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デパート「商業都心」論  〜鉄道との関係に見るその戦略〜

 ※ この後の補綴(解説)もあわせて御読み下さい。

発表:日本大学法学部八木俊道ゼミナール誌【harmony】創刊号(1998.02)p113〜114

 新宿南口に<タカシマヤ タイムズスクエア>がオープンして、新宿は商業的にも一大「都心」となった。何故なら、元来新宿のデパートは商業圏的に、駅の東西で分けて考えられていたからである。新宿駅を東西に抜けるには、甲州街道か丸ノ内線連絡通路、大ガードと限られており、かつ東口の中心―伊勢丹・三越・丸井は駅からかなり離れている。ゆえに、東西間の人の流れが少なかった。しかし、第三の核たる高島屋が南口に出現した事で、甲州街道―山手通りルートが形成され、一大商業地として捉える事が可能となった訳である。
 このように、近年の東京都心の大商業地は、デパートの存在を抜きには語れない。そこで、デパートの立地に見る「商業都心」文化(?)と、それを支える主要交通手段である鉄道との関わりについて独断と偏見で研究してみたい。なお、別にいちいち歴史等を調べている訳ではなく、うろ覚えなところを膨らまして勝手に記しているので、事実に反する記述があるかもしれないが、その辺は事前に容赦願いたい。

1)東京西部:池袋・新宿・渋谷(恵比寿)〜「埼玉都民」をいかに手に入れるか〜

 東京西部のデパートは近年発展を遂げてきた。元々、池袋では両武(東武・西武)、新宿では小田急・京王、渋谷では東急と、電鉄系デパートがそれぞれの沿線住民を顧客としていた。更に渋谷での東急・西武戦争、新宿東西合戦(伊勢丹・三越vs京王・小田急)、丸井・パルコなどのファッションデパートの進出と、この三大ターミナルの集客数に比例するかのごとく発展してきた。
 しかし、これら地域も悩みがない訳ではなかった。特に池袋は、元々西武・三越の東口が優勢であったところ、有楽町線と東上線の直通で主婦層が銀座へ容易に足を伸ばせるようになり、埼京線の新宿乗り入れ、さらにはサンシャイン60手前に東急ハンズが進出し、それに西武がロフトで追随、ただでさえ東口に流れ易い若年層の流れが一気に流動化した事が、西口東武の危機感をさらに募らせる事となった。そして、東武は単一として日本最大の、「グッド デパートメント」として生まれ変わる事になるのである。
(なお、売場面積では、千葉そごうが別棟を含めて一位。こちらは<日本最大級>と称している)

 この巨大デパートの出現こそ、現在に至る商業地としてのデパートの存在を確固たるものとしたといっても良いだろう。現に、巨大化するとおろそかになりがちなセンスが、細やかなところまで行き届いている感じがする。特に最近マスコミ等のデパート特集で注目を集めるB1もしっかりしている。開業当時、東上線のみならず、本線系統の電車にまでステッカーを貼っていたのには驚かされた。それだけ東武の威信を見て取れる。更に東北・高崎線の池袋乗り入れ・成田エクスプレスの池袋始発は、埼玉県中央部からの流入を期待させるものであり、この時点で池袋には追い風が吹き始めた。
 しかし、東武の優位は長く続くものではなかった。埼京線の恵比寿延長である。恵比寿ガーデンプレイスという、これまた新しい形の商業ゾーン誕生とあいまって、この影響は大きいものがあるといえよう。その裏には、「渋谷復権」が見え隠れする。

