例1 長野県の場合
長野県は日本の中央の内陸県ですが、まとまった平坦地がいくつかあります。
善光寺平、佐久平、安曇野、諏訪盆地、伊那谷といった所でしょうか。この5つの平坦地はそれぞれ、谷や盆地を形成している河川群を一つのまとまりとして流域を形成しています。
人の流れも、古くはこの谷や盆地の中心へ集まる形だったはずです。そして、全国レベルの街道が峠を越えて結んでいたわけです。古代の東山道は木曽谷から伊那谷、諏訪盆地から佐久平へ通っていたそうです。これは結構無理があったようにも思えますが、当時の人口密度から見れば、平城京平安京から東国の遠国へ向かうのに最短距離を考えれば、直線に近いコースを取ったということでしょうか。近世の五街道のうち、中山道はやはり佐久平から諏訪盆地を通って木曽谷へ向かったわけです。甲州街道は釜無川源流の高原を越え、諏訪盆地で中山道に合流したのですね。軽井沢の高原で中山道から分かれた北国街道は千曲川沿いに善光寺、直江津へ向かい日本海の海運との連携を取った訳です。
明治に入り、この街道をトレースした鉄道路線が建設されるのですが、まず、太平洋と日本海の横断コースとなる北国街道ぞいに信越線が出来たのですね。信越線のコースは小諸から豊野までは千曲川に沿うものですが、高崎〜小諸間と豊野〜直江津間は山越えになるコースです。この時の輸送路は佐久や小海など千曲川上流部から小諸までは、千曲川の水運があったでしょうし、豊野から新潟まではこれも千曲川水運があったはずです。この時代までの水運路には他にも犀川も天竜川も木曽川もあったでしょうから、鉄道黎明期には水陸の連携や競争が普通だったと言えるでしょう。
長野県は峠を越える交通がもちろん盛んだったのですが、やはり、封建時代には交通は規制、遮断されていたでしょうし、明治以後でも、人の引く荷車や馬車のレベルの輸送量では現代と比べて、その単位は小さいものでした。ところが、碓氷峠や妙高高原を越える路線や冠着や奈良井のトンネル、天竜峡を分け入る鉄道路線が開通し、水運に比較して輸送単位や輸送量が拡大して、全国ネットを形成すると、県内各地で鉄道の利便が全国を市場とする産業の振興に寄与することが証明され、水運や街道は鉄道にとって変わったと言えるのです。これが明治から大正、昭和戦前まで続くのです。
明治時代は国策により官設鉄道として建設された信越本線と中央本線のみであった県内の鉄道も、その枝線がやはり、犀川千曲川、天竜川木曽川の支川に沿って地域の資本などを糾合して建設されることとなったわけです。千曲川沿川では善光寺の対岸の町々を結ぶ河東鉄道と信濃川下流へ下る飯山鉄道が、佐久平では千曲川上流へ遡る佐久鉄道が、上田からはいくつかの小私鉄が菅平方向真田傍陽へ、千曲川を渡って別所丸子へ、松本からは大町へ信濃鉄道が、伊那谷では天竜川を下る電鉄会社がそれぞれ伸びていったのでした。このような小鉄道は分水嶺を越えることは資本や経営の見通し上出来ず、境を連ねる十州へは官設鉄道のお世話になるという状態が一九六〇年代まで続くのです。
このような、川から陸へという輸送路の変遷は、次に鉄道から道路輸送へと変わるわけですが、ネットワークとなった鉄道同士の貨客の連帯運輸や、直通運転など、対県外で見たとき、県内の各路線は一体的に運行されていたとも言えるわけです。戦争中には更にネットワークの強化を図るため、国有化された路線もあったのですね。
この頃の県内の人の動きは、県庁のある長野市を筆頭として、松本、上田、諏訪、飯田といった中心地も人を集める場所となっていたはずです。自家用車の普及する前、人々はバスや列車電車で向かった地域の中心地でだいたいの用事は足りたのです。山に住む人々はバスなどで山を下りれば、買い物や用事の済ませることの出来る町があったわけです。
さて、このような交通圏を変容させる出来事が二〇世紀の後半進んでいくのですね。自家用車の普及と高速道路の整備です。
ただ、地形の制約もあり、自家用車が普及しただけでは、長野の場合、バスから自家用車へ乗り物が変わっただけで、地域の中心地が人を集める力は弱まったとは言えなかったのですが、それぞれの中心地が高速道路で結ばれるに至り、人々の交通の動きが変わってくる事となったわけです。
