしたね。高度成長の時代です。「ブルートレイン」というサービスがまだ特殊だった頃は、優等寝台車や旧型食堂車も連結した急行列車群がメインだったのでしたね。夜行高速バスの無かったころです。ブルートレイン自体もこの急行列車を近代化した形態だということは、当時の20系客車のバリエーションを見ればわかりますね。後の寝台車オンリーのブルートレインとは一線を画していたかもしれません。

 さて、これだけ歴史のうんちくを傾けた後に、「シンプルなサービス」を主張するのは心苦しいのですが、多様化という混乱をなんとか収め、各路線に均等なサービスをしなければならないと思っているので、ご笑覧ください。

 やはり、「長距離鈍行」でもいいのではないか?と思っているのです。前に大垣夜行や18きっぷ利用者用の昼行快速の話をしたことがありますが、ベーシックなサービスとして乗客が都市ごとに入れ替わっていく中長距離鈍行列車を基幹サービスとして、乗客の多い区間で区間列車(低速車でも高速車でも良い)を増発するというような形態で枝線への接続または直通を需要に応じて確実にするというシンプルなダイヤ構成を「並行在来線」では徹底したらどうかと思うのです。このことは私はずっと主張してますね。

東海道区間 鉄道/バスの昼行需給力における在来線活用案を考える ../log054.html

◆ どこまでサービスの種類をシンプルに出来るか?(ソフト=料金編)

 まだ、日本の鉄道運賃体系はイギリスやアメリカほど複雑ではない(ヨーロッパ大陸ほど単純でもない)と思うのですが、現状で見るとこんな感じですかねえ?

  • 普通運賃…数種類の距離に応じた賃率+オプションのサービス料金
           (距離別の急行料金orほぼ均一のオプションサービス料金)
  • 割引運賃…乗車時間帯や区間など一定の条件で利用するとき一定の割引を行う(オプションも条件に応じ割り引く)
  • 包括運賃…特定区間の特定の列車に対する運賃

の3種類というところですか。
 そして、普通運賃の賃率については、Tomさんご指摘の通り、3種類に分類されており、この割合は剰余の出る地域の収入を不足の出る地域へ補充した結果と言えそうです。
 前にも申し上げたとおり、さらに旅客数に応じこの賃率を3段階から5段階程度に更に分けてもいいのではないかと思うのです。そして、乗車経路に従って運賃を計算するわけです。例えばJR-Eなら:

  • 首都圏→23区内と私鉄競合区間・大東京近郊区間(100km圏)の2種
  • 幹線→大東京近郊区間(100km圏)より高い賃率
  • 地方交通線→通過路線=3セク並の賃率と行き止まり線=観光路線並の賃率(乗り切りでも良い)の2種

なんて言うのはどうでしょう?「並行在来線」は沿線の人口密度に応じて高い方の3段階から選ぶという感じで…。で、上限はバス並みの料金に出来れば言うことはないのですが…。ここはむずかしいか?また、沿線住民には定期券や回数券の料金に補助を加えた割り引き運賃で乗ってもらうというのはどうでしょう?
 これを基本的な運賃体系として、包括運賃を主要地点(または地域)間で設定し、他モードの交通機関と対抗する形にするといいのではないか、と思うのです。
 例を挙げてみれば、東京23区内〜八戸間なら幹線賃率の普通運賃+新幹線料金ですね。これを東京23区内〜本八戸(鮫あたりまで)でも同じ値段にするという包括運賃にすればいいのでしょう。乗車駅から東京や上野までと八戸から鮫間はサービスです。時刻表を調べますと「八戸東京フリーきっぷ」という商品があるのですが、八戸側のみの販売なのですね。青森の人たちへの勧誘の料金だと思いますが、東京側でも売らないと不公平でしょう。前に、「つばさ回数券」の不備が指摘されたことがありましたね。開通当初は、一般客は定価販売で団体客は割引だったりしたのでしょうが、それでも「つばさ」はいい距離であるのも幸いしてお客がつきましたから、回数券の不備が話題になったと思われますが、指摘が無ければそのままだったのでしょうか?

 今夜はこのへんで。
 次回は交通圏の話と異種モード交通機関のことなどを。

 乱筆ご容赦。おやすみなさい。

 第7講 (2002/12/01 01:12:19)

 みなさん。かまにしさん。こんばんわ。
 今夜は交通圏の話をしてみましょう。ずっと書いてきたユニバーサルサービス構想についての妄想です。

◆ レベル1 流域レベルでの交通圏

 人やものの動きを規定するものとは何でしょう?もちろん人口密度や交通路ですが、これに影響を与えるものの一つとして、まず地形があります。
 人々の生活するベースは、やはり、住み良い平坦な場所でしょう。山がちであるとはいえ、日本にはまとまった平野もあります。山間部や臨海部でも人々は谷底や海岸の細長い平地の条件の良いところにまとまって住んでいると言っていいでしょう。