 渋谷の急速な若年対応街区化は大いに目を見張るものがあった。詳細は省くが、著名な東急対西武の戦争は、渋谷をファッションの先進地域と変えたのである。東急はデパートを二軒も持っていたが、109の成功に味をしめ、東急ハンズやBunkamuraという情報発信機能を持ったビルさえもこしらえた。これに外資系の大型CDショップが追随する。しかし本来のデパートの持つ「百貨店」的要素を多分に切り捨てるものでもあったため(ちなみにこの商法の先鞭をつけたのは丸井である)、主婦層の流失は続いた。余談だが、筆者には、かつての「東横のれん街(東急東横店)」なるCMが、今となっては懐かしい。さて、東急幹部も嘆いたのは、新玉川線も乗り入れする半蔵門線の三越前延長であったという。日本橋三越の200m南には東急日本橋店があるのに、どうしてライバルの行き先を掲げて自社の電車が走らなければならないのか…、というものである。現に、今でも半蔵門線車内では、三越の紙袋を持った御婦人を見かけることが多い。先の池袋東武の例といい、地下鉄との相互直通運転の発展は時に社内的に新たな問題を生むことになるのだ。

 渋谷にとって埼京線開業は埼玉県西部の人間を取り込む大きなチャンスである。そして恵比寿のハイセンスな、言い換えると「大人の」商業ゾーンとしてのガーデンプレイスにも期待している(そこに出店したのが三越なのは少々皮肉だが)。少々心配は商業地的広がりを持てるか、すなわち今のガーデンプレイスでは幅広い購買力を期待できないことであろう。恵比寿三越が3階建てで、しかも商品を特化させていることも逆効果ではないか。その意味でも渋谷自身の変化、すなわち幅広い年齢層の獲得にかかってくる。新宿は若年層と主婦層を上手く取り込んでいるのだから…。更に、新宿高島屋は埼京線のホームと直結している。これに対しては池袋の方が危機感を持っているようだ。ともかく、これからは3大ターミナルの「埼玉都民」奪い合いが楽しみになってきそうである。

2)東京東部:日本橋(東京駅)・銀座(有楽町)〜<老舗>の反撃や、いかに〜

 元々、いわゆる「デパート群」を形成していたのはこの地域である。両地域は少々無理をすれば歩いて巡ることも可能である。しかしそれぞれが個性的でもある。日本橋は三越・高島屋・白木屋(現東急日本橋店。居酒屋とは何の関係もありません、念のため)という老舗が街を形成し、銀座は三越・松屋・松阪屋が古くからあるが、むしろ周囲の多くの単独店がそれぞれの個性を引き出して個を確立した街であったといえる。西部地域との違いは、いわゆる交通の拠点ではないことであろう。五街道の起点であった昔、東京に都電がひしめいていた時代はいざ知らず、山手線の駅から両地域の中心まではどうしても徒歩を伴ってしまう。それだけに、ここのデパートは顧客と自らの知名度を非常に大切にする。そこが現在自己の首を締めていることになっているようにも思われるのだが、それはのちほど記す。

 東京東部に全く変化がなかった訳ではない。いわゆる「駅ビル百貨店」の始まりでもある東京駅八重洲口の大丸進出と、皆さんにもまだ記憶があるだろうが、複合型デパートのはしりである有楽町マリオン(西武・阪急)の完成は、それぞれに当時多いに話題になった。
 東京ではいまいち知名度が低く、現在も地味な存在の大丸であるが、関西では老舗中の老舗。東京進出、しかも日本橋にも近い東京駅の新幹線側にできるという、特に同じ関西出身の高島屋には驚異であったようだ。しかし大丸の誤算は、商業地型と駅ビル型のデパートの利用者の違いということにあったといえる。商業地型ではそのデパートに行くことが主な目的であり、駅ビル型では時間潰し・行き帰りの寄り道が主な目的となるのである。大丸のB1は定評があるが、上には行きずらい構造、関西ではよかった商業地型商法が災いしている。
 マリオンは鳴り物入りで誕生したが、「また行こう」と思わせるものを持たないデパートである。映画館を中に取り込み、西武・阪急という東西の有名デパートが肩をならべるなど、類例の少ない構造も難点の一つと思うのだが(そう言えば、このコンビは神戸ハーバーランドでも西武の撤退という失敗をしている)、銀座の期待と落胆は大きかった。先ほども記した通り、銀座は核となる大型店がない。それだけに山手線最寄り駅−有楽町駅前のマリオン誕生は新たな流入を期待し得るものであったのだ。それは、巨人優勝時以外は見向きもされない、というよりも優勝しても、という話もある程存在感の薄い有楽町そごうにもいえる。新宿が高島屋の出店で商業地がまとまったのに比べて、こちらでは逆に銀座・有楽町・日比谷(劇場街)とバラバラになってしまったというのは皮肉か。