高速道路は山を貫き、谷を渡りまっすぐ伸びているわけで、数十年前の簡易な施設であった鉄道各路線に対し全く比較にならない交通路となってしまったのです。自家用車を用いた山の人々の行動も、高速道路に接続することで、行動範囲を広域化する事となるわけです。三〇年前までは考えもしなかった、佐久平からは東京へ、伊那谷からは名古屋へというような買い物やレジャーの行動パターンが普通となって、地域の中心地はその商業的な意味をなくしつつあると言っても過言ではないかもしれません。また、中心地の後背地域の人口に対して、過剰とも言える商業施設がインターチェンジに面して建設され、地域中心地同士の集客競争も起こるなど、のどかな時代の「山と町」といった人々の行き来では納まらない人々の動きが現在も続いていると言えます。各中心地のみの雇用力では地域の若者を吸収できず、それまでもあった人口の流出は今も起こっていることでしょう。でも、大都市からはすぐ帰ってこれるという気安さのレベルは昔より高まっているかもしれません。
そのような長野県でやはり、流域を単位とした交通圏をどのように作るかというわけですが、もう一度、県内の主要中心地を核とした、分散型の都市計画を書くしかないと思うのです。
各中心地はそれぞれ高速道路で結ばれているのですから、この中心地の中心性を高め、そのレベルを同一にする工夫をするしかないと思うのです。
例えば、郊外型のスーパーセンターを空洞化した中心部で再現する(長野市なんか空きデパートが2棟もある!)とか、交通結節点としての駅の高機能化を進める(飯田線の各主要駅をバスターミナルとして整備する)とか、そろそろ「元に戻す」ための逆転の発想があっても良さそうな気がするのです。なんでも車に頼る前提ではなく、もともと人が集まって住んでいる所を大切にするという当たり前の都市計画を計画通り進めるだけでいいのではないかとも思えるのです。
どうも、この数十年地方においても、大都市のような「副都心」や「新都心」といった新しい中心地を形成することで、都市の広がりを持たせようとする都市計画のデザインが流行ったように思えますが、もともと後背地の人口の少ない地方都市でどうして新都心が必要となったのでしょう?旧市街の商業などの集積を維持できるような都市計画のデザインをした地方都市を私は不勉強なのか知りません。これからの縮小再生産の時代に、郊外型の大スーパーセンターという時代でもないでしょう。いけいけどんどんの時代では無いですよね。
それでは、長野でどのように人の流れを再プロデュースするか。という妄想です。新幹線や高速道路はあるものとして考えてみましょう。
基本的な考え方は、流域の川が水を集めるように人やものの流れを作りつつ、既存の中心地と新設の中心地をうまく結ぶ交通網を考えられないかというものです。
一例として千曲川流域だったらというテーマで考えてみましょう。
中心地としては、小諸市や佐久市、上田市、長野市、須坂市、中野市、飯山市といったところでしょうか。こういった地点が、鉄道で結ばれていますが、流域から外へ出るためには峠や狭窄部を越えなければなりません。碓氷や野辺山、妙高高原、姥捨、津南などですね。
これらのどの峠も高速道路が整備されて行くわけです。新幹線は碓氷から佐久、上田に止まって長野の町までですね。新幹線が止まる地点は、新しい中心地となるのでしょうが、古い中心地である小諸などは地形の関係もあって、新幹線も高速道路も通りませんでしたから、観光・文化都市として発展できる余地があります。ただ、新幹線の止まる佐久や軽井沢、上田との間の交通を便利にしないと、東京からの交通流の到達点としての中心地の意味が下がってしまいます。小単位の輸送機関でよいですから、今挙げた3都市との間の交通を確保したいものです。また、千曲川の上流や旧中山道沿いからのバス路線などの交通流も佐久を通り抜けて小諸や上田や長野市へ通じさせたいものです。上田を中心とした交通も上田駅からの放射状の路線網を確立させ、上田交通電車もしなの鉄道へ直通してもいいかと思えるのです。善光寺平では長野市を中心とした、篠ノ井線やしなの鉄道、長野電鉄、飯山線、信越線といった鉄道路線と、これをおぎなう松代、鬼無里、戸隠方向へのバス路線といった放射状の路線網を確立したいです。善光寺側から菅平志賀高原方向千曲川対岸の渓谷をつめるバス路線は、須坂や中野で鉄道へ接続の上、長野市街へ乗り入れてもいいかもしれません。