例1 長野県の場合

 長野県は日本の中央の内陸県ですが、まとまった平坦地がいくつかあります。
 善光寺平、佐久平、安曇野、諏訪盆地、伊那谷といった所でしょうか。この5つの平坦地はそれぞれ、谷や盆地を形成している河川群を一つのまとまりとして流域を形成しています。
 人の流れも、古くはこの谷や盆地の中心へ集まる形だったはずです。そして、全国レベルの街道が峠を越えて結んでいたわけです。古代の東山道は木曽谷から伊那谷、諏訪盆地から佐久平へ通っていたそうです。これは結構無理があったようにも思えますが、当時の人口密度から見れば、平城京平安京から東国の遠国へ向かうのに最短距離を考えれば、直線に近いコースを取ったということでしょうか。近世の五街道のうち、中山道はやはり佐久平から諏訪盆地を通って木曽谷へ向かったわけです。甲州街道は釜無川源流の高原を越え、諏訪盆地で中山道に合流したのですね。軽井沢の高原で中山道から分かれた北国街道は千曲川沿いに善光寺、直江津へ向かい日本海の海運との連携を取った訳です。

 明治に入り、この街道をトレースした鉄道路線が建設されるのですが、まず、太平洋と日本海の横断コースとなる北国街道ぞいに信越線が出来たのですね。信越線のコースは小諸から豊野までは千曲川に沿うものですが、高崎〜小諸間と豊野〜直江津間は山越えになるコースです。この時の輸送路は佐久や小海など千曲川上流部から小諸までは、千曲川の水運があったでしょうし、豊野から新潟まではこれも千曲川水運があったはずです。この時代までの水運路には他にも犀川も天竜川も木曽川もあったでしょうから、鉄道黎明期には水陸の連携や競争が普通だったと言えるでしょう。
 長野県は峠を越える交通がもちろん盛んだったのですが、やはり、封建時代には交通は規制、遮断されていたでしょうし、明治以後でも、人の引く荷車や馬車のレベルの輸送量では現代と比べて、その単位は小さいものでした。ところが、碓氷峠や妙高高原を越える路線や冠着や奈良井のトンネル、天竜峡を分け入る鉄道路線が開通し、水運に比較して輸送単位や輸送量が拡大して、全国ネットを形成すると、県内各地で鉄道の利便が全国を市場とする産業の振興に寄与することが証明され、水運や街道は鉄道にとって変わったと言えるのです。これが明治から大正、昭和戦前まで続くのです。

 明治時代は国策により官設鉄道として建設された信越本線と中央本線のみであった県内の鉄道も、その枝線がやはり、犀川千曲川、天竜川木曽川の支川に沿って地域の資本などを糾合して建設されることとなったわけです。千曲川沿川では善光寺の対岸の町々を結ぶ河東鉄道と信濃川下流へ下る飯山鉄道が、佐久平では千曲川上流へ遡る佐久鉄道が、上田からはいくつかの小私鉄が菅平方向真田傍陽へ、千曲川を渡って別所丸子へ、松本からは大町へ信濃鉄道が、伊那谷では天竜川を下る電鉄会社がそれぞれ伸びていったのでした。このような小鉄道は分水嶺を越えることは資本や経営の見通し上出来ず、境を連ねる十州へは官設鉄道のお世話になるという状態が一九六〇年代まで続くのです。
 このような、川から陸へという輸送路の変遷は、次に鉄道から道路輸送へと変わるわけですが、ネットワークとなった鉄道同士の貨客の連帯運輸や、直通運転など、対県外で見たとき、県内の各路線は一体的に運行されていたとも言えるわけです。戦争中には更にネットワークの強化を図るため、国有化された路線もあったのですね。

 この頃の県内の人の動きは、県庁のある長野市を筆頭として、松本、上田、諏訪、飯田といった中心地も人を集める場所となっていたはずです。自家用車の普及する前、人々はバスや列車電車で向かった地域の中心地でだいたいの用事は足りたのです。山に住む人々はバスなどで山を下りれば、買い物や用事の済ませることの出来る町があったわけです。

 さて、このような交通圏を変容させる出来事が二〇世紀の後半進んでいくのですね。自家用車の普及と高速道路の整備です。
 ただ、地形の制約もあり、自家用車が普及しただけでは、長野の場合、バスから自家用車へ乗り物が変わっただけで、地域の中心地が人を集める力は弱まったとは言えなかったのですが、それぞれの中心地が高速道路で結ばれるに至り、人々の交通の動きが変わってくる事となったわけです。
 高速道路は山を貫き、谷を渡りまっすぐ伸びているわけで、数十年前の簡易な施設であった鉄道各路線に対し全く比較にならない交通路となってしまったのです。自家用車を用いた山の人々の行動も、高速道路に接続することで、行動範囲を広域化する事となるわけです。三〇年前までは考えもしなかった、佐久平からは東京へ、伊那谷からは名古屋へというような買い物やレジャーの行動パターンが普通となって、地域の中心地はその商業的な意味をなくしつつあると言っても過言ではないかもしれません。また、中心地の後背地域の人口に対して、過剰とも言える商業施設がインターチェンジに面して建設され、地域中心地同士の集客競争も起こるなど、のどかな時代の「山と町」といった人々の行き来では納まらない人々の動きが現在も続いていると言えます。各中心地のみの雇用力では地域の若者を吸収できず、それまでもあった人口の流出は今も起こっていることでしょう。でも、大都市からはすぐ帰ってこれるという気安さのレベルは昔より高まっているかもしれません。