 現状を見るに、東部は華やかな西部と比して落ち着いている、というか低迷しているといってもいいだろう。その原因はやはり交通の便とそれによる新規客の流入の少なさにある。交通の便は決して悪くはない。現に半蔵門線の延長が三越に影響を与えたことなどもあるけれども、やはり日本橋・銀座が地下鉄の拠点駅ではあるが、JRとの未接続、終着・乗換駅たるターミナルでないことは大きい。そして若年層にアピールする要素の少なさも挙げられる。西部地域の三種の神器−丸井・パルコのファッションデパート・東急ハンズ・外資系大型CD店が、ない(CD店が銀座にあるだけ)。今までのお得意様を優先するあまり、「一見さんお断り」的な雰囲気、どことなくお高くとまっているようにも感じられるのである。簡単に言えば、場所からして特に若年層にはとっつきにくいのである。
 東部地域、特に日本橋は私のホームグラウンドであるので新たな浮上を期待したいところだが、今のところそれぞれのデパートが「百貨店」に徹している、すなわち「売り」がはっきりしないこともあって、やはり核となる商品、存在を求めたいところである。しかしながら、それでいて老舗の意地にも期待したい。特に高島屋には東京本店の威信を見せて欲しい。老舗ひしめく中では地味な東急も、特に東部地域に不足している渋谷的発想を持ち込んで欲しいところである。

3)その他の地域:上野(浅草)・品川・錦糸町

 上野は本来東部地域に入れるべきであろうが、あえて別項としたのは浅草との関係にある。上野・浅草は電鉄系デパート経営の失敗を教えてくれる。まず浅草。東京に住んでいてもなかなかここへ足を伸ばす人は多くないのではないか。そして東武浅草駅に松屋があることを知る人も又、多くはないだろう。浅草は鉄道の起点としてはあまりにも中途半端すぎた。東武鉄道は何も知らなかった訳ではない。その昔は京成電鉄とともに上野を目指して争っていたのである。詳細は省くが、結局京成が上野延伸を成功させた。しかしながら京成も失敗を犯してしまう。現在上野には丸井と松阪屋(上野広小路)の2つのデパートがあるが、丸井は元々京成百貨店であった。立地的にも上野山下の京成上野駅と離れてしまい、本来の沿線住民直結型店舗になれなかったばかりか、親会社の経営と比例して赤字を累積させ、ついには身売りと相成ったのである。さて、現状はというと、アメ横、御徒町ディスカウントショップ群、ABABといったカジュアルな店の方が印象が強く、なかなか面白いところではあるが、商業地的広がりはどうか…といったところか。

 品川も個性的である。デパートはウイング品川(京急デパート)のみであり、その存在感もそこらの大型スーパーと大差ない感じなのだが、けっこうな集客能力があるのはプリンスホテル群である。そもそも何故ここに3軒もあるのか、筆者は分かりかねるのだが、どれもが一流。そしてそのショッピングモールがデパート的集客力を持っているのである。ただ今後、新幹線駅の開業により、この形も大きく変わる可能性(すなわち本格的デパートの進出)が出てきた場所である。

 錦糸町は山手線と接していないのにもかかわらず、墨東地域の中心であるためか、西武と丸井がある。しかしここの集客力の源はWINSであろう。直接結びつきそうにないのだが、若年層はかなり流れる。なお、マリオンもそうだが、映画館ドッキング型の発祥は、錦糸町西武・東京楽天地であるが、ここも集客に結びついているとはいいにくいのは、高校時代から慣れ親しんできた私にとって残念ではある。なお、北口再開発でそごうの出店が予定されているが、バブルの影響で規模が縮小になったのもさみしい。