もちろん、運賃は前述のJRの例のように、バス〜上田交通や長野電鉄〜しなの鉄道〜JRと賃率が下がってくるのでしょうが、合算して一枚の切符で通して乗れれば便利でしょうね。割り引きがあればなお良いです。バスで山から長野の町まで通して乗ってくれば賃率一定で安くつくのもいいのですが、トータルの所要時間が電車に乗り換えるより長くなるでしょうから、急ぐ人がプラスアルファを払って電車へ乗り継いだ方が早くなるようなダイヤにしなければなりません。新幹線に乗れれば一番高いでしょうが、一番早いはずです。このような樹枝状の路線網で考えれば、公共輸送機関も結構便利に使えるようになるのではないかと思えるのです。枝の付け根を新幹線の駅と考えれば枝を重ねる路線網でいいわけです。現実には公共輸送機関を活用する人の数は少ないのでしょうから、輸送単位は小型バス〜単行気動車〜二両程度の電車といったものでいいのでしょう。また、高速道路との関係では、「新幹線駅」を「バスターミナル」または「インターチェンジ」と読み替えて考えればいいでしょう。
例2 岩手県北の場合
長野に比べて人口密度が低い岩手だったらどうでしょう。北海道や能登半島、島根県などもこんな方法が有効かも。
長野同様岩手県北も高速道路と新幹線が整備されました。新幹線の開通は、いよいよ海底トンネルを越えて、北海道南へのアプローチの第一歩となったと言えましょう。
盛岡は長い間北東北のターミナルとして、東北本線や秋田新幹線の列車や、弘前宮古へのバスの乗換駅として機能してきました。この度の新幹線延長でいくつかの役割が八戸へ移動し、特に対青森県・北海道南のアクセスは八戸に集中する事となり、盛岡の役割は変わってくることになります。盛岡市自体は新幹線の通る大きな地方都市であり、住宅地も郊外へ展開している状況ですね。しかし、岩手県自体の人口密度が大変低く、特に岩手県北では公共交通機関の維持は非常に難しい状態が続くことになります。別スレッドで宮古線や岩泉線の話題が出ておりますが、現在の人口密度では、高規格の国道とローカル鉄道の両方を維持するのは難しいのではないか。そういう風にも思えてくるのです。また、この度第三セクターとなりました東北本線も、北海道への貨物列車や観光寝台列車のためでは?と思える状態です。それでも、地域の人々が維持を選んだのは、もっと遠い先を見ているからと思うことにしましょう。
さて、この地域では、先輩の第三セクター鉄道として、三陸鉄道があります。また、ローカル私鉄として十和田観光電鉄があります。やろうと思えば、ローカル鉄道の維持が出来ないわけでは無さそうです。これらを組み合わせ、古くからこの地域を地盤にしているJRバスを活用して、公共輸送網をなんとか作れないものか。考えてみたいと思います。
さて、手元には20万分の1地勢図「盛岡」「八戸」があります。盛岡から八戸へ新幹線が伸び、沼宮内、二戸に中間駅ができました。それぞれの駅から、周辺部へバス路線があります。山間部を抜けて、海岸の久慈まで延びている路線もあります。久慈市は八戸線の終点ですが、八戸からは1時間50分かかります。盛岡からの高速バスもありますが、2時間10分程度かかるようです。新幹線の開業と共に二戸駅からシャトルバスもでき、これは1時間10分で二戸と久慈を結んでいます。