 そのような長野県でやはり、流域を単位とした交通圏をどのように作るかというわけですが、もう一度、県内の主要中心地を核とした、分散型の都市計画を書くしかないと思うのです。
 各中心地はそれぞれ高速道路で結ばれているのですから、この中心地の中心性を高め、そのレベルを同一にする工夫をするしかないと思うのです。
 例えば、郊外型のスーパーセンターを空洞化した中心部で再現する(長野市なんか空きデパートが2棟もある!)とか、交通結節点としての駅の高機能化を進める(飯田線の各主要駅をバスターミナルとして整備する)とか、そろそろ「元に戻す」ための逆転の発想があっても良さそうな気がするのです。なんでも車に頼る前提ではなく、もともと人が集まって住んでいる所を大切にするという当たり前の都市計画を計画通り進めるだけでいいのではないかとも思えるのです。
 どうも、この数十年地方においても、大都市のような「副都心」や「新都心」といった新しい中心地を形成することで、都市の広がりを持たせようとする都市計画のデザインが流行ったように思えますが、もともと後背地の人口の少ない地方都市でどうして新都心が必要となったのでしょう?旧市街の商業などの集積を維持できるような都市計画のデザインをした地方都市を私は不勉強なのか知りません。これからの縮小再生産の時代に、郊外型の大スーパーセンターという時代でもないでしょう。いけいけどんどんの時代では無いですよね。

 それでは、長野でどのように人の流れを再プロデュースするか。という妄想です。新幹線や高速道路はあるものとして考えてみましょう。
 基本的な考え方は、流域の川が水を集めるように人やものの流れを作りつつ、既存の中心地と新設の中心地をうまく結ぶ交通網を考えられないかというものです。
 一例として千曲川流域だったらというテーマで考えてみましょう。
 中心地としては、小諸市や佐久市、上田市、長野市、須坂市、中野市、飯山市といったところでしょうか。こういった地点が、鉄道で結ばれていますが、流域から外へ出るためには峠や狭窄部を越えなければなりません。碓氷や野辺山、妙高高原、姥捨、津南などですね。
 これらのどの峠も高速道路が整備されて行くわけです。新幹線は碓氷から佐久、上田に止まって長野の町までですね。新幹線が止まる地点は、新しい中心地となるのでしょうが、古い中心地である小諸などは地形の関係もあって、新幹線も高速道路も通りませんでしたから、観光・文化都市として発展できる余地があります。ただ、新幹線の止まる佐久や軽井沢、上田との間の交通を便利にしないと、東京からの交通流の到達点としての中心地の意味が下がってしまいます。小単位の輸送機関でよいですから、今挙げた3都市との間の交通を確保したいものです。また、千曲川の上流や旧中山道沿いからのバス路線などの交通流も佐久を通り抜けて小諸や上田や長野市へ通じさせたいものです。上田を中心とした交通も上田駅からの放射状の路線網を確立させ、上田交通電車もしなの鉄道へ直通してもいいかと思えるのです。善光寺平では長野市を中心とした、篠ノ井線やしなの鉄道、長野電鉄、飯山線、信越線といった鉄道路線と、これをおぎなう松代、鬼無里、戸隠方向へのバス路線といった放射状の路線網を確立したいです。善光寺側から菅平志賀高原方向千曲川対岸の渓谷をつめるバス路線は、須坂や中野で鉄道へ接続の上、長野市街へ乗り入れてもいいかもしれません。
 もちろん、運賃は前述のJRの例のように、バス〜上田交通や長野電鉄〜しなの鉄道〜JRと賃率が下がってくるのでしょうが、合算して一枚の切符で通して乗れれば便利でしょうね。割り引きがあればなお良いです。バスで山から長野の町まで通して乗ってくれば賃率一定で安くつくのもいいのですが、トータルの所要時間が電車に乗り換えるより長くなるでしょうから、急ぐ人がプラスアルファを払って電車へ乗り継いだ方が早くなるようなダイヤにしなければなりません。新幹線に乗れれば一番高いでしょうが、一番早いはずです。このような樹枝状の路線網で考えれば、公共輸送機関も結構便利に使えるようになるのではないかと思えるのです。枝の付け根を新幹線の駅と考えれば枝を重ねる路線網でいいわけです。現実には公共輸送機関を活用する人の数は少ないのでしょうから、輸送単位は小型バス〜単行気動車〜二両程度の電車といったものでいいのでしょう。また、高速道路との関係では、「新幹線駅」を「バスターミナル」または「インターチェンジ」と読み替えて考えればいいでしょう。

例2 岩手県北の場合

 長野に比べて人口密度が低い岩手だったらどうでしょう。北海道や能登半島、島根県などもこんな方法が有効かも。
 長野同様岩手県北も高速道路と新幹線が整備されました。新幹線の開通は、いよいよ海底トンネルを越えて、北海道南へのアプローチの第一歩となったと言えましょう。
 盛岡は長い間北東北のターミナルとして、東北本線や秋田新幹線の列車や、弘前宮古へのバスの乗換駅として機能してきました。この度の新幹線延長でいくつかの役割が八戸へ移動し、特に対青森県・北海道南のアクセスは八戸に集中する事となり、盛岡の役割は変わってくることになります。盛岡市自体は新幹線の通る大きな地方都市であり、住宅地も郊外へ展開している状況ですね。しかし、岩手県自体の人口密度が大変低く、特に岩手県北では公共交通機関の維持は非常に難しい状態が続くことになります。別スレッドで宮古線や岩泉線の話題が出ておりますが、現在の人口密度では、高規格の国道とローカル鉄道の両方を維持するのは難しいのではないか。そういう風にも思えてくるのです。また、この度第三セクターとなりました東北本線も、北海道への貨物列車や観光寝台列車のためでは?と思える状態です。それでも、地域の人々が維持を選んだのは、もっと遠い先を見ているからと思うことにしましょう。
 さて、この地域では、先輩の第三セクター鉄道として、三陸鉄道があります。また、ローカル私鉄として十和田観光電鉄があります。やろうと思えば、ローカル鉄道の維持が出来ないわけでは無さそうです。これらを組み合わせ、古くからこの地域を地盤にしているJRバスを活用して、公共輸送網をなんとか作れないものか。考えてみたいと思います。