 後は二子玉川(玉川高島屋)、吉祥寺(東急・伊勢丹・丸井)などもあるが、馴染みがないので言及しない。ご当地の方、あしからず。

 簡単ではあったが、東京のデパートの立地、特に鉄道との利便性という観点からから商業圏的性格を考察してきた訳だが、最後に新宿高島屋について言及しておこう。ここはある意味<デパートの完成形>といってもいいのではないか。若年層には個性的なショップが(何とゲーセンまであるのだから…)、主婦層には本体の<老舗>・ブランド的イメージが、それぞれに融合しているのである。筆者は2回行ってきたが、目的は東急ハンズとHMV・紀伊国屋書店であった。高島屋本体は「素通り」である。しかし、その「素通り」が少なからず売り上げに結びつけば大きな成功になる。言い換えれば、結局タイムズスクエア自体がそれぞれのショップの集客力が大きな力を持つことになる<一商業地>なのである。

 しかしながら、巨大デパート全盛の現状を思うに、本来の「百貨店」というものも、なかなかいいものではなかったか。私にとってのデパートは、年に数回、時には母の買い物の付き添いで、ある時は催事場の催し物を見に、そして誕生日の玩具を買いにいったりと、そんな幼いころの思い出から、何か特別な存在であったような気がする。そういう意味ではただ大きいだけ、ただいっぱい詰め込んであるだけでは、ちょっと違うぞ…という思いも抱いてしまう。なにせ、新宿高島屋は14階まであるのだから、普通のデパートの標準である「1階ブランド品」「2〜5階婦人・紳士・子供服」「6〜7階家電・玩具・文具・書店」「8階レストラン街」「9階屋上広場」が当てはまらないのである。その意味では、なぜか東部地域のデパート、特に最も利用してきた東急日本橋店には、そのあまりにも標準的な「百貨店」というものが感じられ、ある種ホッとする思いを抱くのである。

 次回このような発表の機会がある時には、どちらが商業的に優位か結論が出ていよう。それまで、デパートウォッチングを続けますかな。


デパート「商業都心」論 補綴

 各地で御紹介の通り、本拙文は大学での所属ゼミナール発行のゼミ誌の[Improvisation](即興演奏の意)たる自由論文掲載コーナーにて98年春に発表されたものです(「即興」といってもこのゼミ誌の発行が大幅に遅れたため、結構推敲させて頂いているのですが…)。
 蛇足ながら当社(無)551ぷらんにんぐはこのゼミ誌発行に際し参画し、公に本格的対外業務を始めた最初の作品ということもあり、当サイトに至った当社の歴史の源流のひとつとも言えるものです。ちなみに本拙論に関してはスペースの制約いっぱいというか、軽くオーバーしてしまい、収めるために活字ポイント数をかなり小さくしての掲載で、非常に見づらいモノとなったためか、周囲にはさほどの評価は得られませんでした…。
 実際の執筆は96年冬で、推敲段階でも時間軸は変えていません。その意味で、各部分で多く触れている東急百貨店日本橋店への「期待」が、実はこのような結果になるであろうかという「予感」的なものであったといえそうで、ここからも同店の凋落ぶりが顕著だったことを示しています。

 時は確実に流れ、埼京線が恵比寿まで延び、錦糸町にそごうが出店し、東部地域の、というよりも日本経済そのものの凋落が加速的に進む中で百貨店に対する風当たりは日増しに強くなり、ついには都心部の老舗の閉店という事態に発展しました。つまりは、「百貨店」形態でも巨大デパートでもない、小売業そのものへの消費者の関心が転換期に入ったといえる状況が現出しました。といっても「百貨店」形態や巨艦店舗形態が完全否定されたわけではなく、新しい発想が新たな消費流動を生むということも言えましょう。「東急日本橋店の1ヶ月間」も、その断片のひとつです。
 もうひとつ言えることは、東京西部対東部の「百貨店バランス」が完全に西部に移った、ということでしょう。特に新宿地域は、百貨店形態にとどまらない様々な商業形態が複雑に絡み合った日本最大の商業都市に発展しました。街を歩いても人の波で不況を感じさせないそのパワーは東部地域には全く見られなくなりました。歩行者天国が各地で解消されていますが、原宿地区は話題になっても日本橋・上野地区ではそれすらならなかったことも記憶に新しいところです。