新幹線と第3セクターの在来線は、馬淵川に沿って、奥中山から尻内へ下っていきます。国道4号線奥州街道に並行している形ですね。これに対して、八戸自動車道は、一旦安比高原で分水嶺を越えた東北道から、荒屋新町で分かれ、安比川に沿って一戸へ向かい、東北本線に直角に交差し、トンネルを抜け、九戸村へ入るのです。そして、軽米、南郷と北上するコースをとって八戸へ至るのです。地域振興の目的でこの路線が選定されたのでしょうけれども、比較的人口が集積している既存の交通路沿いでなく、わざと密度の低い(逆に言えば土地の得やすかった?)農山村を結んだ形になっています。そうなると、この高速道路は東京・仙台・弘前・盛岡対八戸など都市間を直接結ぶ通路としては意味がありそうですが、元々の地域の人たちが1区間でも乗って時間を稼ぐためなど普段使いに利用するには使いづらい路線なのではないかと、想像できます。違ってたら教えてください。しかし、沿線の浄法寺町、一戸町、二戸市(福岡)、軽米町などは高速交通路の拠点として中心性を高めることが出来そうです。実際盛岡〜八戸・九戸・軽米・二戸間にはそれぞれ高速バス路線が1日1〜2往復設定されています。まだ、1日1〜2往復であるというのは、まさにこの地域の鉄道に沿わない町村の人口密度を表しているでしょう。盛岡〜八戸間は2時間20分かかっていますから、1時間40分程度かかる第3セクター電車よりバスは時間がかかりますので勝ち目がありそうです。
そこで、この地域の公共交通網の一妄想です。
高速道路のインターにバスターミナルを作り、既存の鉄道駅、新幹線駅のバスターミナルと同様、高速バスにローカルバスやコミュニティーバスを接続させる形態(もうやってるでしょうが)を徹底させ、旧市街との間のシャトル便も充実させるというスタイルでP&Rの形態を多様化できないかと思います。このバスや電車、新幹線のP&Rの拠点は、インターのターミナル、二戸や沼宮内の新幹線駅、各町村の旧市街の役場や病院の駐車場や、第3セクター電車の各駅にすればいいのですね。
ただ、ダイヤ的にはそれぞれが接続すればいいのですが、まとまった人の動きのある登下校時や通院時に最大の輸送量を提供できればいいのでしょうから、デイタイムや早朝深夜は等間隔の運行でわかりやすい運転系統を作りたいものです。模式例としては:
- 朝
農山村→旧市街→学校→駅・インター
- 通院時
農山村→病院→旧市街→駅・インター
- デイタイム
農山村→旧市街→駅・インター→病院→旧市街→農山村
- 下校時
学校→旧市街→駅・インター→農山村
- 夜間
駅・インター→旧市街→農山村
このような考え方で、バスを循環させ、コミュニティーバスとローカルバスとスクールバスと福祉タクシーを融合できないものかと思うのです。そんなにお金に余裕があるとは思えない、地方の小自治体や村のバス会社タクシー会社で、うまい商売でよりよいサービスをするためにはいろんな方法を考えるしかないでしょう。
<おまけ> 田野畑村の思いで
私は今から20年前、三陸鉄道が出来る前、釜石から尻内まで三陸海岸を旅したことがあります。確かに別スレッドの和寒さんの投稿の通り、今とそんなに列車ダイヤは変わっていませんでしたが、それを乗り継いで、龍泉洞や浄土ヶ浜、北山崎を巡ったのです。そこで見た印象深いシーンを。
田野畑村は、日本でも有数の面積の広い村なのですが、三陸鉄道が出来る前、岩泉〜小本〜田野畑〜普代〜久慈と国鉄バスが走っていたのです。これは、もちろん建設が計画された路線に沿ったものですが、この路線は村の重要な交通路だったのです。北山崎付近の集落など、中学校から遠い子どもたちは中学生になると、村の中心の唯一の中学校の寮で生活しながら登校するのです。私たちの乗った週末の久慈行きのバスではそんな中学生たちが集落ごとに降りていく光景が目に残っています。そして、停留所には郵便を扱っている国鉄バスから小包を受け取りに来た簡易郵便局の人や中学生を迎えに来た家の人がいたりしたのも印象深かったものです。
このバスは国鉄バスですから、「東北周遊券」で乗れましたし、鉄道と通し運賃で切符が売られていたはずです。確か小本ターミナルには「みどりの窓口」もあったはずです。
人口密度の低い地域では、公共セクターが力を合わせて、過疎と闘わなければ、経済の論理で人々の居住権が奪われる事になります。これは何度も言ってますね。