 さて、手元には20万分の1地勢図「盛岡」「八戸」があります。盛岡から八戸へ新幹線が伸び、沼宮内、二戸に中間駅ができました。それぞれの駅から、周辺部へバス路線があります。山間部を抜けて、海岸の久慈まで延びている路線もあります。久慈市は八戸線の終点ですが、八戸からは1時間50分かかります。盛岡からの高速バスもありますが、2時間10分程度かかるようです。新幹線の開業と共に二戸駅からシャトルバスもでき、これは1時間10分で二戸と久慈を結んでいます。
 新幹線と第3セクターの在来線は、馬淵川に沿って、奥中山から尻内へ下っていきます。国道4号線奥州街道に並行している形ですね。これに対して、八戸自動車道は、一旦安比高原で分水嶺を越えた東北道から、荒屋新町で分かれ、安比川に沿って一戸へ向かい、東北本線に直角に交差し、トンネルを抜け、九戸村へ入るのです。そして、軽米、南郷と北上するコースをとって八戸へ至るのです。地域振興の目的でこの路線が選定されたのでしょうけれども、比較的人口が集積している既存の交通路沿いでなく、わざと密度の低い(逆に言えば土地の得やすかった?)農山村を結んだ形になっています。そうなると、この高速道路は東京・仙台・弘前・盛岡対八戸など都市間を直接結ぶ通路としては意味がありそうですが、元々の地域の人たちが1区間でも乗って時間を稼ぐためなど普段使いに利用するには使いづらい路線なのではないかと、想像できます。違ってたら教えてください。しかし、沿線の浄法寺町、一戸町、二戸市(福岡)、軽米町などは高速交通路の拠点として中心性を高めることが出来そうです。実際盛岡〜八戸・九戸・軽米・二戸間にはそれぞれ高速バス路線が1日1〜2往復設定されています。まだ、1日1〜2往復であるというのは、まさにこの地域の鉄道に沿わない町村の人口密度を表しているでしょう。盛岡〜八戸間は2時間20分かかっていますから、1時間40分程度かかる第3セクター電車よりバスは時間がかかりますので勝ち目がありそうです。

 そこで、この地域の公共交通網の一妄想です。
 高速道路のインターにバスターミナルを作り、既存の鉄道駅、新幹線駅のバスターミナルと同様、高速バスにローカルバスやコミュニティーバスを接続させる形態(もうやってるでしょうが)を徹底させ、旧市街との間のシャトル便も充実させるというスタイルでP&Rの形態を多様化できないかと思います。このバスや電車、新幹線のP&Rの拠点は、インターのターミナル、二戸や沼宮内の新幹線駅、各町村の旧市街の役場や病院の駐車場や、第3セクター電車の各駅にすればいいのですね。
 ただ、ダイヤ的にはそれぞれが接続すればいいのですが、まとまった人の動きのある登下校時や通院時に最大の輸送量を提供できればいいのでしょうから、デイタイムや早朝深夜は等間隔の運行でわかりやすい運転系統を作りたいものです。模式例としては:


  • 農山村→旧市街→学校→駅・インター
  • 通院時
    農山村→病院→旧市街→駅・インター
  • デイタイム
    農山村→旧市街→駅・インター→病院→旧市街→農山村
  • 下校時
    学校→旧市街→駅・インター→農山村
  • 夜間
    駅・インター→旧市街→農山村

 このような考え方で、バスを循環させ、コミュニティーバスとローカルバスとスクールバスと福祉タクシーを融合できないものかと思うのです。そんなにお金に余裕があるとは思えない、地方の小自治体や村のバス会社タクシー会社で、うまい商売でよりよいサービスをするためにはいろんな方法を考えるしかないでしょう。

<おまけ> 田野畑村の思いで

 私は今から20年前、三陸鉄道が出来る前、釜石から尻内まで三陸海岸を旅したことがあります。確かに別スレッドの和寒さんの投稿の通り、今とそんなに列車ダイヤは変わっていませんでしたが、それを乗り継いで、龍泉洞や浄土ヶ浜、北山崎を巡ったのです。そこで見た印象深いシーンを。
 田野畑村は、日本でも有数の面積の広い村なのですが、三陸鉄道が出来る前、岩泉〜小本〜田野畑〜普代〜久慈と国鉄バスが走っていたのです。これは、もちろん建設が計画された路線に沿ったものですが、この路線は村の重要な交通路だったのです。北山崎付近の集落など、中学校から遠い子どもたちは中学生になると、村の中心の唯一の中学校の寮で生活しながら登校するのです。私たちの乗った週末の久慈行きのバスではそんな中学生たちが集落ごとに降りていく光景が目に残っています。そして、停留所には郵便を扱っている国鉄バスから小包を受け取りに来た簡易郵便局の人や中学生を迎えに来た家の人がいたりしたのも印象深かったものです。
 このバスは国鉄バスですから、「東北周遊券」で乗れましたし、鉄道と通し運賃で切符が売られていたはずです。確か小本ターミナルには「みどりの窓口」もあったはずです。