 本拙論および「私的流通論」ことはじめに対する御意見・御批判・質問等をお待ちしております。


消えたモナリザの微笑み  〜東急日本橋店はなぜ閉店したのか〜

 去る1月31日を持って、白木屋以来336年の歴史を有する東急百貨店日本橋店はついにその幕を下ろすこととなった。昨年9月の「店じまい」発表から、特に1月中の「閉店セール」での「騒動」「現象」を巻き起こすまでに至った姿の一時一時を見てきた私にとって、感慨に浸らざるを得なかったものである。とはいえ、デパート「商業都心」論およびその補綴でも記したとおり、バブル経済崩壊前後から、ある意味でこの「結果」が見えていた、といっても事実であり、なぜ閉店してしまったのかを考えてみると、この店独自での「企業努力」が全く感じられなかったと断じることができ、その意味でも残念で仕方が無いところである。

 なぜここまで肩入れするのかというと、筆者は営団東西線沿線に居住して20年以上、確かに今では周辺に大型スーパーが林立しているが、昔も今も「大物」や贈答品などは百貨店で買うことが多く、電車1本で行ける日本橋地区デパート群は沿線住民にとって馴染み深いものがあったからである。中でも三越・高島屋のように「沿線新興住民」にはなんとなく敷居の高い百貨店とは対照的な東急日本橋店は不思議な落ち着きを持たせてくれる店であり、大袈裟に言えば我が家の「メインデパート」たる存在でもあったのである。
 幼児体験として(東急)百貨店は、「怖いけれど楽しいところ」であった。自宅周辺にまだ医療施設が充実しておらず、ムシ歯の治療に東急日本橋店内にあった「東急歯科医院」を利用していたのである。母親に連れられて最初は怖い思いをしたあと、がんばったご褒美にとおもちゃを買ってもらった(というかそれを目当てで我慢していた…)ものである。また、毎夏恒例の鉄道模型ショーも楽しみのひとつであった。銀座松屋で行われるほうが有名だが、昔は東急でもやっていたのだ。何かにつけ、日本橋に連れて行かれたのを覚えている。贈答品などで高島屋を利用したときも帰りは必ず東急に寄っていた。帰宅する段になって地下食料品売り場の片隅にあった生ジュース販売コーナーで一服するのも楽しみだった。今でもあのときのイチゴジュースの味は忘れない…。

 こういう言い方も変だが、「大人になる」につれ、やはり百貨店とは疎遠になるものだ。その意味で、久々に行って「ずいぶんと変わったなぁ」とつくづくと思ったものである。それが今思うと「坂道を転がり出した」ころであろうか。
 東急百貨店(のみならず、多くの企業)が、バブル期に本業を差し置いた財テクを積極化させ、結果大きな痛手を被ることになる。92年に上場以来初の赤字を計上、証券会社による損失補填問題や山一證券が落ちていった「飛ばし」問題でもその名前が浮上、本業でもバブル崩壊後売り上げが低迷することになる。ちなみに日本橋店は89年度から赤字に転落している。
 建物そのものは、かの「白木屋火災」(1932)以来のもので、増改築を繰り返してきたとはいえかなり老朽化していた。地下も2階あったがB2の天井は手を伸ばせば触れるほど低く、ここに衣類セール品などが置かれており防災上の危険性も高かった。しかしながら私の記憶が正しければ、ここ5年以上大規模な店舗改修は行われていないはずである。更なるヘビーユーザーである筆者の母に言わせると、「食料品売り場が貧弱になっていった」とのこと。贈答関係品を買うにも老舗テナントがいつのまにかひとつふたつと消えてゆき、歯抜け状態になっていったという。確かにこの「売り尽くし」セール期間では店内各所に休憩処が設けられていたが、裏を返せば販売品・テナントの見なおしが「後向き」であった結果だったとも言えそうである。貧弱さはセキュリティーにも現れ、98年には4月と9月と、2回も宝石ドロに押し入られている。