 人口密度の低い地域では、公共セクターが力を合わせて、過疎と闘わなければ、経済の論理で人々の居住権が奪われる事になります。これは何度も言ってますね。

 乱筆ご容赦。次は都市の話をしたいと思います。

 第8講 (2003/01/07 23:50:07)

 みなさんこんばんは。おまたせ?しました。第8講です。
 今夜は都市内の話をしてみます。

◆ 都市のなかの交通圏

 いままで、地方でのユニバーサルサービスの話をしてきましたが、都市の中でも交通圏を考えることが出来るという話題です。
 私たちが住んでいる大東京や関東平野は、地形的にはほぼ均一の、平野ですね。北関東や関東山地に接する地域、茨城の筑波山や霞ヶ浦付近は地形によって居住条件が制約されますが、その他の東西100km、南北100kmの平野地形はおおむね居住条件は一定と言えます。地盤の問題や微地形の違いについては後で触れることもあるでしょう。で、皆さんもご経験でしょうが、人口密度もおおむね一定となるのです。
 そのうちの東京23区の範囲は東西20km南北20kmの正方形の範囲といってもいいかと思います。人口密度を一定としての模式化の上で話しますので、多少の誤差やこじつけはお許しください。
 前の通勤電車論のところで、この大東京の成立過程についてお話をしましたが、現状の中心地システムを簡単にお話しして、これを機能的に結ぶ提案(妄想)へ発展することにしましょう。

「通勤電車」の源流を分け入る ../traffic/special/005.html

◆ 都市の中にも階層性はある

 さて、大都市の中で、人の集まる地点は何種類かに分けられるという話も、ずいぶん前のさいたま市についての投稿などで申し上げていますので、もうおわかりの方もあるかもしれませんが、これについて説明しましょう。
23区内などで暮らしておりますと、居住地の駅と勤務地の駅のそばしか知らないという方が多いかと思われます。案外「隣の駅」で降りることが冒険だったりしますよね。また、居住地の生活圏が案外狭かったりすることも、小学校区の範囲の広さや区役所出張所への距離などで感じることがあるでしょう。
でも、私たちの徒歩による抵抗のない移動距離なんて言うのは、だいたい2〜3km(30〜40分)ぐらいまでですよね。人によってはもっと近いか。1駅手前で降りて健康のためにウォーキングなんて言うことが出来るのはこのくらいでしょう。これ以上歩くのは、都市の中ではちょっと…ですね。
 これが、中心地システムの基礎になるのです。
 乗り物に興味のある私たちは、商店街が出来るのは駅前だけと思いやすいのですが、どの駅にもちょっと遠いなんて言う微妙な地点に、何軒かの商店が寄り集まっている場所を見つけたりすることがありますね。こういう地点というのはまさに最小の中心地なのです。それは、住宅街の中に肉屋と魚屋と八百屋があるだけなんていうものでも中心地と言えるのです。近所の人が歩いて毎日のおかずを「ちょっと買い物に」と集まってくることのできる地点です。
 このレベルから始まって、東京なら銀座のように世界的なレベルの商店街まで、いくつかのレベルがあるのです。

◆ 人の集まる場所のレベル

 私たちの対論では、ターミナル論や乗換駅、優等列車の停車駅、ニュータウン、都市再開発などの話題が展開していますが、こういう地点の吟味や街づくり計画には、その場所がどのくらいの用事のある人が集まるところかを考えなければなりません。それが出来ないと、どんなにきれいな再開発ビルを建てても、新しい道路や駅をつくっても、人が思うように集まりません。
 それでは、中心地の階層の目安について吟味してみましょう。

レベル1(数百m間隔)
     =住宅街の中の商店の集積…バス停やLRT停留所ごと
レベル2(1〜2km間隔)
     =駅などを中心として広がる商店街…東京の私鉄網の各駅ごと
レベル3(7〜15km間隔)
     =百貨店などを擁する中心地…私鉄の快速や急行停車駅ごと
レベル4(30km間隔)
     =いわゆる東京近郊の各新都心や地域中心都市

 ただ、鉄道会社によっては駅間が短いので短い会社の沿線では、低いレベルでも駅があったりしますね。以下に具体例を。

・ レベル1の場合
 もともとは、先に述べたバス停ごとの小商店街などを表したつもりですが、東京ですと都電荒川線や東急世田谷線のLRT、東急各線や京浜急行線などの城南地区の私鉄網の駅でも、商店街が出来ないような駅近くの店などはこのレベルに入りそうです。このくらいのレベルですと、商店の種類も日常必需品や毎日のおかず程度がまかなえればいいのですね。今はコンビニ1軒で役割を果たしているのでしょう。狭い範囲にコンビニが何軒もある場合、どれかがつぶれてしまうのは、供給過剰だからです。逆に人口密度が上がってきますと商店の集積が進みます。マンションの建設が進んでいる現在、高層マンション1棟で小商店街1つが成立してしまう場合がありますね。

・ レベル2の場合
 
東急電車や京急電車の急行などが止まる駅前にはまとまった商店街が成立します。その商店街の規模も大きくなり、戸越銀座や武蔵小山のように長さ1km程度になるものまでできてきます。この大商店街を良く見てみますと、並んでいる店の種類が繰り返される場合があります。八百屋さんが何十mかごとに間をあけてあったり、コンビニやスーパーだって、ある程度の間隔をあけて立地しているものです。そして、駅が無くてもまとまった商店街がある地点もありますね。武蔵小山と戸越銀座の中間の平塚橋交差点付近などは、駅に由来しませんが、中原街道沿いの商店の集積地点としてとらえることができます。実際には、戸越銀座駅や武蔵小山駅から続く商店街の続きに見えますが、距離や店の種類などをよく見てみますと、実は独立していると解釈できるのです。

・ レベル3の場合
 このような、大小の中心地の繰り返しが鉄道路線沿いに続いて、電車のお客さんも乗ったり降りたりするわけですね。東京の都市計画や都市の発展の歴史の中で、始め交通機関や人の動き、居住の形態の関係もあって、中心地の間隔は狭かったのですが、軌道系交通機関の発達や住居の形態の拡大という変化が東京を拡大してきたのです。東京の中心は日本橋といわれてきましたが、これさえも、丸の内、銀座、日比谷霞ヶ関を加え、細かくは役割分担がありますが「都心地域」となったのですね。現在では「都心」の範囲も拡大し、千代田・中央・港の3区に加えて、新都心の建設以来、新宿区も加わるというようにその概念も拡大している状況で、「都心地域の中での中心地の分類」さえできてしまいそうです。
 まあ、日本橋・丸の内地点から考えますと、南北ほぼ等距離に上野、新橋という副次中心が見られ、その間が神田や銀座という地域になります。これだけでしたら先ほどのレベル2の数キロ間隔の中心地ということになるのですが、現在はいわゆる「副都心」の形成が進み、この地点への距離を測りますとこれもほぼ等間隔ということになるのです。みなさんがよくご存じの副都心は池袋・新宿・渋谷といった盛り場だと思いますが、人が集まる地点は業務地域としても価値が高く、企業の集積も多いわけです。新宿副都心の高層ビルは巨大企業の本社ビルですし、池袋サンシャインも60階建ての高層棟はビジネスビルですね。渋谷も、盛り場地域の周辺には企業の集積が当たり前ですがあります。この3地点は東京駅から半径10km程度の場所になりますね。山手線ができたときは、都市の近郊農村の集落(池袋を除く=集落さえもなかった)だったのですが、これを副都心として発展させるという構想が現在の反映に至っているというわけです。

◆ レベル3の中心地理論的解釈

 10km程度の間隔でできる中心地が東京の都心地域では都心と副都心となっているというところまで話しました。
 これらの副都心は、丸の内日本橋に対して西側の地域ですね。東側にも東京は広がっているのですから、こちらもご紹介しましょう。
 本来、等間隔に中心地ができるのが中心地理論なのですが、東京東側の場合若干ゆがんでいます。城東地区で副都心として発展しているのは、上野浅草地域、錦糸町付近、そして臨海副都心ですね。西側の3つの地域に比べると活気は弱いかもしれませんが、近年人工的にできた臨海副都心の他は、古くからの人の集まる地点なのです。浅草上野は大きなお寺が中心ですし、錦糸町は、駅ビルやデパート、映画館が集まり、正に下町の商業の中心地と言えるでしょう。
 これらを地図上で位置関係を確認しますと、少しゆがんだ6角形ができるはずです。この6角形の各辺をまた1辺とした6角形を外側に作っていきますと、次の中心地の6角形ができます。さいたま方向へ展開した場合、池袋〜上野を1辺と考えますと、上野〜北千住〜西新井〜川口〜板橋〜池袋と6角形ができ、その中心に王子があります。
 このように中心地というのは、人口密度一定の時、等間隔にできるのですが、地形などの影響を受けてゆがみができる事はあります。渋谷〜臨海を1辺としたときには、海で欠ける辺が出ますが、臨海〜渋谷〜二子玉川〜武蔵小杉〜蒲田となるのではないでしょうか。

◆ 中心地理論と私鉄の優等列車と停車駅

 だいたい、10kmレベルの中心地間隔は、放射線に走る私鉄の無料特急電車の停車駅の間隔に等しいのではないでしょうか。京急であれば品川〜川崎〜横浜〜上大岡〜金沢〜横須賀なんて言うのはほぼ等距離ではないでしょうか。東武ですと、北千住〜西新井〜草加〜越谷〜せんげん台〜春日部〜動物公園という準急停車駅の間隔が等間隔であるというのと同じですね。西武であれば、池袋〜練馬〜石神井〜ひばりヶ丘〜所沢とかですね。表にしてみますと:

km

京急 東急 小田急 京王 西武 東武 京成
東横 田都 新宿 池袋 東上 伊勢崎
0 品川 渋谷 渋谷 新宿 新宿 高田馬場 池袋 池袋 北千住 浅草
10 川崎 武蔵小杉 ニ子玉川 成城学園前 千歳烏山 上石神井 石神井公園 成増 草加 小岩
20 横浜 菊名 江田 新百合ヶ丘 府中 小平 清瀬 みずほ台 せんげん台 船橋
30 上大岡 桜木町 南町田 町田 高幡不動 所沢 小手指 川越 春日部 八千代台
40 金沢八景     座間 八王子 狭山 飯能 坂戸 幸手 うすい
50 横須賀中央     伊勢原       東松山   酒々井