 そうこうしているうちに、百貨店業界を取り巻く環境は急速に悪化、外商中心で推移していた日本橋地区百貨店各社にとって体質の転換そのものが迫られる事態となった。百貨店のみならず頼みの東急グループ自体が厳しい状況に追い込まれる中、株価がついに100円を割った東急百貨店は日本橋店の閉店・売却を決断するに至った(98年9月)。理由として「日本橋周辺の人口が減っており、客層も高齢化している」とされているが、本当の理由としては財テクの失敗から来た経営上の失策を埋める「人柱」的なもの、支援する出資銀行に対するインパクトのあるアピールを狙ったものといえよう。その意味で本来の商売道という意気込みは全く感じられない。そして、市場もそれを必ずしも積極的には受け止めなかったのである。
 そもそも、白木屋合併(1958)当時の東横百貨店にとって欲しかったのは旗艦店舗であり、そのころの東京の商業中心を考えれば間違った戦略ではなかった。しかし商業中心が次第に東京西部、東急グループ総本山である渋谷や沿線地域に拡大して行く中で、日本橋というポジションはグループ的に見ても百貨店での地域周辺同業者バランスを見ても中途半端過ぎ、お荷物的存在と見られても致し方なかったとも言える。しかし利用者側からすれば日本橋が必ずしも商業過疎化しているとは言えず、目に見える経営努力もなしに「はい、さようなら…」では納得できない想いが残っても仕方ないというものだ。

 そして年は明け、ついに「売り尽くしセール」が始まった。2日の初売りからの1ヶ月間は、まさしく1大フィーバーを巻き起こすこととなる。筆者の母は中旬に1度行ったがあまりの人いきれに参って早々に引上げたそうだ。それでもある店員と話していたところによれば「ブランド品は単なる客寄せ。数もそうそう無い。マスコミにあおってもらうからこそこれだけ来たのかも。最後の1週間はもっと安くなる。といっても他にも店舗があるからそこで調整をして、いわゆる「バーゲン品」が集まっているだけに過ぎないよ」という。実際売れたのは宝石や絵画といった高額商品で、入ってみたが冷やかしで手ぶらで帰る人も多かったようだ。
 筆者も最終日に顔を出してみたが、まあよく客が集まったもんだと感心…?あちこちで店員が声を張り上げていたが、数年前の店内の荒廃ぶりを想えば、ここにも方針次第で変われるものがあったのでは…と想うと足早に出口へと向いていた。ぶっちゃけて、最後の1ヶ月はもっとも東急らしからぬものであったのかもしれない。

 かつての東急の紙袋はモナリザをかたどったものだった。シンプルながら品を感じさせる三越・高島屋とは違い、おしゃれながらなんとなく泥臭さをも感じさせたものだ。気づけばそれがダイヤリングを模したデザインに変わっていた。様々な意味で「異端」であった店に1週間後行って見ると、もちろんながらすべてのシャッターが降ろされ、ここかしこに御礼のポスターが貼られていた。B2の日本橋駅口は衝立で封鎖されていた。電車に乗っても「次は日本橋、東急百貨店・高島屋前です」と言わなくなった。ちなみに閉店翌日の新聞夕刊の片隅に他の事件で捕まった外国人窃盗集団が東急日本橋店での2件の犯行関与供述を始めた、と記されていた。

 本当に、東急百貨店日本橋店は「敗北」したのだろうか…。

主要参考文献  週刊ダイヤモンド 「瀕死の百貨店・スーパー」98.12/19号
「東急グループ 最悪の事態」99. 1/16号

2004.11.15 Update

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