 関東平野ですと、ほぼ均一の条件ですから、どの路線でもダイヤの形態が似てくるともいえましょう。
 この表の20及び30kmの所に注目していただきたいのですが、ここに、比較的大きな中心地があるということがわかります。横浜ですと、品川から20km(都心からは30km)、渋谷から30kmで、その他にも、町田、府中、所沢、川越、春日部、船橋といった近郊の中心都市がこの距離になるのです。表にしなかった、JRの大宮、柏、立川といった都市も30kmの距離になります。現在の「展都」構想に基づく新都心の建設はこの距離の幕張、さいたま、横浜MM3カ所で、これは東京駅からそれぞれ30km地点なのです。
 各鉄道会社は、10kmごとの中心地へのサービス、始発駅から10kmごとに区切られるゾーンごとへのサービス、起点と終点を速達するサービスといった列車の種類を設定して様々なニーズに応えようとしているのですね。
これも表にすると:

 

京急 東急 小田急 京王 西武 東武 京成
東横 田都 新宿 池袋 東上 伊勢崎
中心地ごと 快特 特急 急行 急行 特急
準特
快急
急行
快急
急行
急行 準急 特急
ゾーンごと 緩急接続 緩急接続 緩急接続 準急 通快 急行
準急
急行
準急
急行
準急
区間準急 特急
快速
起終点の速達 快特 特急 なし ロマンスカー 特急
準特
小江戸号
快急
ちちぶ号
快急
なし スペーシア
りょうもう号
スカイライナー

 会社ごとにそれぞれのサービスにどのような商品名をつけるか、これは、上位の列車種別を何にするかによって変わってくるでしょう。
 ただ、路線の区間の都市・中心地の配列によって、路線の特徴が出てきますが、終点や途中に横浜という大きな中心地がある京急東急、終点への速達輸送が国家的課題になっている京成、終点を観光地として開発してきた東武や小田急、終点へ向かって人口密度が減少していく田園都市線や東上線など路線の文化がありますね。

◆ 長距離私鉄やJRの場合

 東武や小田急、近鉄といった長距離路線を持った私鉄の場合、大都市近郊からは前述のような解釈ができるのですが、50km以上の区間はどうなるかという疑問が出てきます。50kmをこえる路線というのはそうはないのですが、今度は100kmレベルという中心地の間隔が登場します。
 東京から見ると、北関東3県の県庁所在地や甲府、熱海、館山、銚子などが当てはまります。大阪ですと地形の関係があっていびつな形になりますが、琵琶湖湖東の彦根長浜といった各都市、姫路、紀伊田辺、福知山、伊勢平野の松阪・津などでしょうか。長距離私鉄各社は、戦前期にこれらの都市を目指して路線を延ばしたのでしたね。
 30km、100kmの間には、60kmレベルの都市も成立します。東京を中心とした関東平野なら、近郊路線の終点となっている、成田、館林、小川町、秩父、厚木、三崎などはそうですね。JRでしたら、私鉄の終点に加えて、土浦、古河、熊谷、大月、平塚、木更津、大原などがあてはまるでしょう。JR電車のドアの上の「東京近郊区間」の地図は100kmの範囲を書いています。英語では「Greater Tokyo Urban Area」と書いてあったかな?大東京です。ロンドンで100km圏までを大ロンドンとしているのと同じですね。
 関東平野では、平坦な地形とも相まって、環状線の鉄道路線も整備されました。JR武蔵野線は20〜30km圏を結んだ貨物列車用の都心バイパス路線ですが、貨物列車から旅客列車にシフトしてますね。理論上では、この沿線に新しい中心地が成立するはずなのですが、武蔵野線は各放射線上の中心地の若干内側を通っていますので、交差駅が30kmレベルの新都心になるという例は少ないです。西船橋も新松戸も南浦和も西国分寺も、この後触れる中距離列車(快速)線の停車駅でないので、私も含めて、みなさん、いろいろ不便を感じているようですね。快速線にホームを造れ!と主張している方もありますね。

◆首都圏鉄道各社のシステムはユニバーサルサービスか?

 前述のように、私鉄各社は緩急接続やゾーンごとのサービスで都心、副都心から漸減していく旅客者数に対応したシステムを作っています。しかし、JRのシステムは、歴史的な経緯によって、巨大都市内の輸送にどれだけ対応しているかを吟味してみましょう。

 皆さんの方がお詳しいとは思いますが、明治期に建設が始まった東京からの各路線は、各方向へ別々のターミナルをもって建設されたのでしたね。しかし、市内に江戸時代以来張り巡らされていた水路網と飯田町(日本橋川)、秋葉原(神田川)、隅田川・両国橋(隅田川)、小名木川(横十間川)、越中島・汐留(東京港)で連携することで、貨物については、市内各地へシームレスに輸送ができていたのでした。旅客については、路面軌道が発達して、これが当時あまり広くはなかった市内各地への輸送を担当したのですね。人力車や円タクなども後の時代には発達したのでしたね。
 前の通勤電車論の投稿にも書きましたが、国鉄も市内軌道の役割を持った電車線を建設、経営するに至って、同じ鉄道というシステムの中で、全く異なった輸送を行うことになったのでした。
 いわゆる「国電」と「列車」の2種類となったわけですが、この輸送形態が完成したのは、昭和恐慌後の1930年代でしたね。各路線の複線、複々線化が完成し、特に複々線区間では貨物列車と旅客列車の分離が進み、近距離(30km圏)を担当する電車編成の輸送が確立したのです。このシステムの最初は東京セントラルステーション完成時に開通した京浜電車運転でした。当時としては長距離の電車運転で、それまでの東海道線の区間運転の蒸気列車を置き換えたのです。このころはまだ、中央線も山手線も単行電車でしたし、東京市内や、郊外の電気軌道として運行されていた各社も国鉄よりも一回り小さい車両で運行していたのでしたね。
 戦前期の完成形は1935年の常磐線の松戸電化のときでしたか、いわゆる「東京5方面」がそれぞれの路線の輸送需要に応じた形で当時の輸送の近代化を達成したのでした。30km圏を超える長距離輸送は蒸気列車で、3等級のサービスグレードを持った「急行」列車や普通列車がそれぞれの方向へ向かったわけで、当時の列車本数を数えてみると、長距離の人の移動の数や頻度は現在に比べ、比較にならないほど少なかったと言えそうです。このそれぞれの路線の30km圏は国電(省線電車)区間で北は大宮から南は横須賀、東は千葉、松戸から西は浅川(高尾)の範囲でしたね。中央線は甲府まではトンネル区間でしたから電化されていましたね。東海道線も丹那トンネルを越えた沼津まで電化さていたのでした。複々線は大宮〜大船、お茶の水〜中野、駒込〜品川でしたね。ただ、田端〜田町間は京浜東北線と山手線は複線に2分間隔で交互に運転していたのでした。また、赤羽〜田端、日暮里〜上野など3複線以上の線路が並んでいるのは、現在の形態の元になっています。

 「列車と国電」の形態は20世紀いっぱい続いたのですが、これも、「通勤電車論」でも書きましたがとうとうクロスオーバーしてしまったのでしたね。
 ただ、戦前確立した列車線又は貨物線と電車線という分類が完成したのは更に後、1960年代の有名な「東京5方面作戦」の完成まで待つことになるのです。
 「東京5方面作戦」の完成で、電車(ラインカラーの103系で各路線が揃った)と列車(70年代までは客車列車も都内へ乗り入れていた)の分離が進み、30km圏の輸送力の拡大が進んだのですが、あまり数はなかった100km圏のいわゆる「中距離」列車というカテゴリーが、客車列車から3ドアセミクロスシート電車でスピードアップ、増発され、時間距離の短縮が30〜50km圏の都市化を進展させることになったのですね。
 すなわち、現在のJRのシステムでは、駅間の短い旧国電路線と、主要駅のみ停車の中距離路線の2系統が運行されている事になります。あえて言えば、遠距離輸送は新幹線路線で行われているわけで、都合3系統の輸送システムがあると言うことになります。

「通勤電車」の源流を分け入る ../traffic/special/005.html

 東京都心内の鉄道交通も、都電から地下鉄へ輸送単位やスピードが上がり、建築物の高層化とも相まって、大量輸送が行われることとなったのでした。ここで、「国電」と「地下鉄」の輸送形態が近似する事となったのですが、どちらも公企業であったにもかかわらず、経営体として統一する事はなく、「相互乗り入れ」という奇策で別会社としてお互いの役割分担をすることとなったのでした。さらに複雑なことには、都電を経営していた都交通局も地下鉄を経営することとなって、「地下鉄」を営業する企業が2社となったのでした。もちろん、この政策は当時としては、建設の分担や、私企業での独占を防ぐことや、巨大な輸送量を速やかに調達するという当時考えられた目的を果たすためには、十分役に立ったと言えます。
 でも、現在のサービスの形態がほぼ同じとなった状態で、東京の鉄道による輸送サービスと運営企業の関係を客観的に見ると、山手線の外側は、5方向への長距離運行を兼ねる国鉄路線と、地域別の私鉄路線数社で輸送サービス区域の分割が行われ、山手線の内側は地下鉄2社と環状路線を横断する中央線で路線が構成されているのが東京の鉄道路線ですね。諸外国の首都の鉄道輸送サービスに比較して、この姿は実に複雑怪奇と言っていいのでしょう。
 それに引き替え、実際の輸送サービスは、「4ドア近郊型」の出現で、それぞれ別の運行系統で行われているにもかかわらず、都心内、30km圏、100km圏の3タイプとも同じ形態となって、乗車時間に関わらず乗る車両は同じ形態となってしまったわけです。
 このようなサービスの画一化が進んでいるにもかかわらず、異なる企業であるという理由から、異なる路線を乗り継ぐと料金が上がるのは今後問題になるでしょう。地下鉄の統合も構想されているようですから、都内の地下鉄についてはちょっと前進するでしょうか。
 JRはJRだけで完結しているネットワークとも言えますから、地下鉄網とは別経営で人を集め、補完しあう関係にも思えますが、旧国電区間だけをとれば、駅間が短く、終日に渡っての大量輸送という、そのサービスの状況は地下鉄と同じで、むしろほとんどの路線が高架鉄道として立地し、地表に対する位置関係は地下鉄の対称形になり、別経営であるのは無駄にも見えてくるのです。

 都市圏内の中心地システムの中で、鉄道の役割は先に分類した「レベル2」以上の中心地地点を結ぶものとなります。各企業が近郊地域を分担して強い行政の指導のもとに地域の鉄道輸送を行うという形も、人口分布の変化が進んだ遠い将来にはその形態を変えることになるのでしょうか。
 現在の都市内の鉄道輸送のシステムを更に狭い範囲で補完する異種交通機関についてこのあと、吟味しましょう。

 寒いですが楽しい休日を。乱筆ご容赦。

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2004.11.14 Update


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